第23話:神作家『文月ソウ』への熱すぎる愛
理不尽なアンチコメントという、見えない刃。
画面を閉じた後も、白峰莉音はしばらくの間、俯いたまま肩を震わせていた。
「……気に病むな。ランキングに載れば、こういう『自分より目立っている奴を引き摺り下ろしたいだけ』の愉快犯は必ず湧いてくる」
俺は冷えかけたアイスコーヒーを一口飲み、静かに語りかけた。
「百人が『面白い』と言ってくれても、たった一人の『つまらない』という言葉が呪いのように頭にこびりつく。それがモノを作る人間の業だ。……だが、あの言葉に屈して筆を折れば、お前の物語を待っている百十五人の読者を裏切ることになるぞ」
俺の言葉に、白峰はギュッと拳を握りしめた。
数分間の沈黙の後。彼女は深く、震える息を吐き出し、バッと顔を上げた。
「……負けないわ。私、青海高校の生徒会長だもの。いわれのないクレーム処理なんて、日常茶飯事よ」
その瞳には、まだ少し涙の跡が残っていたが、確かに強い光が宿っていた。
「でも……やっぱり、少しだけ心が削られちゃった。……だから夏目さん、少しだけ休憩をもらってもいい? 私の『魂の充電』に付き合ってほしいの」
「魂の充電? なんだ、甘いものでも頼むか?」
「ううん。これよ」
白峰は鞄の中をごそごそと漁り、一冊の古びた文庫本を取り出して、恭しくテーブルの上に置いた。
ボロボロになるまで読み込まれ、無数の付箋が貼られたその本。
――『さよなら、完璧だった嘘つきな君へ』。
著者名:文月ソウ。
それを見た瞬間、俺の全身から嫌な汗がドッと噴き出した。
言うまでもない。それはかつて俺が書き、そして一巻で無惨に打ち切られた『黒歴史』そのものだ。
「……おい。よりによって、なんで今それを……」
「心が折れそうな時は、いつだって文月先生の言葉が私を救ってくれたの! ねえ夏目さん、聞いて! 私、この物語の終盤で、主人公がヒロインの嘘を暴くシーンが本当に大好きなの!」
先ほどまでの落ち込みはどこへやら。
白峰は完全に『限界オタク』の顔になり、鼻息を荒くして本を開いた。
そして、俺が止める間もなく、そのシーンを抑揚たっぷりに朗読し始めたのだ。
「いい!? ヒロインが自分の罪を隠して完璧な嘘をつき通そうとした時、主人公が泣きながらこう叫ぶの!
『――完璧な嘘なんてない! 君が泣きそうな顔で笑うから、俺は騙されたフリをするしかなかったんだ!』
……っあああああ! 最高っ! 嘘を見抜いた名推理じゃなくて、優しさゆえの共犯関係! 天才としか思えないわ!!」
(っっっっっぐああああああああああああああっ!!)
俺はテーブルの下で、自分の太ももを力一杯つねった。
死にたい。今すぐこの場から消え去りたい。
そのセリフを書いた時のことを、俺は鮮明に覚えている。締切の二日前、どうしても鮮やかな謎解き(トリック)が思いつかなくて、担当編集から「もう論理じゃなくて、感情論で押し切って泣かせましょう!」と言われて、ヤケクソのテンションで書き殴った苦し紛れのセリフだ。
それを、こんな真昼間の喫茶店で、美少女に大声で朗読されるなんて、どんな高度な拷問だ。
「それだけじゃないの! この主人公のセリフ、実は序盤でヒロインが言った『優しい嘘ならついてもいいよね』っていう言葉への、完璧なアンサーになっていて……文月先生は、最初からこの結末を描くために、緻密な伏線を張っていたのよ! まさに神の知能劇ね!」
(違う違う違う違う!! 単にヒロインの序盤のセリフを回収し忘れてて、校正の段階で「ここ矛盾してませんか?」ってツッコまれて、後から無理やり繋ぎ合わせただけなんだよ!!)
俺の心の中での絶叫など知る由もなく、白峰の熱弁は止まらない。
「ねえ夏目さん! この行間の取り方もエモくない!? 読者の呼吸を完全にコントロールしているわ! これだけ物語の作りに詳しい夏目さんなら、この文月先生の凄さがわかるでしょ!?」
「あー……うん。まあ……作者も、色々……ノリと勢いで書いてた部分が、あるんじゃないか……?」
「ノリ!? ありえないわ! 文月先生の文章には、一文字たりとも無駄がないの! 全てが完璧に計算された芸術作品なのよ! 夏目さん、あなた本をたくさん読んでるくせに見る目がないわね!」
俺は両手で顔を覆い、テーブルに突っ伏した。
自分の熱狂的なファンに「見る目がない」と怒られる原作者(俺)。シュールすぎて涙が出てきた。
「ちょ、ちょっと夏目さん? どうしたの、顔が真っ赤よ? 具合でも悪いの?」
「……お前の、その熱量に……当てられただけだ。頼むから、もうその本はしまってくれ。俺のライフはゼロだ……」
俺が掠れた声で懇願すると、白峰は「もう、大げさなんだから」と笑いながら、愛おしそうに文庫本を鞄にしまった。
「でも……ありがとう、夏目さん。おかげですっかり元気が出たわ。文月先生の文章に触れると、私の中の『書きたい』って気持ちが、無限に湧き上がってくるの」
白峰はノートパソコンを開き、凛とした表情でキーボードに手を置いた。
「一部のアンチなんかに負けない。私のお話を楽しみに待ってくれている読者のために……そして、いつか私が『文月ソウ』先生のような神作家になるために。私、最高のお話を書くわ!」
やる気を百二十パーセントまで回復させた白峰莉音は、再び凄まじい勢いでタイピングを開始した。
その横顔は自信に満ち溢れ、昨日までの迷いは完全に消え去っていた。
(……やれやれ。俺の黒歴史がこいつのエネルギー源になるなら、安いもんか)
俺はまだ火照っている顔を冷たいグラスに押し当てながら、深くため息をついた。
ランキング急浮上と、アンチの襲来。
そして、それらを乗り越えたポンコツ作家の筆は、いよいよ物語の大きな山場――『クライマックス』へと差し掛かろうとしていた。
それが、現実の俺たちに、とんでもない波乱を巻き起こす引き金になるとも知らずに。




