第2話:万引きの動機、物理的・心理的矛盾
「さあ、早くその帽子とマスクを取れ! 警察を呼ぶ前に素直に認めるんだな!」
郷田先輩の怒声が、静かな店内に響き渡る。
数少ない他の客たちが、何事かと遠巻きにこちらを窺い始めていた。
本棚の前に追い詰められた不審者――ポンコツな変装をした彼女は、肩をガタガタと震わせながら、完全に言葉を失っていた。
サングラスが大きくズレており、その隙間から見える瞳には、大粒の涙が浮かんでいる。今にも泣き出しそう、というより、もうすでに泣いているのだろう。マスクの奥から、ヒック、という痛々しいしゃくり上げの音が漏れ聞こえていた。
彼女が両手で必死に抱きしめているのは、ファンタジー系ラブコメ小説の『一巻』と『二巻』。
そして彼女の足元には、郷田先輩が万引きの証拠だと決めつけている、同じシリーズの最新刊である『三巻』が転がっている。
このままでは、彼女は冤罪を着せられた挙句、隠したかったオタク趣味まで暴露されてしまう。完璧な優等生の社会的な死まで、あと数秒というところだ。
「……先輩。少し落ち着いてください。他のお客さんの迷惑になります」
俺は歩み寄りながら、できるだけ平坦な声で郷田先輩の肩を叩いた。
「夏目! お前も見てただろ! こいつ、本を鞄に隠そうとして落としやがったんだ!」
「だから、それは違いますって。彼女は万引きなんてしていませんよ」
「ああん? 何を根拠に言ってやがる。こいつの怪しい格好を見ろ! どう見たってクロだろうが!」
血走った目で睨みつけてくる先輩に、俺は深くため息をついた。
この先輩は、正義感というより『誰かを罰する快感』に酔っているだけだ。こういう人間は、感情論で説得しようとしても無駄である。論理という暴力で、一切の逃げ道を塞いでやるしかない。
「服装が怪しいから犯人だ、なんてのは三流の探偵でも言いませんよ。……先輩、ミステリの基本構造って知ってますか?」
「は? なんだいきなり」
「犯行には『動機』と『機会』が必要です。彼女の場合、その両方が決定的に欠けているんですよ。物理的にも、そして心理的にもね」
俺はまず、彼女の足元に落ちている本を拾い上げた。
そして、彼女が立っていた位置と、本棚の面陳列されていたスペースを指差す。
「まず物理的な矛盾です。先輩は彼女が『本を鞄に入れようとして落とした』と言いましたね。ですが、彼女のその不自然なトレンチコートを見てください。ベルトをきつく結んでいて、ポケットに本を入れる隙間はない。そして肩から提げているショルダーバッグは、チャックが完全に閉まっています」
「そ、それは今、急いで閉めたからだろ!」
「不可能です。彼女は両手で一巻と二巻を抱きしめています。その状態で、落ちてくる三巻を鞄に入れ、さらにチャックを閉める? 手品師じゃあるまいし、無理に決まってるでしょう。そもそも、落ちた本は彼女の足のつま先より『前』にあった。鞄に入れようとして落としたなら、本は彼女の足元か、靴の上に落ちるはずです」
俺の淡々とした指摘に、郷田先輩の顔がわずかに引きつった。
「そ、それは……ただ単に、手が滑って前に飛んだだけかもしれないだろ!」
「百歩譲って物理的な線は偶然だとしても、問題は次です。……俺から言わせれば、こっちの矛盾の方が致命的だ」
俺は拾い上げた『三巻』の表紙をトントンと指で叩き、郷田先輩の目の前に突きつけた。
「先輩。この本、シリーズの『三巻』ですよね」
「……それがどうした」
「彼女が買おうとしているのは、このシリーズの『一巻』と『二巻』です」
「だからなんだってんだよ!」
俺は再び深くため息をついた。
活字を読まない人間には、読者の心理というものが全く理解できていない。
「……これから一巻を読もうとしている新規読者が、わざわざ『三巻』だけを万引きする動機がどこにあるんですか」
「なっ……」
「物語というのは、順番に読むからこそ意味があるんです。一巻と二巻は自分のお金で買って、内容もまだわからない三巻だけをリスクを冒して盗む? そんな歪な行動原理を持つ読者は、この世に存在しません。もし盗む気があるなら、一巻からすべて盗むはずだ」
俺は早口で、かつ冷徹に言葉を紡ぎ続ける。
自分の専門領域――物語の構造や読者の心理――のことになると、どうにもブレーキが効かなくなるのは、元・商業作家としての悪い癖だ。
「それに、彼女はさっきから裏表紙のあらすじを熱心に読んでいました。買うかどうか、自分の好みに合うかどうかを真剣に見極めていたんです。そんな本への愛情と敬意を持った人間が、本を盗むなんていう下劣な真似をするわけがない。……物語を、読者を舐めないでいただきたい」
最後の方は、ほとんど俺自身のクリエイターとしての感情が漏れ出ていた。
静まり返る店内。
郷田先輩は口をパクパクとさせて反論の糸口を探していたが、やがて「チッ」と舌打ちをして俺から視線を逸らした。
「……わかったよ、俺の勘違いだったみたいだな。好きにしろ!」
先輩は捨て台詞を吐くと、ドスドスと足音を立ててバックヤードへと引っ込んでいった。
あとに残されたのは、俺と、呆然と立ち尽くす不審者ルックの彼女だけだ。
「……もう大丈夫ですよ」
俺は拾った三巻を本棚に戻し、できるだけ穏やかな声で彼女に語りかけた。
「あ……あの……」
彼女は震える手でサングラスを押し上げ、俺の顔をまじまじと見つめた。
その瞳は、恐怖から解放された安堵と、突然現れた助け舟に対する驚きで揺れている。
「驚かせてすいません。うちの先輩、ちょっと血の気が多くて。……その二冊、お会計でいいですか?」
「は、はい……っ」
彼女は小さく頷き、逃げるように足早にレジへと向かった。
俺もカウンターの中に入り、バーコードリーダーを手にする。
レジ越しに間近で見る彼女は、やはりどう見ても同世代だった。
「千四百三十円になります」
「こ、これで……」
彼女が財布から千円札と小銭を取り出す時、トレンチコートの袖口から、ほんの少しだけ手首が見えた。
そこには、俺の見覚えのある指定校のエンブレムが刺繍された、カーディガンの袖が覗いていた。
俺と同じ、県立青海高校の制服だ。
(……やっぱり、うちの生徒か)
お釣りを渡す際、至近距離から彼女を観察する。
マスクとサングラスの隙間から、艶やかな黒髪のストレートがこぼれ落ちている。そして、レジ越しでもふわりと香る、どこか凛とした柑橘系のシャンプーの香り。
奇抜な変装で隠しきれない、その立ち振る舞いの端々に漂う『育ちの良さ』と『圧倒的な美貌』の片鱗。
俺の頭の中で、学校内でその特徴に合致する人物のデータが、カチリと音を立ててパズルの一枚にハマった。
(……嘘だろ)
俺は思わず、口元を引きつらせそうになった。
間違いない。彼女はただの優等生ではない。
全校生徒から畏怖と憧憬の念を集め、一切の隙を見せないことで有名な『氷の令嬢』。
県立青海高校、生徒会長――白峰莉音、その人だ。
「あ、ありがとうございました……っ」
彼女――白峰は、商品が入った袋をひったくるように受け取ると、ペコリと深く頭を下げ、足早に出入り口へと向かおうとした。
俺は、無気力な自分らしからぬ衝動に駆られ、ついその背中に向かって声をかけてしまった。
「……次からは、もう少し普通な格好で来た方がいいぞ」
「えっ……?」
ビクッと足を止め、彼女が振り返る。
「そのジャンルを書きたいのか読みたいのかは知らないが、オタク趣味を隠すにしても、その変装は目立ちすぎだ。……学校での立場もあるんだろうしさ、会長」
その言葉を聞いた瞬間、白峰の動きが完全に停止した。
サングラス越しの瞳が、限界まで見開かれているのがわかる。
「な……なんで、私のこと……」
彼女の喉から、掠れた声が漏れる。
俺はいつも通りの眠たげな目を向けたまま、小さく肩をすくめた。
「同級生だしな。俺は目立たないから、あんたは俺のことなんて知らないだろうけど」
俺はレジのカウンターに肘をつき、言葉を続ける。
「安心しろよ。今日のことは誰にも言わない。完璧な生徒会長の秘密なんて、俺には重すぎるからな」
彼女は数秒間、俺の顔を穴が開くほど見つめていた。
やがて、顔を真っ赤にして(マスクで半分隠れてはいたが、耳まで真っ赤だった)、「わ、忘れてくださいっ!!」と叫び、自動ドアをすり抜けて猛ダッシュで逃げ去っていった。
残された俺は、静かになった店内でポツンと立ち尽くし、再び深い、今日一番の大きなため息をついた。
「……言わんこっちゃない。完全に面倒なことに関わっちまった」
俺の平坦な日常に、強烈なノイズが混じり込んだ瞬間だった。
だがこの時の俺はまだ、彼女が抱えている『真の裏の顔』が、ただのオタク趣味などという生易しいものではないことを、知る由もなかったのである。




