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第11話:三百の視線と、完璧な均衡の崩壊


 一週間という時間は、何かに没頭している人間にとっては瞬きのようなものだ。


 俺と白峰莉音の「放課後の秘密会議」が始まってから、七日が過ぎた。

 あの日、初めての感想をもらって以来、白峰の執筆ペースは凄まじいことになっていた。俺が教えたタイピングも、今では人差し指ではなく、たどたどしいながらも全指を使えるようになっている。


 その成果は、残酷なほど正確に数字へと現れていた。


「……夏目さん、見てっ。ついに、累計PVが『三一五』になったわ!」


 純喫茶『琥珀』。

 白峰はノートパソコンの画面を俺の鼻先に突きつけんばかりの勢いで、声を弾ませた。

 一週間前、一ケタの数字に震えていた少女はもういない。そこにあるのは、自分の言葉が三百回以上も誰かに読まれたという事実に、頬を上気させる一人の作家の顔だ。


「……ああ、三〇〇の大台に乗ったか。初週の伸びとしては上出来だ」

「ありがとう! ブックマークも十件ついたし、感想もあれから三件も届いたのよ。全部ノートに書き写して、寝る前に何度も読み返してるわ」


 彼女の喜びようは、見ているこちらまで少しだけ胃が熱くなるような純粋さだった。

 だが、俺は担当編集として、冷たく釘を刺すのを忘れない。


「浮かれるのはそこまでだ。……数字が動き始めたこのあたりから、読者の目は厳しくなるぞ。今のままだと、次の山場で読者は一気に離れる」

「えっ……どうして? 今は暗殺者と魔法使いが一緒に市場へ行って、アイスを食べるっていう、すごく平和でいいシーンを書いてるのに」


 白峰が不満げに唇を尖らせる。

 俺は微糖のアイスコーヒーを一口飲み、彼女の原稿の「欠陥」を指差した。


「平和すぎるんだよ。……物語には『毒』が必要だ。お前の小説の敵役、あの『暗黒騎士』。あいつの行動に説得力がなさすぎる。ただ悪いことをしてるだけで、どういう『悪意』で動いているのかが見えないんだ」

「悪意……」

「そう。お前は『完璧な生徒会長』として生きてきたせいで、他人を羨んだり、引き摺り下ろそうとしたりする、醜い感情に疎すぎるんだよ。今のままじゃ、この敵役はただの紙芝居の悪役で終わる」


 白峰は黙り込み、自分の指先を見つめた。

 彼女の清廉潔白な世界には、まだ本物の「泥」が存在しない。

 だが、物語を――特に彼女が書こうとしているダークファンタジーを完結させるためには、その泥の中を這いずり回るような感情を描かなければならないのだ。


「……本物の悪意、ね。どうすれば書けるようになるのかしら」

「身近なところにあるぞ。……例えば、お前のような『完璧な人間』を、快く思わない連中のとる行動とかな」


 俺がそう言った瞬間、白峰のスマホが激しく震えた。

 生徒会専用のチャットアプリの通知音だ。

 それを見た瞬間、彼女の顔からスッと血の気が引いた。


「……白峰?」

「夏目さん、大変……生徒会室から、文化祭のメインポスター案が消えたわ」


 彼女の声は、先ほどの歓喜とは打って変わって、氷のような冷たさを帯びていた。



     *



 翌朝。

 青海高校の生徒会室は、重苦しい空気に支配されていた。


「白峰会長。あなたが昨日、最後に施錠を確認して、鍵を職員室に返したんですよね?」


 冷徹な問いを投げかけているのは、副会長の長谷川はせがわだった。

 眼鏡の奥の瞳は鋭く、莉音を責めるような光を宿している。


「ええ……確かに。候補作三枚を専用の保管箱に入れ、ダイヤル錠をかけて、さらに部屋の鍵をかけました。今朝、一番に来た長谷川君が、鍵が開いていたと言っているけれど……」

「僕が開けた時には、ドアの鍵はかかっていました。でも、保管箱のダイヤルはリセットされていて、一番人気だったデザイン案だけが……真っ白な白紙にすり替えられていたんです」


 室内に並んだ生徒会役員たちが、ざわめく。

 ポスター案は一点もので、バックアップはない。このままでは、文化祭の告知スケジュールが大幅に狂うことになる。


「物理的に、鍵を持っている会長か、予備鍵のある職員室に入れる人間しか犯行は不可能です。……白峰会長、何か心当たりはありませんか?」


 遠回しな疑念。

 莉音は唇を噛み締め、毅然と立ち振る舞おうとしていたが、その指先はわずかに震えていた。


 俺は、ドアの隙間からその様子を眺めていた。

 高坂に「生徒会のトラブルを見に行こうぜ」と誘われたフリをして、野次馬の一人に紛れ込んで。


(……密室の保管箱から、一枚だけが消えた、か)


 これは、相沢リサの事件のような「勘違いの産物」ではない。

 もっと明確で、計算された、強い「敵意」を感じる。


 俺は隣にいる高坂に、あくびをしながら尋ねた。

「なあ高坂。あの消えたポスターを描いたの、誰だ?」

「ああ、美術部の織田おだだよ。あいつ、白峰会長とは中学の頃からライバルだったらしいぜ。……でも、自分の作品を自分で消す意味はないよな?」


 俺は視線を、室内の隅で俯いている生徒会役員の一人――実行委員の女子生徒に移した。

 彼女は、莉音が糾弾される様子を、恐怖でも不安でもなく、どこか「恍惚」とした表情で眺めていた。


(……なるほどな。見つかったじゃないか、白峰)


 俺は口元を歪め、スマホを取り出した。

 絶望に染まりかけている「ぴょんぴょんウサギ」へ、新しい課題を送るために。


『これは、最高の「取材対象」だ。

犯人が誰か、なんてことはどうでもいい。

どうして犯人は、お前のその「完璧な顔」を歪ませたかったのか。

そのドロドロした動機、一文字も逃さず観察しろよ』


 返信は、すぐには来なかった。

 だが、画面越しの莉音が、一瞬だけ俺のいるドアの方へ視線を向けた。

 その瞳には、恐怖を塗りつぶすような、作家としての「渇望」が宿り始めていた。

 

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