第20話:怪文書の正体は、不器用すぎるSOS
「俺は帰って寝る」と言い捨てて空き教室を後にした俺だったが、真っ直ぐ校門には向かわなかった。
テスト明けの乾いた喉を潤すために、中庭の隅にある自動販売機で微糖の缶コーヒーを買い、プシュッとプルタブを開ける。
そこは奇しくも、旧校舎の裏へと続く細い通路の死角だった。
少し休んでから帰ろうと壁に背中を預けた俺の耳に、ザッザッと土を踏む複数の足音が聞こえてきた。
「……会長! 私の後ろに隠れてください。どんな危険な輩が潜んでいるかわかりません!」
長谷川の過剰に気負った声だった。
どうやら俺の推理通り、馬鹿正直に旧校舎の裏まで調査にやってきたらしい。俺はため息をつきながら、壁の陰から少しだけ顔を出し、彼らの様子を窺った。
西日が差し込む旧校舎の裏。
枯れ葉が吹き溜まるフェンスの脇に、一人の小柄な女子生徒がうずくまっていた。
ネクタイの色からして、一年生だ。彼女は自分のカーディガンを何か小さな箱のようなものに被せ、怯えたように震えていた。
「おい、そこの一年! こんなところで何をしている!」
長谷川が威圧的な声を上げると、一年生の女子は「ひぃっ!」と悲鳴を上げて箱を庇った。
「白峰会長との『恐ろしい密約』とやらに関係している輩だな! 会長の裏の顔を知っているというのは貴様か! さあ、洗いざらい――」
「待って、長谷川君。少し静かにして」
長谷川の怒声を遮ったのは、白峰の静かで落ち着いた声だった。
彼女は長谷川を制して一歩前に出ると、ゆっくりと膝を折り、その一年生と同じ目線になった。
「……ミィ、ミィ……」
その時、一年生が庇っていた箱の中から、かすかで弱々しい鳴き声が聞こえた。
「……長谷川君。彼女が隠しているのは、凶悪な輩でも、私の裏の顔でもないわ。……怪我をした子猫よ」
「な、猫だと……!?」
長谷川が呆気に取られている前で、白峰は一年生の女子に優しく語りかけた。
「あなたが、あの手紙を意見箱に入れたのね?」
「……っ、ごめんなさい……ごめんなさいっ……!」
一年生の女子は、ポロポロと涙をこぼしながら震える声で白状し始めた。
「昨日、下校中にカラスに襲われてる子猫を見つけて……。放っておけなくて、とりあえずここに隠したんです。でも、私のアパートはペット禁止で……学校に動物を持ち込んだら停学になるって聞いて、どうしたらいいか分からなくて……っ」
学校に内緒で保護したものの、自力ではどうにもできなくなった。
そこで彼女が頼ろうとしたのが、絶大な権力と実行力を持つ『生徒会長』だった。
「……普通に相談すれば、規則違反だって怒られると思ったのね? だから、あんな大げさな手紙を書いて……私たちが『見回り中に偶然子猫を発見した』という状況を作りたかった。そうでしょう?」
白峰の言葉に、一年生はコクコクと頷いた。
「はい……。会長はすごく厳しくて、規則を破る生徒は容赦しないって有名だから……。私が持ち込んだってバレないように……遠回しに、気付いてもらいたくて……っ。本当にごめんなさい……!」
自分が罰せられる恐怖と、小さな命を救いたいという優しさ。
その二つの板挟みになった結果生み出されたのが、あの『白峰会長の裏の顔を知っている』という、一見すると悪意に満ちた告発状の正体だった。
(……俺の言った通りだろ。人間は、本当に困っている時ほど素直になれないんだよ)
壁の陰で缶コーヒーを飲みながら、俺は内心で一人ごちた。
以前の『氷の生徒会長』であった白峰なら、「事情はともかく規則は規則よ」と冷たく切り捨てていたかもしれない。
だが、物語を通じて『人間の不器用な感情』を学んできた今の彼女は、違った。
「……怒らないわ。あなたは、この小さな命を守るために必死だったのね。怖かったでしょう。もう大丈夫よ」
白峰は、一年生の頭を優しく撫でた。
「この子は、生徒会で責任を持って保護団体に引き渡すわ。あなたも、最後までちゃんと見送ってあげてちょうだい」
「か、会長……っ! ありがとうございます、ありがとうございます……っ!」
泣き崩れる一年生を優しく抱きしめる白峰の姿は、完璧な生徒会長としての威厳と、血の通った温かさに満ちていた。
「し、しかし会長! 手紙にあった『密約』や『裏の顔』というのは一体どういう……」
まだ状況を飲み込めていない長谷川が空気を読まずに尋ねると、白峰はクスッと悪戯っぽく笑った。
「そうね。『いつも冷酷な氷の生徒会長の裏の顔は、実は動物に甘い』……そんなところかしら。長谷川君、これは生徒会だけの秘密にしておいてね?」
「あ……は、はいっ! もちろんです、会長!」
長谷川は顔を真っ赤にして直立不動になった。
どうやら、彼の暴走した妄想も、白峰の完璧なフォロー(とギャップ萌え)によって無事に鎮火したらしい。
俺は空になった缶コーヒーをゴミ箱に放り投げ、音を立てずにその場を離れた。
これ以上の見学は野暮というものだ。
*
それから一時間後。
純喫茶『琥珀』のいつもの席で仮眠を取っていた俺は、バンッ! と勢いよくテーブルを叩く音で目を覚ました。
「夏目さん、起きて! 本当に、あなたの推理通りだったわ!」
そこには、額に汗をにじませ、興奮冷めやらぬ様子の白峰莉音が立っていた。
彼女は俺の向かいの席に座るなり、身を乗り出して事の顛末を語り始めた。
「……あの子、自分が怒られるのが怖くて、わざとあんな遠回しな手紙を書いたのね! 本心は『助けてほしい』なのに、行動は『脅迫状を出す』っていう、正反対の形になって現れるなんて……人間って、本当に不器用で、面倒くさくて、面白い生き物なのね!」
目をキラキラさせて語る彼女の姿は、完全に『新しいネタを見つけたクリエイター』の顔だった。
「子猫は無事に保護団体に引き取ってもらえたわ。長谷川君も『会長の慈愛に触れ、私はまた一つ成長しました』とか言って、納得して帰って行ったし!」
「……そうか。まあ、何よりだ」
俺が欠伸をしながら答えると、白峰はノートパソコンを開き、凄まじい勢いでメモアプリを立ち上げた。
「これよ、夏目さん! この『すれ違いの感情』、絶対にお話に使えるわ! 本心とは真逆の行動をとっちゃって、周りに誤解されて、でも本当は……っていう展開!」
「ああ。それはラブコメや人間ドラマにおける最強の武器の一つだ」
俺はマスターが運んできた微糖のアイスコーヒーを受け取り、氷をカラリと鳴らした。
「相手のことが好きで好きでたまらないのに、嫌われるのが怖くてわざと冷たく突き放す。……世間じゃそれを『ツンデレ』と呼ぶ。このすれ違いの構造を物語に落とし込めれば、読者はもどかしさに身悶えして、キャラクターから目が離せなくなるぞ」
「ツン、デレ……! なんだかすごく甘美な響きね……!」
ポンコツ作家の瞳に、執筆への凄まじい業火が灯る。
テスト明けの疲労など完全に忘れ去り、彼女は新たな『感情のロジック』を自身のダークファンタジーへと組み込むべく、キーボードに指を走らせ始めた。
現実の事件から人間の感情をサンプリングし、物語へと昇華する。
その成長のループは、いよいよ彼女の作品を、星の数ほどあるWEB小説の海の中から『日間ランキングの末席』へと押し上げようとしていた。
WEB小説の頂点は、遥か雲の上だ。
だが、俺たちの足元には確かに、そこへ続く階段が見え始めていた。




