第14話:悪意の昇華と、心を抉る「感想」
文化祭ポスター消失事件の、翌日の放課後。
俺と白峰莉音は、いつものように純喫茶『琥珀』の一番奥のボックス席に陣取っていた。
今日の白峰は、昨日までの張り詰めた空気が嘘のように、どこか晴れやかな顔をしている。
「……で、ポスターはどうなったんだ」
「織田君、今朝のホームルーム前に生徒会室に持ってきたわ。目の下にひどいクマを作って、フラフラになりながら。……でも、描いてきたポスターは、前に消えたものよりずっと迫力があって、素晴らしい出来だった」
白峰はココアを一口飲み、ふう、と息を吐いた。
「少し悔しそうだったけれど、私にポスターを渡す時の彼の目は、昨日みたいな淀んだ色はしていなかったわ。……佐藤さんも、泣きながら謝ってくれた」
「そうか。まあ、クリエイターの端くれとしての意地は残ってたってことだな」
相手を社会的に抹殺するのではなく、クリエイターとしてのプライドをへし折り、同時に火をつける。氷の生徒会長でありながら、すでに根っからの「作り手」の思考になりつつある白峰らしい、完璧な解決だったと言える。
「それより、夏目さん。読んでみて」
白峰はノートパソコンの画面をこちらに向けた。
そこには、あの生徒会室でのドロドロとしたやり取りの直後、彼女が喫茶店で泣きながら書き殴った最新エピソードが表示されていた。
俺は画面に視線を落とし、活字を追っていく。
……主人公であるヒロインを氷の牢獄に閉じ込めた敵役、『暗黒騎士』の独白シーン。
以前のプロットでは、ただ「世界を闇に染めるため」という薄っぺらい動機で動いていた三流の悪役。だが、今の原稿は全く違う。
『……なぜお前は、いつもそんなに綺麗なんだ。俺が泥水をすすって手に入れた力を、お前は涼しい顔で凌駕していく。お前のその清らかな光が、俺の醜さを照らし出すんだ。……だから、汚してやりたかった。お前が絶望して、俺と同じ泥の中で泣き喚く姿を見たかった!』
それは、織田と佐藤が白峰にぶつけた、むき出しの劣等感と嫉妬の言葉だった。
白峰は、自分に向けられた理不尽な「悪意」を、一言一句逃さず咀嚼し、ファンタジーという濾過器を通して、見事に物語の血肉へと昇華させていたのだ。
「……どう、かな」
俺がスクロールする手を止めるまで、白峰は息を詰めるようにして俺の顔色を窺っていた。
俺はゆっくりと顔を上げ、小さく息を吐いた。
「……醜いな」
「えっ……」
「醜くて、人間くさくて、最高に胸糞悪い。……完璧だ」
俺の言葉に、白峰の顔がパァァッと明るく輝いた。
「ただのテンプレだった悪役が、この一話で完全に『血の通った人間』になった。ヒロインの完璧さに嫉妬して引き摺り下ろそうとする暗黒騎士の感情は、痛いほど読者に刺さるはずだ。……よく書いたな」
俺が素直に褒めると、白峰は照れ隠しのように「えへへ」と笑い、自分のパソコンを抱きしめた。
「ありがとう。……書いている時は、あの生徒会室の空気を思い出してすごく苦しかったけれど。でも、文字にして吐き出したら、なんだか私の中のモヤモヤも一緒に浄化されたみたい」
「それが、物語を書くってことだ」
俺は微糖のアイスコーヒーを飲み干した。
白峰はそのまま、マウスを操作して「エピソードを公開する」のボタンをクリックした。
画面が切り替わり、ダッシュボード(管理画面)が表示される。
現在の累計PVは『380』。ブックマークは『12』。
一週間前に初めての感想をもらってから、更新のたびに少しずつ、だが確実に固定の読者がつき始めていた。すでに感想欄には、数件の温かいコメントが寄せられている。
だが、今回はただの日常回ではない。
物語の空気が一変する、重たくて劇薬のようなエピソードだ。
読者がどう反応するか。離れてしまうか、それとも食いつくか。
「……少し、様子を見るか」
「うん……なんだか、いつもより緊張するわ」
俺たちはそのまま喫茶店で、白峰の次のプロットの相談をしながら、一時間ほど時間を潰した。
そして。
「……あっ」
画面をリロードした白峰が、小さく声を上げた。
画面の下部、感想欄のアイコンに、赤い通知マークが点灯していた。
感想をもらうのは初めてではない。しかし、この『悪意の回』を投稿してからの初めての反応に、白峰の手は微かに震えていた。
「……開けてみろ」
俺が促すと、彼女はごくりと喉を鳴らし、通知をクリックした。
表示されたのは、いつも「更新お疲れ様です」と短いコメントをくれる常連の読者からの、長文の書き込みだった。
『最新話、読みました。
……すごいです。鳥肌が立ちました。
今まで暗黒騎士のことはただの悪いヤツだと思ってたんですが、今回の彼の独白を読んで、なんだか泣きたくなりました。
誰かを羨んで、その人が憎らしくなって、汚してやりたいと思う気持ち。絶対にいけないことだけど……自分の中にもそういう真っ黒な感情があるから、痛いほど共感してしまいました。
ヒロインの完璧さが、彼を狂わせていたんですね。
ただのファンタジーだと思ってたのに、こんなに人間のリアルな感情を見せつけられるなんて……作者さん、本当にすごいです! これからの展開が楽しみで仕方ありません!』
…………。
読み終えた瞬間、白峰の目から、ポロリと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「夏目、さん……っ」
彼女は口元を両手で覆い、嗚咽を漏らした。
それは、初めて感想をもらった時の「自分が肯定された喜び」の涙とは少し違う。
理不尽に傷つけられ、理不尽に憎まれた、昨日までの悲しみ。
それを一人で抱え込まず、物語という形にして世界に放った結果。誰かがその痛みに寄り添い、「共感した」と心を震わせてくれたのだ。
作家にとって、これ以上の救いがあるだろうか。
「……私の苦しかった気持ち……無駄じゃ、なかったのね……っ」
泣きじゃくる白峰に、俺はポケットからティッシュを箱ごと取り出して差し出した。
「言っただろ。物語は、救いだって。……お前が傷ついた分だけ、お前の書くキャラクターは深みを増す。そしてそれは、画面の向こうにいる誰かの心を、確実に抉るんだ」
「ぐすっ……うん、うんっ……!」
白峰はティッシュで乱暴に涙と鼻水を拭い、画面に表示されたその感想を、まるで宝物でも見るかのように何度も、何度も読み返していた。
その横顔を見て、俺の口元にも自然と笑みがこぼれていた。
自分の担当するポンコツ作家が、一つの壁を越え、確かな「武器」を手に入れた瞬間。
元・プロの作家としても、そして彼女の担当編集としても、これほど痛快なことはない。
「よし。今日はここまでだ、パソコンを閉じろ」
「えっ? でも、この感想にお返事を書かないと……」
「返信は家に帰ってからじっくり書けばいい。……それより、今日は祝勝会だ」
俺は席を立ち、伝票を手に取った。
目を丸くしている白峰に向かって、顎で入り口のドアをしゃくる。
「駅前のコンビニで、一番高いアイスを奢ってやる。……一〇〇〇PVに向けての、前祝いだ」
俺の言葉に、白峰は一瞬きょとんとした後、パァッと花が咲くような、それこそヒロインのように完璧で可愛い笑顔を向けた。
「……うんっ!」
夕日に染まる帰り道。
並んで歩く二人の距離は、出会った頃よりも、ほんの少しだけ縮まっていた。




