第12話:悪意の雛形と、歪んだ羨望
放課後の校舎は、どこか刺々しい空気を孕んでいた。
生徒会室から重要書類が消えたという噂は、尾鰭がついてまたたく間に全校へ広まっている。曰く、完璧な生徒会長がついに失態を演じた。曰く、内部に彼女を失脚させようとする裏切り者がいる。
そんな無責任な好奇心の視線にさらされながら、俺と白峰はいつもの喫茶店『琥珀』にいた。
だが、今日の白峰に、昨日までの浮かれた様子は微塵もない。
「……もう、明日には職員会議で私の管理責任が問われることになるわ」
白峰は冷めたココアをじっと見つめ、消え入りそうな声で呟いた。
凛としていた背筋はわずかに丸まり、その横顔には隠しきれない疲労と困惑が滲んでいる。
「ポスターの原本は、織田君が何日もかけて描き上げた一点ものなの。予備なんてない。それが私のせいで消えてしまった……。みんな、私を責めているわ。当然よね。私が、完璧じゃなかったから……」
俺は微糖のアイスコーヒーを一口飲み、彼女の自虐を無視して切り出した。
「それで、俺が送った『課題』の方はどうした。犯人じゃなく、周りの連中の『顔』を観察しろって言っただろ」
「……そんなの、できるわけないわ。みんな、困っている私を心配してくれたり、あるいは冷ややかな目を向けたりしているだけよ。それ以上のことなんて……」
俺は深くため息をつき、テーブルの上に身を乗り出した。
「白峰、お前は本当に『いい子』すぎるんだよ。……いいか、お前がさっき言った『心配』の中にも、グラデーションがある。純粋な善意からくる心配、責任を追及するためのポーズ、そして――お前が壊れていくのを見て喜んでいる、愉悦。……誰か、一人くらい心当たりはないか?」
白峰はハッとして、今日一日の出来事を脳内でリプレイし始めたようだった。
数分後、彼女は絞り出すように言葉を紡いだ。
「……副会長の長谷川君。彼は、ずっと事務的に、でも執拗に私のミスを確認してきたわ。『会長が最後だったんですよね?』って、何度も、何度も。……まるで、私が犯人だと言わんばかりに」
「あいつは合理的だからな。お前の失脚によって自分が会長の座に繰り上がる可能性があるなら、動機としては十分だ。……他には?」
「美術部の織田君。……自分の描いたポスターがなくなったのに、彼は怒らなかった。『また描けばいい。会長、あまり自分を責めないで』って。……でも、その時の彼の目は、少しも笑っていなかった気がする」
「なるほど。プライドの高い作家が、作品を汚されてそんなに簡単に許すか。……最後に、あいつはどうだ。実行委員の、佐藤っていう女子生徒」
俺が昨日、廊下から目撃したあの「恍惚とした表情」を浮かべていた少女の名を出すと、白峰は一瞬、言葉に詰まった。
「佐藤さん……。彼女は、ずっと私のそばにいてくれたわ。『会長、大丈夫ですよ、私が一緒に探しますから』って。……でも、彼女が私の肩に手を置いた時。その指先が、すごく……不自然に、震えていた気がするの」
白峰は自分の肩を抱くようにして、身震いした。
「夏目さん……。私、怖いの。今まで信じていた世界が、本当は全然違う色をしていたんじゃないかって。……誰かが私を、あんなに惨めで、恥ずかしい目にあわせたがっているなんて、信じたくない」
彼女の瞳には、かつて本屋の隅で震えていたあの時のように、大粒の涙が溜まり始めていた。
だが、今の彼女は「ただの被害者」ではない。
「……その『信じたくない感情』が、悪意の正体だ、白峰」
俺は低く、言い聞かせるように言葉を紡いだ。
「悪意っていうのはな、何も特別な化け物が持っているものじゃない。隣にいるやつが、ほんの少しだけお前を羨んで、その完璧さが鼻について、少しだけ転ぶところを見てみたい……。そんな、誰の心にでもある小さな染みが、時間をかけて腐敗したものなんだ」
俺はノートパソコンを彼女の方へ押しやった。
「いいか、今のその震える指で、書け。……お前の小説の暗黒騎士が、どうしてヒロインの魔法を封じ込めたのか。それは、世界を滅ぼすためなんかじゃない。……自分よりも強く、正しく、美しい光を放つヒロインを、自分と同じ泥の中に引き摺り下ろして、汚してやりたかったからだ。……その『汚したい』という欲望を、お前の言葉で叩きつけろ」
「……っ」
白峰は俺の言葉に打たれたように、じっと画面を見つめた。
恐怖、戸惑い、そして――抗いがたい作家としての衝動。
彼女は震える手でキーボードに指を置き、目を閉じて深く呼吸をした。
「……書くわ。私……今まで、みんなの期待に応えることばかり考えていた。でも……この物語の中だけは、私の『本当の声』を叫んでもいいのよね?」
「ああ。物語は、救いであると同時に、復讐だ。……お前を苦しめる現実に、ペン一本で反撃してこい」
タタタ、タタタッ――。
昨日よりもずっと、激しいタイピング音が店内に響き始めた。
それは、もはや「ポンコツ」な少女の練習音ではない。
自分の内側にある昏い感情と向き合い、それを形にしようとする、一人の表現者の咆哮だった。
一時間、二時間。
彼女は一言も発さず、ただ画面に向かって情念をぶつけ続けた。
俺は何も言わず、ただ三杯目のアイスコーヒーを頼み、彼女の横顔を見守った。
一字、また一字と、画面上に「悪」の形が刻まれていく。
やがて、彼女は力尽きたようにエンターキーを叩き、椅子に背もたれを預けた。
「……できたわ。これ、今までで一番……自分の心が削られた気がする」
差し出された画面を覗き込んだ俺は、無意識に息を呑んだ。
そこに書かれていたのは、整った文章ではなかった。
だが、あまりにも生々しく、醜く、そして美しい――「嫉妬」の独白が綴られていた。
「……上出来だ、ぴょんぴょんウサギ先生。これなら、読者の心は一瞬で抉られる」
「……ありがとう、夏目さん」
白峰は少しだけ憑き物が落ちたような笑顔を見せ、そのままの勢いで、新作のエピソードとしてサイトに投稿した。
投稿ボタンを押す音は、何かの決着をつけるような、澄んだ響きをしていた。
「さて……。取材はこれで終わりだ。……そろそろ、この『つまらない三流小説』の幕を閉じてやるか」
俺が冷たく笑うと、白峰がキョトンとした顔をした。
「幕を閉じる? どうやって……。犯人なんて、まだわからないのに」
「犯人なんて、最初からわかってるだろ」
俺はポケットから、今日一日の調査で手に入れた「決定的な証拠」を、彼女の目の前のテーブルに置いた。
それは、美術部の織田が描いたポスターの、ほんの小さな『切れ端』だった。
「……えっ。これ、どうして夏目さんが……?」
「お前が一生懸命みんなの『顔』を観察している間に、俺がちょっとだけ、あいつの画材道具を調べさせてもらった。……白峰、明日だ。明日の昼休み、生徒会室で全部終わらせてやる。……お前はただ、俺の横で『完璧な会長』として座っていろ」
夕闇の迫る喫茶店で、俺は次の、そして最後のプロットを口にした。
現実という物語を、俺たちの思うがままに書き換えるための、逆転のシナリオを。




