第17話:生徒会室の不穏な影
中間テスト前日の放課後。
校内には、部活動を休止して家路を急ぐ生徒たちのざわめきと、教室に残って黙々とペンを走らせる音だけが満ちていた。
だが、青海高校の心臓部とも言える生徒会室の空気は、それらとは一線を画す重苦しさに支配されていた。
「……以上で、テスト明けのボランティア活動に関する協議を終了します。長谷川君、議事録のまとめをお願いね」
「承知しました、会長。……本日も実に見事な采配でした」
白峰莉音は、いつものように完璧な動作で書類を整え、スッと立ち上がった。
その仕草には一点の曇りもなく、学園を統べる『氷の令嬢』そのものだ。だが、副会長の長谷川は、彼女が背を向けた瞬間に見せた、わずかな「焦り」を見逃さなかった。
莉音は時計をチラリと確認し、誰にも見えないように指先でスマホの画面をタップした。
そこには、夏目から届いた一通のメッセージが表示されている。
『例の「骨格」チェックした。後半の感情の乗せ方、悪くない。琥珀で待ってる』
その短い文字を見た瞬間、莉音の頬が、ほんの数ミリだけ綻んだ。
それは、長谷川が今まで数年間彼女の傍にいて、一度たりとも向けられたことのない、柔らかく温かな光を帯びた表情だった。
(……やはり、間違いない)
長谷川は眼鏡の奥の瞳を鋭く細め、拳を強く握りしめた。
彼にとって、白峰莉音は不可侵の聖域であり、崇高な理想の象徴だ。その彼女が、あんな無気力で不真面目な男――夏目創の影響を受けている。
長谷川の歪んだ「論理」によれば、清廉潔白な彼女があのような日陰者の男に自ら近づくはずがない。ならば答えは一つ。
彼女は、何か致命的な「弱み」を握られ、脅されているのだ。
「会長。今日はこの後、自習室に寄られますか?」
「いいえ。今日は少し……調べ物があるから、真っ直ぐ帰るわ。長谷川君も、テスト勉強頑張ってね」
莉音はそう言い残すと、鞄を手に取り、足早に生徒会室を後にした。
その背中を見送りながら、長谷川は静かに、しかし深く、濁った溜息をついた。
「……ああ、なんという悲劇だ。白峰会長、あなたは一人でその重荷を背負おうとしているのですね。あのような害虫に、その清らかな魂を汚されながら……」
長谷川は確信していた。
夏目という男は、一見無気力なフリをしながら、その裏で卑劣な手段を用いて会長を支配している。先日、昇降口で見せたあの「笑顔」も、きっと服従を強いるための合図だったに違いない、と。
「……私が、あなたを救ってみせます。あの男の化けの皮を剥ぎ、二度とあなたの視界に入らぬよう、この学園から排除してみせる」
長谷川は、莉音が去った後の無人の机に目をやった。
そこには、彼女がうっかり忘れていったのか、あるいは焦っていたのか、一枚の小さな付箋が落ちていた。
長谷川がそれを拾い上げると、そこには莉音の達筆な文字で、謎の単語が書き殴られていた。
『――暗黒騎士の救済、密室の絶望、文月先生のロジック――』
長谷川はその意味不明な言葉の羅列を見て、ゾッと背筋を凍らせた。
彼にとって、それらは「犯罪の隠語」か、あるいは「夏目から強要されている何らかの儀式」のようにしか見えなかったのだ。
「……救済? 絶望? まさか、集団での暴力沙汰か、あるいはもっと破廉恥な……っ!」
妄想が暴走を始める。
一度「夏目は悪だ」と決めつけた彼の脳内では、あらゆる情報がその結論を補強するための材料へと変換されていく。
長谷川は、以前から密かに調べていた夏目創に関する「噂」を反芻した。
授業中は常に寝ている。放課後はどこか怪しげな店に通っている。教師に対しても敬語を使わない不遜な態度。
それら全てが、今、長谷川の中で『白峰莉音を脅かす巨悪』というパズルのピースとしてカチリと噛み合った。
*
翌朝。
テスト開始直前の、静まり返った生徒会室。
長谷川は、他の役員たちが教室へ向かったのを確認してから、生徒会室の入り口にある「意見箱」に手を伸ばした。
本来は生徒たちの要望を受け入れるための箱だが、そこには今朝、差出人不明の一通の封筒が投げ込まれていた。
長谷川がその封筒を開封し、中身を取り出す。
そこには、わざと汚く書かれたような、震える筆跡でこう記されていた。
『白峰会長の裏の顔を知っている。
彼女は放課後、ある男子生徒と恐ろしい密約を交わしている。
学園の秩序を守りたいなら、真実を暴け。』
「…………っ!!」
長谷川は、その紙を握りしめた。
彼にとって、それは待ちに待った「神からの啓示」だった。
(やはり、私の読み通りだ! 他にも会長の危機に気づいている者がいたのだ!)
実際には、この手紙に込められた意図は告発などではなく、もっと別の、不器用で切実な感情から出たものなのだが、完全に夏目を敵視している今の長谷川に、そんな冷静な判断ができるはずもない。
「夏目創……。貴様の余罪、そして会長を苦しめているその『裏の顔』。私が白日の下に晒してやる」
長谷川の眼鏡が、不気味に光る。
彼はその「告発状」を懐にしまい、戦場へ向かう戦士のような顔で、テスト会場へと向かった。
何も知らない莉音は、今頃自分の席で「昨日のアドバイス、完璧だったわ……。これでテストが終われば、一気にクライマックスまで書ける!」と、胸を高鳴らせていることも知らずに。
そして。
窓際の席で、夏目創は大きなあくびをしながら、窓の外を眺めていた。
(……なんか、嫌な予感がするな。昨日から背中がゾクゾクする。風邪か?)
彼がその「予感」の正体が、自分に向けられた全方位的な殺意に近い誤解であると知るのは、テスト最終日の放課後のことだった。
こうして、ポンコツ作家のささやかな成功の裏で。
学園中を巻き込む『怪文書騒動』の幕が、静かに、そして最悪のタイミングで上がったのである。




