第26話:消えた創作ノート(ネタ帳)
物書きにとって、絶対に他人に覗かれてはならない『聖域』がある。
それは、完成した原稿でも、推敲中の下書きでもない。
頭の中に浮かんだままの、ろ過されていない感情や設定、そして倫理観の欠如した物騒なアイデアを、勢いだけで書き殴った『ネタ帳』だ。それはクリエイターの脳みそを直接開いて見せるようなものであり、全裸を見られるよりも遥かに恥ずかしく、そして危険な代物である。
放課後。純喫茶『琥珀』の指定席。
俺は冷えかけたコーヒーの氷をストローでつつきながら、時計の針を見つめていた。
「……遅いな」
約束の時間を三十分以上過ぎている。
普段なら、ホームルームが終わると同時に、生徒会の仕事を光の速さで片付けてこの店に駆け込んでくるはずの白峰莉音が、まだ現れない。
昼休みに「解決編を聞かせてあげる」とドヤ顔で語っていた彼女が、わざわざ遅刻する理由など考えられなかった。
何か生徒会で急なトラブルでもあったのか。
そう思い、俺がスマホを取り出してメッセージを送ろうとした、その時だった。
カランカラン、と喫茶店のドアベルが力なく鳴った。
「…………夏目、さん」
そこに立っていたのは、この世の終わりを目撃したかのように、顔面を真っ白に蒼ざめさせた白峰莉音だった。
彼女は幽霊のような足取りで俺の向かいの席に座ると、テーブルの上に突っ伏し、ガタガタと震え始めた。
「おい、どうした。顔色が死人のそれだぞ。生徒会でクーデターでも起きたか?」
俺が冗談めかして尋ねると、白峰は涙目でゆっくりと顔を上げた。
「……ないの」
「何が?」
「ないのよ……っ! 私の、あの……『創作ノート(絶対に見るな!!)』が……どこを探しても、ないのぉぉぉっ!!」
悲痛な叫び声が、ジャズの流れる店内に響き渡った。
俺は思わず、持っていたストローを落としそうになった。
「は……? お前、昼休みに『命の次に大切だから絶対に手放さない』って豪語してたじゃねえか」
「だって! あの後、急いで移動教室に向かって、そのまま体育の授業で着替えて……放課後になって生徒会室で鞄を開けたら、どこにもなくてっ!」
白峰は両手で頭を抱え、髪をくしゃくしゃにかき乱した。
「更衣室も、移動した廊下も、体育館も全部探したわ! でも、どこにも落ちてなかったの! どうしよう夏目さん、もし誰かに拾われて、中身を読まれたら……っ」
「落ち着け。ただの小説のネタ帳だろ。恥ずかしいのは痛いほどわかるが、社会的に死ぬわけじゃ――」
そこまで言いかけて、俺はハッと息を呑んだ。
(……待てよ。あいつが昼休みにドヤ顔で見せてきた、あのノートの『中身』って……)
俺の脳裏に、数時間前の渡り廊下でのやり取りがフラッシュバックする。
ノートに書き殴られていた、恐るべき文字列の数々。
『ターゲット:全校集会』
『実行場所:体育館の扉をすべて南京錠で封鎖』
『発火装置:化学準備室の薬品で爆発を起こす』
『結果:大量殺戮の完成』
ファンタジー小説の密室トリックのメモ。だが、それを書いた本人の口から説明を聞いていない第三者が、もしあの『青海高校の図面』と『具体的なテロ計画』だけを見たら、一体どう思うだろうか。
「……白峰。お前、あのノートに『これは小説のプロットです』って注意書きは……」
「書いてないわよ! だって自分用のメモだもの! 表紙にでっかく『絶対に見るな』って書いただけよ!」
「一番ダメなやつじゃねえか!!」
俺は頭を抱えた。
『絶対に見るな』と書かれたノートに、学校の体育館を爆破して大量殺戮を行う計画が、図面付きで詳細に書かれている。
控えめに言って、特級の危険人物である。警察(公安)が動いてもおかしくないレベルだ。
「……っ、とにかく学校に戻るぞ! 誰かが拾って職員室に届ける前なら、まだ間に合うかもしれない!」
俺はテーブルにコーヒー代を叩きつけ、白峰の腕を掴んで喫茶店を飛び出した。
*
夕闇に包まれ始めた青海高校。
部活動の生徒たちもまばらになり、校舎は不気味な静寂に包まれていた。
俺と白峰は、彼女が昼休み以降に通ったルート――渡り廊下、体育館、更衣室、そして階段と、目を皿のようにして探し回った。
だが、どこにもあの物騒なノートは落ちていない。
「……はぁっ、はぁっ……ない……どこにもない……っ」
「誰かが拾ったのは確定だな。問題は、それが『誰』かだ」
心優しい生徒が「落とし物」として中身を見ずに届けてくれたなら、まだ言い訳のしようもある。
俺たちが、一縷の望みをかけて職員室の前までやってきた、その時だった。
「――やはり、私の危惧していた通りでした」
職員室の少し手前、応接室の前の廊下で。
硬く、冷たい声が響いた。俺と白峰は咄嗟に角の陰に身を隠し、声の主を窺った。
そこに立っていたのは、生徒会副会長の長谷川。
そしてその対面にいるのは、青海高校で最も厳格で、冗談が一切通じないことで恐れられている生活指導の鬼――権田教諭だった。
「権田先生。それが、生徒会室の前に落ちていたというノートですね」
「ああ……。信じられん。本校の生徒の中に、これほど恐ろしい、おぞましい計画を企てている者がいるとは」
権田教諭の太い指に握られていたのは。
間違いなく、白峰の『創作ノート(絶対に見るな!!)』だった。
「っ……!!」
隣で、白峰がヒュッと息を呑む音が聞こえた。
最悪だ。よりにもよって、一番見つかってはいけない人間の手に渡ってしまっていた。
「体育館の封鎖、化学薬品を用いた爆発、そして……全校集会を狙った大量殺戮。……これは単なるイタズラで済まされる内容ではない。明確なテロリズムだ」
「ええ。しかも、このノートの筆跡……。私には、誰が書いたものか見覚えがあります」
長谷川が、眼鏡の奥をギラリと光らせて言った。
彼の頭の中には、すでに『自分だけの真実』が完成しているのだろう。
すなわち、「夏目創に脅され、精神を病んだ白峰会長が、学園を破壊するために書かされた(あるいは自暴自棄になって書いた)狂気の計画書」という、盛大な勘違いのシナリオが。
「……明日、朝一番で『緊急生徒会役員会議』を開く。このノートの持ち主を特定し、厳重な処罰、いや……場合によっては警察への通報も視野に入れねばならん」
権田教諭の重々しい宣言が、冷たい廊下に響き渡る。
長谷川が深く頷き、二人は応接室の中へと消えていった。
……静寂。
廊下の角に隠れたまま、白峰莉音は壁に背中を預け、ズルズルと力なく座り込んだ。
「お、終わった……。私の、完璧だった生徒会長の人生……終わったわ……」
彼女の瞳からは光が失われ、完全に絶望の底へと叩き落とされていた。
小説のネタだと言えば、「全校生徒の模範たる生徒会長が、こんな不謹慎な妄想ノートを書いているのか」と糾弾され、さらに底辺WEB作家だという裏の顔までバレて社会的に死ぬ。
かといって黙秘すれば、本物のテロリストとして警察送りにされる。
まさに、彼女が自分で考えた『絶対に逃げられない、究極の密室』が、現実世界で彼女自身に牙を剥いた瞬間だった。
(……仕方ねえな。ここで俺が逃げたら、担当編集の名折れだ)
俺は、座り込んで震えるポンコツ作家の頭に、ポンと手を乗せた。
「夏目、さん……っ」
「泣くな。お前はただのファンタジーを書いただけで、何も悪いことはしてない」
俺は薄暗い廊下の先――権田教諭たちが消えた扉を見据え、小さく首を鳴らした。
「明日の緊急会議。……俺がなんとかしてやる。お前はただ、いつもの『完璧な氷の生徒会長』の顔をして、堂々と座ってろ」
こうして、一つの不注意から生まれた『勘違い』は最高潮に達し。
大人たちを巻き込んだ、最大の逆転劇の幕が切って落とされたのである。




