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礼装のレオナ〜最弱へと転落した最強の男が、真の強さを知るまで〜  作者: 今井 幻


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第8話「赤蛇」

 足音が、戻ってきた。


 三つ。さっきと同じ数。人通りのある道に出てから離れたはずの気配が、半町ほど後ろでまた揃っている。


 レオンは歩きながら、息を浅くした。


 首の後ろは、静かだった。あの、前線で何度も命を拾わせてくれた感覚——殺気の接近を嗅ぎ取る勘は、今も何ひとつ告げてこない。


 つまり、殺す気はない。


 殺す気のない相手が、夜道で女を追い続けている。その意味を、レオンだった頃の自分なら考えもしなかった。今は、酒場での視線と、指の関節が鳴らなかったあの瞬間が、背骨の底に貼りついて剥がれない。


 ——だが。


 足音は三つだ。武器の金属音は混じっていない。足運びに訓練の気配はなく、間隔はばらばらで、歩幅も揃っていない。街の裏通りで弱い相手だけを狙って食っている連中の歩き方だった。


 レオン・ローゼンフェルトなら、振り向く必要すらなかった。


 この姿でも——こいつらの程度なら。


 首の後ろは沈黙していた。殺気がない。命を獲りにくる相手ではない。前線で培ったあの勘が黙っているなら、この程度の連中に暗がりで捕まるほど落ちてはいない。


 足が、止まった。


 通りの左手に、建物と建物の間を抜ける細い路地が口を開けていた。奥は暗い。油灯の光が届かない。壁に挟まれた狭い空間が、闇の中に細く続いている。


 さっきまで、ここに入ることができなかった。暗い場所に、狭い場所に——身体が拒んでいた。


 今は違う。追われているなら、こちらから仕掛けた方がいい。狭い場所なら三人が同時にかかれない。一人ずつなら、この身体でも——


 思考が、レオンの頃の回路をなぞっていた。


 路地に、踏み込んだ。


 素足の裏に、湿った石の冷たさが触れた。壁の隙間から流れ込む空気が、汗の浮いた首筋にまとわりついた。油と生ごみの混じった匂いが、鼻の奥に届く。


 十歩。振り返った。


 路地の入口に、三つの影が立っていた。


 灯りを背にしているせいで、顔は見えない。体格だけが分かった。いずれもレオンより頭ひとつ以上大きく、肩幅が広い。一人が腰に手を当て、残りの二人が左右に広がるように路地へ足を踏み入れた。


 退路が、塞がれた。


 ——違う。


 レオンの背後で、音がした。


 首を回した。路地の奥から、四つ目の影が壁に背をもたれるようにして立っていた。最初からそこにいた。追い込まれたのではなく、誘い込まれた。


 三方が壁。前方に三人。背後に一人。足元は湿った石畳。天を見上げても、建物に挟まれた夜空が細く切り取られているだけだった。


 首の後ろは——まだ、何も告げなかった。


「やっと入ったな」


 背後の男の声だった。低く、しかし力みのない声。怒鳴る声でも、脅す声でもなかった。仕事の段取りを確認するような、平坦な温度。


「待ちくたびれたぜ。灯りのある道ばっかり歩きやがって」


 入口側の一人が、半笑いで言った。


 レオンは腰を落とした。重心を下げ、右足を半歩引き、両腕を上げた。拳は握れなかった。右手は腫れた打撲が脈打っていて、力を入れると指の付け根に鈍い痛みが走った。開いた掌を前に出す形になった。


「おー、構えた構えた」


 笑い声が路地に反響した。嘲りではなく、本当に面白がっている声だった。子供が虫を弄ぶときの、あの種類の余裕。


「ギルドで見たときから目ぇつけてたんだよ。魔力ゼロの嬢ちゃん。受付で大声出してくれたおかげで、ずいぶん目立ったなぁ」


 入口側の別の男が、一歩踏み込んだ。レオンは半歩下がった。背中側の男との距離が縮まった。壁の間で身体をずらす余地が、削られていく。


「触るな」


 声が出た。高く、細く、喉を裂くような音だった。レオン時代なら地を這うような低音で相手の足を止められた威嚇が、今は路地の壁に吸い込まれて消えた。


 男たちの足は止まらなかった。


 最初の接触は、右手首だった。


 入口側から踏み込んできた男が、レオンの右手首を掴んだ。掴まれた、という認識が追いつく前に、腕が引かれ、身体が回された。背中が壁にぶつかった。後頭部と肩甲骨に石壁の硬さが叩きつけられ、視界が揺れた。


 左腕を振った。指先が男の顎をかすめたが、痛みも衝撃も与えられなかった。掌が空を切った感触だけが残った。


 左手首も掴まれた。別の男だった。二人がかりで両腕を壁に押さえつけられ、足が浮きかけた。靴もない裸の足が石畳を蹴ったが、体重が足りなかった。蹴り上げた足は男の脛に当たり、相手は一瞬だけ顔をしかめたが、それだけだった。


「暴れんな。商品に傷がつく」


 右腕を押さえている男が、事務的に言った。


 ——商品。


 身体が、壁と二人の男の間に挟まれたまま固定された。左右の手首を掴んでいる力は、折るほどではない。潰すほどでもない。ただ動かさないための力だった。


 背後にいた四人目の男が、壁から背を離してゆっくり近づいてきた。


 路地の奥は暗かったが、入口からわずかに届く通りの灯りが、近づいてくる男の輪郭だけを浮かせた。顔の造りは分からなかった。ただ、至近まで詰められたとき、襟元が開いた革鎧の胸に、何かが見えた。鎖骨から首の付け根にかけて、肌の上を這う紋様。薄暗がりの中では色までは判らなかったが、蛇がとぐろを巻くように這い上がる形だけが、肌との濃淡の差でくっきりと浮いていた。


 男は何も名乗らなかった。


 レオンの前に立ち、見下ろした。レオンは小柄だった。壁に押しつけられ、つま先だけで石畳を引っ掻いている姿は、男の胸ほどの高さしかなかった。男の視線が上から降りてくるのが、圧として首筋に落ちた。暗がりの中で瞳の色は分からなかったが、視線の質は分かった。品定め。人間を見る目ではなかった。市場で家畜の歯を確かめる仲買人の目だった。


「顔は——まあ、上物だな」


 独り言のように言って、男の手が伸びた。


 指がレオンの左頬に触れた。親指の腹が、かさぶたの縁をなぞった。爪の硬い感触が、剥がれかけた薄い皮膜の上を滑った。


「ここの傷は浅いな。痕は残らねぇだろ。——首、上向け」


 顎を掴まれ、上を向かされた。首筋が露出した。喉の脈が、男の指の下で速く打っているのが自分でも分かった。


「内臓の状態はどうだ。吐いた痕とかは」


 背後の手下の一人に問いかけたのか、独り言なのか判別がつかなかった。レオンの口元と顎の汚れを確かめているのだとだけ、分かった。


「飯は食ってるみたいだぜ。酒場でパン食ってた」


 後方から声が返った。ずっと見ていたのだ。酒場の中まで。


 男の手が、顎から離れた。


 次に触れたのは、首筋だった。指が鎖骨に沿って滑り、チュニックの襟ぐりに引っかかった。片側の肩が常に露出している、サイズの合わない衣服。その縁を引いて、肩と鎖骨の上面を確認した。


「骨は細いが、折れた痕はなし。歯は——口開けろ」


 開けなかった。奥歯を噛み締めた。顎の筋肉が震えた。


 男は無理にこじ開けなかった。


「腕」


 短い一語。左手首を押さえていた男が、レオンの左腕を壁から引き剥がし、男の前に差し出した。右腕を押さえている男は、そのまま壁にレオンの右手首を固定し続けていた。身体の重みが右腕一本にかかり、肩の付け根が軋んだ。


 男の指が、差し出された左腕に触れた。肘を返させ、内側を上にする。左肘の内側の擦過傷が露出した。親指で傷の縁を押され、痛みが走った。


 左腕が壁に戻された。入れ替わるように、右腕を押さえていた男がレオンの右手首を壁から引き出した。今度は左腕側の男が壁にレオンを固定する番だった。体重が左肩に移り、壁との間で身体が揺れた。


 男の指が、腫れた右拳を挟んで角度を変えた。


「これはちょっとまずいな。握れるか」


 レオンに聞いているのではなかった。商品の状態を確認しているだけだった。


 男が軽く顎をしゃくった。右腕が壁に押し戻され、両手首を掴む力が元通りに揃った。


 男がしゃがみ込んだ。


 革鎧の擦れる音がして、視界の中で男の体が沈んだ。膝をついた姿勢で、裸足の足に手を伸ばした。切り傷と泥にまみれた足の裏。爪の割れた指先。


「靴も履いてねぇのか。——まあ、洗えば問題ねぇか」


 そして、男の手が——チュニックの裾に触れた。


 指が、膝下まで垂れた布地の端を掴んだ。


 世界が、止まった。


 レオンの身体が、言葉より先に反応した。膝を合わせようとした。だが男の肩がすでに両膝の間に割り込んでいた。閉じかけた脚が男の体に当たり、それ以上寄せられなかった。片手で裾を掴んだまま、もう片方の手が膝の内側を押して脚を開かせた。事務的な力だった。抵抗を想定した、慣れた手つきだった。


 裾が、持ち上げられた。


 夜気が、膝に触れた。膝小僧の裂傷のかさぶたが空気にさらされた。男の指がかさぶたの縁をなぞり、そのまま布地を押し上げた。膝から上の素肌が露出した。


「膝の傷はかさぶたができてる。腿は——」


 指が内側に入った。


 冷たい指の腹が、腿の内側の皮膚に触れた。筋肉がない柔らかい部位を、傷の有無を確かめるように滑った。爪の先が肌を引っ掻く感触がした。


 声が出なかった。


 叫ぼうとした。口は開いていた。喉に力を入れた。腹に力を入れた。声帯が、動かなかった。喉が痛いからではなかった。もっと深い場所で、何かが凍っていた。


 ——大音声で戦場を圧した声が。


 前線で敵の群れを怯ませた咆哮が。


 出ない。


 音にならなかった。空気だけが、開いた唇の隙間から漏れた。


「傷なし。打撲もなし。内腿は綺麗だ」


 男は、報告書を読み上げるように言った。指が離れた。裾が落ちた。膝の上に布地が戻った。


 男が立ち上がった。革鎧が軋んだ。


「上物だよ。顔も体も。ちっと痩せてて傷が多いが、まあ養生すりゃ仕上がる。——ただ」


「魔力ゼロってのが引っかかるな。普通なら値が下がるところだが——」


 男は手下の方を振り返った。


「今はむしろ逆だ。ゼロのほうが珍しいんだろ。高く引き取ってくれるとこがある」


 手下の一人が頷いた。


「納品先は——」


「ここじゃ言わねぇよ。口数の多い馬鹿はすぐ死ぬ」


 男が手下を遮った。それだけの言葉が、この男が頭であることを示していた。


 レオンの身体は、壁に押しつけられたまま動けなかった。右手首を掴む手の力は変わらなかった。左手首も同じだった。動かさないための力。壊さないための力。商品を傷つけないための力。


 首の後ろは——


 最初から最後まで、何も告げなかった。


 殺気がなかった。殺す気がないのだ。この男たちは、最初から。殺意のない暴力。命を獲らない蹂躙。


 殺気を嗅ぎ取る勘が守ってくれる領域の、外側だった。


「さて。じゃあ運——」


 男の声が、途切れた。


 路地の入口の方から、別の音が聞こえた。


 金属が鳴る音。重い靴が石畳を踏む音。規則正しく、等間隔の足音。一人ではない。三人か四人。


 巡回だった。


「……ちっ」


 蛇の紋様の男が、舌打ちした。手下たちの手が、同時にレオンから離れた。


「いったん引け。衛兵を巻いてから——」


 最後まで聞こえなかった。四つの影が、路地の奥へ溶けるように消えた。走る音すらしなかった。壁を蹴る音、飛び移る音。暗がりを知り尽くした者たちの逃走は、足音を残さなかった。


 レオンの身体が、壁を滑り落ちた。


 背中が壁をこすり、腰が石畳に着いた。膝が折れ、両手が地面についた。支えようとした右手が痛みで震え、左手だけで上体を保った。


 巡回の足音が、近づいていた。


 路地の入口に向かって、等間隔の靴音が近づいていた。


 助かった——と、思えなかった。


 身体が強張った。


 巡回は男だった。足音の重さで分かった。鎧の金属音で分かった。複数の、男の、近づく足音。


 さっき触られた腿の内側が、まだ冷たかった。指の跡が、皮膚の上に残っているように感じた。


 男が近づく。


 男の手が——。


 理屈ではなかった。巡回は衛兵だった。助けに来たのかもしれなかった。だが身体は、「男が近づいてくる」という事実だけを受け取って、同じ反応を返していた。


 路地の奥へ、這うように身体を動かした。


 壁の影に。暗がりの中に。さっきまで入れなかった闇の中に、今は自分から潜り込もうとしていた。見つかりたくなかった。誰にも。


 巡回の足音が、路地の入口を通り過ぎた。


 覗き込む影はなかった。灯りが路地の入口を一瞬だけ照らし、すぐに通り過ぎた。規則的な足音が遠ざかっていく。


 レオンは路地の壁と壁の間で、膝を抱えていた。


 チュニックの裾を、両手で押さえていた。腫れた右手が痛んだ。それでも、布地を握る手を離せなかった。裾の下を、もう誰の指にも触らせたくなかった。


 身体が震えていた。寒さではなかった。筋肉痛でもなかった。制御できない震えが、肩から始まって腕に下り、膝まで伝わっていた。歯の根が鳴った。


 声が、出た。


 出そうとしたのではなかった。喉の奥から、壊れた笛のような音が漏れた。それが自分の声だと分かるまでに、数秒かかった。


 泣いていた。


 涙がこぼれていることに、目が熱くなってから気づいた。頬を伝って、顎の擦り傷に沁みた。痛みで、ようやく自分が泣いているのだと理解した。


 声を殺そうとした。殺せなかった。壁に額を押しつけて、唇を噛んで、それでも嗚咽が漏れた。高い声が路地に反響するのが怖くて、口を掌で覆った。右手の打撲が脈打った。


 泣いた。


 声を殺しきれないまま、暗い路地の隅で膝を抱えて泣いた。涙の理由を、怒りだと思いたかった。屈辱だと思いたかった。だが正直に言えば——怖かった。


 怖かった。


 指が触れた瞬間、身体が動かなくなった。叫べなかった。暴れられなかった。あの手を振り払えなかった。殴れなかった。噛みつけなかった。何もできなかった。


 商品として点検された。傷の有無を確かめられた。脚を触られた。値踏みされた。上物だと言われた。養生すれば仕上がると言われた。


 全部、されるがままだった。


 レオン・ローゼンフェルトが、されるがままだった。


 涙が止まらなかった。拳を石畳に叩きつけようとして、右手の腫れが悲鳴を上げ、振り下ろせなかった。左手で叩いた。痛みが掌に走ったが、そんなものは何の足しにもならなかった。


 時間が、過ぎた。


 どれだけそうしていたのか分からなかった。涙が枯れたわけではなかった。ただ、泣き続ける体力が残っていなかった。嗚咽が痙攣のように間遠になり、呼吸が荒い吐息に変わった。


 路地の闇は、何も変わっていなかった。石壁は冷たく、空気は湿っていて、油と生ごみの匂いが底に溜まっていた。


 膝を抱えたまま、壁にもたれた。チュニックの裾を押さえる手は、まだ離せなかった。


 目を閉じた。


 閉じた瞼の裏に、あの紋様が浮かんだ。鎖骨から首にかけて這う蛇の刺青。暗がりの中で顔は見えなかったのに、胸元に刻まれた蛇のかたちだけが、やけに鮮明だった。声だけが残っていた。


 ——上物だよ。


 ——高く引き取ってくれるとこがある。


 身体がまた震えた。


 この町にいたら、また来る。


 次は——巡回が通りかからないかもしれない。


 そう考えた瞬間、腹の底が冷えた。恐怖が、もう一段深い場所に落ちた。今夜は運が良かったのだ。たまたま巡回の経路にこの路地が入っていただけだ。


 運で生き延びた。


 それは、もう二度と通用しないということだった。


  *


 朝が来た。


 路地の壁の間に、細い光が差し込んだ。レオンは壁にもたれたまま、眠れずに夜を明かしていた。何度か意識が落ちかけたが、そのたびに身体が跳ねて目が覚めた。足音が聞こえるたびに。風が路地を抜けるたびに。


 立ち上がるのに、壁に手をついて三度試みた。膝が笑っていた。筋肉痛と、一晩中同じ姿勢でいたことによる硬直。素足の裏は、湿った石畳の冷たさを吸って感覚が鈍くなっていた。


 路地を出た。


 朝の通りは、夜とは別の場所のように見えた。荷車が行き交い、店の前で木箱が積まれ、子供の声が遠くで聞こえた。レオンは通りの端を歩いた。すれ違う人間の誰もが、泥にまみれた少女を見て、見ないふりをした。


 南門前倉庫に、足が向いた。


 考えて決めたわけではなかった。昨日と同じ道を、身体が勝手に辿った。監督に「明日も来るなら朝一番」と言われていたことを、足が覚えていた。


 倉庫の前に着いた。大扉が開いていて、中から木箱の擦れる音と、低い声が聞こえた。


 レオンは、入口の脇に立って、中を覗いた。


 男たちが箱を運んでいた。昨日と同じ光景だった。汗と土埃と、木と油の匂い。天井の採光口から朝の光が三本、斜めに差し込んでいた。


 目が、探していた。


 自分でも気づかないうちに、視線が倉庫の中を舐めるように動いていた。木箱の列の向こう。荷車の脇。奥の壁際。


 あの、無口な獣人の姿を探していた。


 値踏みしなかった男。詮索しなかった男。箱が膝に当たりかけたとき、無言で押さえてくれた手。名前も知らない。言葉もほとんど交わしていない。それなのに、今朝この場所に来たのは——あの男がここにいるかもしれないと、どこかで思っていたからだった。


 倉庫の中に、獣人の姿はなかった。


 今日はいないのか。それとも、もう来ない場所なのか。日雇いの労働者に、「毎日同じ場所にいる」保証はない。昨日たまたま同じ現場だっただけで、今日は別の仕事を取っているのかもしれない。明日はもっと遠い倉庫にいるかもしれない。


 名前を知らなかった。


 呼び方が分からなかった。誰かに「昨日ここにいた獣人の男を知らないか」と聞くこともできた。だが、それをしたところで——何を頼めるというのか。


 助けてくれとも言えない。守ってくれとも言えない。昨日すれ違って、箱を押さえてもらっただけの相手に、一体何を求められる。


 名前も知らない男に縋ろうとしている自分が、はっきりと見えた。


 それが、一番痛かった。


 昨夜の恐怖より。腕を掴まれた力より。あの指が肌に触れた感触より。声が出なかった屈辱より。


 ——頼れる人間が、一人もいない。


 この町に、自分の名を呼ぶ者はいない。自分が消えても気づく者はいない。昨日箱を押さえてくれた獣人も、レオンの名前を知らない。レオンも獣人の名前を知らない。その程度の接点が、今の自分にとっての最大の縁だった。


 倉庫の入口から、目を逸らした。


 行くべきだった。


 この町を出る。どこへ行くかは決まっていない。次の町が安全だという保証はどこにもない。同じことが起きるかもしれない。もっとひどいことが起きるかもしれない。


 だが、ここにいたら、あの蛇の紋様の男たちがまた来る。


 「高く引き取ってくれるところがある」——あの声を、もう一度聞きたくなかった。あの指に、もう一度触れられたくなかった。


 南門の方角に、目を向けた。


 門の向こうには街道がある。街道の先には、別の町がある。銅貨が数枚と、硬いパンの残りと、登録証と、依頼書の控え。それだけを持って、歩く。


 どこへ行けばいいのかは分からなかった。


 次の町が違う保証など、どこにもなかった。


 それでも——ここにはいられなかった。


 チュニックの裾を、右手で一度だけ握り直した。腫れた指が痛んだ。その痛みを合図にするように、レオンは倉庫に背を向けた。


 南門へ向かって、歩き出した。


 素足の裏に、朝の石畳が冷たかった。

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