第6話:ボロボロになった一冊の文庫本
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図書室の空気が、完全に静止していた。
俺の視線の先にあるのは、白峰莉音が大事そうに胸に抱きしめている一冊の文庫本だ。
『さよなら、完璧だった嘘つきな君へ』
著者:文月ソウ
それは紛れもなく、俺が中学の終わりに書き上げ、高校一年の春に商業出版され、そしてたった数ヶ月で打ち切られて絶版になった『俺の過去』そのものだった。
「これ? これはね、私が世界で一番尊敬している『神作家様』の小説よ。……私、この本に救われて、自分でも小説を書き始めたの」
白峰の放った言葉が、俺の脳内で何度もエコーのように反響する。
(……は?)
思考が停止する。
待て。待て待て待て。情報が多すぎて処理が追いつかない。
この完璧な氷の生徒会長が、ポンコツな変装をしてまで本屋でライトノベルを漁っていたのも。
構成の破綻した、だけど感情だけはやたらと重たい『魔法使いと暗殺者』のWEB小説を書いていたのも。
すべては、俺の書いた、あの爆死した打ち切り小説の影響だったというのか。
「……お前、それ。読んだのか」
自分の声が、ひどく掠れているのがわかった。
白峰はこくりと頷き、文庫本の表紙を愛おしそうに撫でた。
「読んだなんてもんじゃないわ。もう何十回、何百回読んだかわからないくらい。……ほら、見て」
彼女が少しだけ本を傾けて見せてくれた小口の部分には、色とりどりの細い付箋が、まるで鳥の羽のようにびっしりと貼られていた。
表紙のカバーは擦り切れ、ページは何度もめくられたせいで波打っている。
それは、一人の読者がその物語を骨の髄まで愛し抜き、共に生活してきた何よりの証明だった。
「……でもそれ、一巻で打ち切られてるだろ。世間的には失敗作、いや、誰にも読まれなかったゴミみたいな本じゃないか」
俺は無意識のうちに、かつてネットのレビューや売上データを見て自分自身に浴びせた呪いの言葉を口にしていた。
だが、その言葉が白峰の逆鱗に触れたらしい。
「ゴミなんて言わないでっ!!」
図書室に、彼女の鋭い怒声が響いた。
俺はビクッと肩を震わせる。白峰は涙目で俺をキッと睨みつけていた。
「世間の評価なんて関係ないわ! 売れなかったから失敗作? そんなの、ただ数字しか見てない頭の固い大人たちの妄言よ! この本はね、構成の美しさもさることながら、何よりもヒロインの痛みが、痛いほど伝わってくる大傑作なんだから!」
彼女は俺との距離を詰め、熱に浮かされたような早口で語り始めた。
「完璧であることを強いられた優等生のヒロインが、誰かを庇うために密室事件の犯人のふりをする。周囲の人間は誰も彼女の嘘に気づかず、ただ彼女を冷たい目で糾弾する。……でも、主人公の男の子だけは違ったの」
白峰は文庫本をぎゅっと胸に押し当て、震える声で紡ぐ。
「彼は無気力で、いつも眠そうで、周囲のことなんてどうでもいいって顔をしてる。なのに、彼女がたった一つだけ残した『SOSのサイン』を見逃さなかった。圧倒的なロジックで彼女の完璧な嘘を暴いて……そして、こう言ったの」
『お前は完璧なんかじゃない。不器用な嘘をつく、ただの泣き虫だ』
白峰が暗唱したそのセリフは、かつて俺が、ノートパソコンの画面に向かって、祈るような気持ちで叩き出した一文だった。
「……私、このシーンを読んだ時、ベッドの中で声を出して泣いたわ。だって、まるで私のことを言われているみたいだったから」
白峰の瞳から、ツーッと一筋の涙がこぼれ落ちた。
「私、ずっと息苦しかったの。家でも、学校でも、『白峰家の娘』として、『生徒会長』として、絶対に失敗しちゃいけない、完璧でいなきゃいけないって……。本当は要領が悪くて、ポンコツで、可愛いものが大好きなのに、誰にもそれを見せられなくて、ずっと孤独だった」
彼女はぽつりぽつりと、自分の心の奥底にある傷を吐露していく。
「でも、文月ソウ先生は、この本の中で言ってくれた。完璧な人間なんていない。不器用なままでいいって。……先生の紡ぐ言葉が、私の凍りついていた心を溶かしてくれたの。この本は、私のバイブルなのよ」
俺は、何も言えなかった。
肺の中の空気がすべて入れ替わってしまったような、不思議な感覚だった。
(……ああ、そうか)
俺の小説は、打ち切られた。世間には届かなかった。
才能なんてないと思い知らされ、筆を折り、物語の世界から逃げ出した。
自分の書いたものなんて、誰の記憶にも残らない紙クズだと思っていた。
だが、届いていたのだ。
たった一人。
ここに、俺の言葉に救われ、俺の物語を聖書のように抱きしめて生きている少女がいる。
「だから私、自分でも小説を書き始めたの」
白峰は涙を拭い、少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「文月先生が私を救ってくれたみたいに、私も誰かの心を温められるような、そんなお話を書きたくて。……『ぴょんぴょんウサギ』なんてふざけたペンネームにしたのも、完璧な自分から一番遠い、可愛い名前にしたかったからなの」
そこで彼女は言葉を切り、先ほど俺に突き返された自作の原稿用紙を見つめた。
「……でも、夏目さんの言う通りね。私には才能がないし、ただの自己満足だったわ。先生みたいな美しい物語なんて、私に書けるわけないのに」
彼女は俺に無理に笑いかけて、深く頭を下げた。
「引き止めてごめんなさい。……アドバイス、本当にありがとう。この原稿は、記念に取っておくわ」
そう言って、彼女は図書室の出口へと背を向けた。
その背中は、ひどく小さく、今にも壊れてしまいそうに見えた。
(……ふざけるな)
俺の中で、何かが弾けた。
俺はただの無気力な高校生だ。面倒事はごめんだし、他人の人生を背負う覚悟なんてない。
……だが。
『元・商業作家、文月ソウ』として。
自分の物語をここまで愛してくれた『たった一人の熱狂的な読者』を、こんな絶望した顔のまま帰すことだけは、クリエイターの魂が絶対に許さなかった。
「……おい、待てよ」
俺は乱暴に頭を掻きむしりながら、彼女の背中に声をかけた。
「えっ……?」
振り返る白峰に向かって、俺は大股で歩み寄り、彼女の手にある原稿用紙の束をひったくるように奪い取った。
「な、夏目さん?」
「……前言撤回だ。俺はお前の担当編集になる」
白峰が、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で固まった。
俺は深々とため息をつき、三白眼で彼女を睨み下ろす。
「勘違いするな。お前の才能を認めたわけじゃない。ただ、俺があれだけ完璧に構成を直してやったのに、お蔵入りにされるのがムカついただけだ」
「で、でも、夏目さん、さっきは自己満足に付き合う暇はないって……」
「だから、自己満足で終わらせないって言ってんだよ」
俺は原稿を丸めて、彼女のおでこを軽くコツンと叩いた。
「俺が教えるからには、生半可な覚悟じゃ許さない。底辺WEB作家のまま終わる気なんて毛頭ないからな」
「えっ……それじゃあ」
「まずはPV三ケタ、そして感想を一つもらうこと。最終目標は……そうだな、ランキングのトップに食い込んで、書籍化のオファーを勝ち取ることだ」
俺がさらりと言ってのけた目標に、白峰は目を丸くした。
「そ、そんなの無理よ! 私の作品なんてまともに読まれたこともないのに……っ」
「無理じゃない。俺とお前で、書くんだ。……お前が愛したその『神作家』の物語を超えるくらいの、最高のやつをな」
俺は、白峰が抱きしめている『さよなら、完璧だった嘘つきな君へ』の文庫本を一瞥して、不敵に笑ってみせた。
(……悪いな、白峰。お前の崇拝する『神作家様』は、今お前の目の前で偉そうにしている、この無気力なバイト店員なんだわ)
正体を明かす気は、まだない。
だが、彼女の止まっていた時間を動かすためなら、俺はどんな悪役にでもなってやる。
「……夏目、さん」
白峰の大きな瞳から、今度こそ大粒の涙がぽろぽろと溢れ出した。
彼女はぐしぐしと袖で涙を拭うと、氷の令嬢とは程遠い、くしゃくしゃの笑顔を向けた。
「……はいっ! よろしくお願いします、夏目編集長!」
「編集長は偉そうだからやめろ。普通に夏目でいい」
夕日に染まる図書室。
こうして、ポンコツ底辺WEB作家『ぴょんぴょんウサギ』と、正体を隠した元プロ作家『文月ソウ』の、誰にも言えない秘密の共犯関係が、正式に幕を開けたのだった。




