第32話:打ち切り作家の、たった一つの切り札
第一会議室に、重苦しく、そしてひどく居心地の悪い沈黙が降りていた。
窓の外では、いつの間にか降り出した雨が、ガラス窓を規則正しく叩いている。
その雨音だけがやけに大きく響く室内で、権田教諭は額に青筋を浮かべ、長机を挟んで対峙する俺を睨みつけていた。
「……夏目。君は今、自分が何を言っているのか理解しているのか?」
地を這うような、低い声だった。
「ただの高校生の君が、このノートに書かれた『テロ計画』の真の意図を誰よりも理解していると? これは物語にすぎず、だから無罪だと言い張るのか。……いい加減にしたまえ!」
ドンッ! と、権田教諭が再び机を強く叩いた。
「たとえ百歩譲って、これが君の言う通り『小説のメモ』だったとしよう。だが、本校の設備を利用した爆破や殺戮の計画を文章化し、それを持ち歩くこと自体が、生徒会長として、いや、青海高校の生徒として著しく不適切だ! それを『ただの物語だから』で正当化できると思っているのか!」
「そうです! それに、なぜ貴様がそのノートの意図を代弁できる!」
長谷川も、権田教諭の勢いに乗じて俺を指差した。
「貴様はただ、自分のしでかした悪事を誤魔化すために、もっともらしい屁理屈を並べているだけだろう! 他人の脳内を、部外者の貴様が完全に把握できるはずがない!」
大人たちの正論と、優等生の妄想。
彼らは「秩序」という名の剣を振りかざし、俺と白峰莉音を絶対に逃げられない壁際へと追い詰めようとしていた。
ふと視線を落とすと、俺のすぐ隣で、白峰莉音が小さく肩を震わせていた。
「……もう、いいから」
彼女は、消え入りそうな声で呟いた。
その顔は青ざめ、唇は噛み締めすぎて血が滲んでいる。
「夏目さん……ごめんなさい。私が、あんな不謹慎なノートを書いたから……。全部私が悪いんだから、もう、庇わないで……っ」
「白峰」
「これ以上逆らったら、夏目さんまで停学にされちゃうわ……! 私のせいで、あなたの日常まで壊したくない……っ。だから、もうやめて……!」
それは、彼女なりの精一杯の強がりであり、俺への贖罪だった。
自分が大切に守ってきた「完璧な生徒会長」の仮面を自ら割り、底辺WEB作家という見られたくない黒歴史を暴かれる恐怖に耐えながら、それでも俺だけは守ろうとしている。
どこまでも不器用で、真面目で、そしてお人好しなポンコツ作家。
(……馬鹿が。お前の日常(執筆)を守るのが、担当編集の仕事だろうが)
俺は、白峰の震える肩から視線を外し、ゆっくりと息を吸い込んだ。
そして、自分の前髪を無造作にかき上げ、権田教諭と長谷川を真っ向から見据えた。
「……長谷川。お前はさっき、『他人の脳内を、部外者が把握できるはずがない』って言ったな」
「あ、ああ、言ったとも! それがどうした!」
「権田先生も、『なぜお前が代弁できるんだ』と俺に問うた」
「当然だ。君は単なる一介の生徒にすぎないのだからな」
俺は「ふっ」と、腹の底から湧き上がるような、乾いた笑いを漏らした。
そうだ。俺はただの生徒だ。青海高校では、日陰を歩くただの無気力な帰宅部だ。
だが、この『物語』という盤上に限って言えば、俺は一介の生徒でも、単なる部外者でもない。
「……アンタらの言う通りだ。他人の創作物の意図なんて、普通は百パーセント理解することなんてできやしない。読者の解釈は、どこまでいっても想像の域を出ないからな」
俺は長机の上に置かれた『創作ノート』に手を伸ばし、それを乱暴に掴み上げた。
「だが、例外が一つだけある。……このノートに書かれた『暗黒騎士』と『ヒロインの嘘』、そして『密室の絶望』というテーマ。……これが、白峰莉音の完全なオリジナル作品ではなく、ある『既存の物語』をベースに構築されたものだとしたらどうだ?」
「……既存の、物語?」
権田教諭が怪訝な顔をする。
隣で、白峰がハッと息を呑む気配がした。
「夏目、さん……?」
白峰が、信じられないものを見るような目で俺を見上げた。
無理もない。彼女が今書いているWEB小説が、かつて俺が打ち切られた『さよなら、完璧だった嘘つきな君へ』の世界観やロジックに多大な影響を受けていることは、彼女自身の脳内にしかない秘密のはずなのだから。
なぜ、ただの「バイト先の先輩」である俺が、その根幹のルーツに気づいているのか。
「……いいか、権田先生。このノートに書かれている内容は、単なる不謹慎な妄想でも、学園へのテロ計画でもない。……これは、ある商業小説の世界観を引き継ぎ、その続きを描こうとした『公式の二次創作プロット』だ」
「二次創作……? 商業小説の……?」
「そうだ。タイトルは『さよなら、完璧だった嘘つきな君へ』。……知ってますか? 一部の愛好家から熱狂的な支持を受けながらも、売上が振るわずに第一巻で無惨に打ち切られた、出来の悪いファンタジー小説ですよ」
俺は、自らの黒歴史を口にする痛みに耐えながら、淡々と、しかし力強く言葉を紡いだ。
「このノートの計画は、その小説の『未完に終わった第二巻』の構想をベースに作られている。……ヒロインを絶望的な密室に閉じ込め、そこに毒ガスという絶対的な死のタイムリミットを設ける。それは、本家本元の物語で用意されていた、最大のクライマックスの舞台装置そのものなんだよ」
会議室が、水を打ったように静まり返った。
役員たちは顔を見合わせ、権田教諭は眉間に深いシワを刻んで思考を巡らせている。
「……でたらめを言うな、夏目!」
沈黙を破ったのは、やはり長谷川だった。
「仮に、会長がその打ち切り小説とやらの二次創作を書いていたとしよう。だとしても、それが『公式』だなどと、どうして貴様が断言できる! 原作者の許可も取らずに、学校を爆破するような不謹慎な設定を書き連ねているなら、それは悪質な著作権侵害であり、やはり会長の精神的な問題行動であることに変わりはない!」
長谷川の叫びに、権田教諭も深く頷いた。
「その通りだ。君がどれほどその小説の熱心な読者であろうと、原作者の意図や『未完の第二巻の内容』など、知り得るはずがない。……君はただ、自分に都合の良い設定をでっち上げ、白峰の罪を軽くしようとしているだけだ」
大人たちの分厚い壁が、再び俺を押し潰そうと迫り来る。
ただの高校生の言葉など、彼らは端から信じる気はないのだ。
(……ああ、そうだよな。普通は信じない。ただの高校生が、未完の商業小説のプロットを知っているなんて)
俺は、小さく息を吐いた。
そして。
今まで隠し通してきた『無気力な高校生』という分厚い殻を、自らの手で完全に叩き割った。
「でっち上げじゃありませんよ」
俺は、ノートを机の上にバンッと叩きつけ、権田教諭と長谷川の目を真っ直ぐに射抜いた。
「俺が、その『未完の第二巻の内容』を知っているのは、熱心な読者だからじゃない。……そのプロットの原案を考えた張本人が、俺だからだ」
「……は?」
「……え?」
長谷川の間の抜けた声と、白峰の掠れた声が、同時に重なった。
「な、何を言っている……君が、考えた……?」
権田教諭が、理解の範疇を超えた言葉に目を白黒させる。
俺は一切の表情を崩さず、静かに、しかし絶対的な威圧感を持って宣告した。
「言葉通りの意味ですよ。……このノートは、紛れもなく俺の頭の中にあったプロットを共有し、彼女と一緒に構築した『公式の物語』だ。読者を犯罪者扱いするのは、やめてもらおうか」
外の雨音が、一瞬だけ止んだかのように錯覚するほどの、完全な静寂。
白峰莉音が、隣で信じられないものを見るように、俺の横顔を凝視している。
さあ。
ここからが、打ち切り作家による、最大最強の反撃の始まりだ。




