第7話「荷運び」
南門前の倉庫は、思っていたより広くなかった。
石壁に囲まれた矩形の空間。天井は高いが、窓は上部に細い採光口が三つあるだけで、昼でも薄暗い。地面は踏み固められた土で、ところどころ荷崩れの跡か、木屑と乾いた藁が散らばっている。奥に向かって木箱が段積みになっており、手前に空の荷車が二台。倉庫の入口は南向きの大扉ひとつで、そこから差し込む光だけが作業場を照らしていた。
集合時刻の少し前に着いた。他の労働者はすでに五人ほどいて、入口近くの日陰に腰を下ろしたり、壁に背を預けたりしている。全員男だった。体格はまちまちだが、どの腕も日焼けしていて、手の甲に古い擦過痕が幾筋も走っている。慣れた人間の手だった。
レオンはその輪に入らず、入口の反対側の壁際に立った。
チュニックの裾が膝下でだらしなく揺れた。片側の肩布がずり落ちて、鎖骨の下が覗いている。直す気力が出るまで、少し時間がかかった。泥で硬くなった布を引き上げて、肩に押し込んだ。
左足の裏が、踏み固められた土の冷たさを直に拾っていた。右足の布巻きは、ここまで歩く間にさらに緩んで、足首の上でほどけかけている。
腹が、鳴った。
周囲に聞こえたかどうか。視線を動かさずに確認した。誰もこちらを見ていない。壁際の小柄な——汚れた——女ひとりに、関心を向ける理由がないのだろう。
それで、よかった。
*
作業の指示は簡潔だった。
現場監督らしい中年の男が、奥の段積みを指差して言った。南門の外に待機している荷馬車三台に、この木箱を全部積み込む。一箱ずつ持って外に運べ。昼飯は正午に出す。日暮れまでに終わらなければ日当は出ない。
男たちが立ち上がった。無言で奥へ向かい、最初の一人が木箱のひとつに手をかけた。
箱は、腰の高さほどの立方体だった。側面に縄が回してあり、取っ手の代わりになっている。男はその縄を両手で掴み、膝を曲げて持ち上げた。木と中身の重さで腕の筋が浮いたが、足取りは安定していた。そのまま入口へ向かい、日差しの中へ消えた。
二人目が続いた。三人目が続いた。
レオンは、四番目に箱の前に立った。
縄に手をかけた。右手の拳が脈を打つように痛んで、握り込みの力が半分も入らなかった。左手は擦り傷の掌が縄に擦れて、表面が引きつった。
膝を曲げた。腰を落とした。かつてなら——レオン・ローゼンフェルトなら——この程度の箱は片手で肩に担ぎ上げていた。重量を気にしたことすらなかった。
持ち上げようとした。
箱は、動かなかった。
縄が掌の中で滑って、指が弾かれた。右手の腫れが内側からずきりと鳴った。腰に力を入れ直して、もう一度引いた。足裏の傷が地面を蹴る反動で開いた。
箱は、一寸も浮かなかった。
三度目。今度は身体全体を縄に預けて、背中で引こうとした。チュニックの襟ぐりがずれて、肩がまた露出した。脇腹の打撲が呼吸のたびに軋んだ。腕が震えて、視界の端がちらついた。
木箱の底面が、乾いた土の上で、ほんの僅かに——ずれた。
それだけだった。
持ち上がってはいない。引きずっただけだった。一寸。爪の幅ほどの距離を。
五番目の男が横を通り過ぎた。同じ箱より一回り大きい木箱を両腕で抱えて、何でもない顔で歩いていった。足音が遠ざかる。
レオンは縄を握ったまま、動けなかった。
——何をやっている。
自分に言い聞かせた。声にはしなかった。喉が痛いからではなく、声にする意味が思いつかなかったからだ。
縄を持ち替えた。箱の上面に両手を載せて、体重を前にかけた。箱を傾けて、底辺の片方を支点にして、引きずるように動かせないか。
傾いた。重心が移動して、倒れそうになった。箱ではなく、自分の身体が。慌てて足を踏ん張った右足の布巻きが、ついに足首からずり落ちた。
素足が二本になった。
箱は、傾いたまま止まっていた。
もう一度押した。底辺の角が土を噛んで、抵抗した。全体重を載せて、腕で押し込んだ。肘の内側が木の角に食い込んで、皮膚が擦れた。
箱が、少しずつ滑り始めた。
押した。押した。入口までの距離を、這うように進んだ。男が一往復する間に、レオンは箱ひとつを半分も運べていなかった。
*
正午までに、レオンが運んだ箱は四つだった。
男たちは、同じ時間で十二から十五ほど運んでいた。三分の一。いや、それ以下かもしれない。二箱目からは持ち上げることを諦めて、最初から引きずった。三箱目で右手の握力がほとんど消えて、左手だけで縄を引いた。四箱目を荷馬車の脇まで運んだとき、膝の裂傷のかさぶたが剥がれて、チュニックの裾の内側に血が滲んだ。
昼飯が出た。
倉庫の入口脇に、大鍋と木皿が並んだ。中身は豆と根菜の煮込みだった。匂いが鼻に届いた瞬間、腹が音を立てた。今度は隠しようがなかった。
木皿を受け取って、壁際に座った。匙を持つ手が震えていた。空腹のせいか、腕の疲労のせいか、判別がつかなかった。
最初のひと口が、喉を通った。
何日ぶりだったか。ギルドの登録日に水を飲んで以来、固形物を口にしていない。二日か、三日か。数えることに意味がなかった。
味は、わからなかった。舌が味を拾う前に、胃が食物を要求して、噛む速度が勝手に上がった。喉の痛みが嚥下のたびに刺さったが、止まらなかった。止められなかった。
木皿が空になった。匙を置いた。指先の震えは止まっていなかったが、腹の底に重さが戻っていた。
何かが、少しだけ繋がった感覚があった。身体と意志の間で、途切れていた回路が、食物という燃料でかろうじて接触した。
それでも——立ち上がるのに、壁に手をつく必要があった。
*
午後の作業に入って、二箱目を引きずっているときだった。
視界の端に、他の労働者とは違う体格の影が映った。
獣人だった。
背が高い。レオンの頭ひとつ半は上にある。腕は太いが、筋肉のつき方が人間とは違った。肩から上腕にかけての線が滑らかで、獣の四肢に近い丸みを持っていた。耳が頭の上に突き出ている。顔の輪郭は人間に近いが、眼の奥の光の反射が違う。瞳孔の形が、縦長に見えた。
獣人は、黙って木箱を運んでいた。
他の男たちと同じ箱を、同じように持ち上げて、同じように歩いていた。違うのは、誰とも口を利いていないことだった。他の労働者同士は、作業の合間に短い言葉を交わしていた。重さの文句、次の箱の位置の確認、昼飯の味の悪口。獣人は、その輪に入っていなかった。入ろうとしていないのか、入れないのか。
レオンの横を通り過ぎるとき、獣人の視線がこちらに触れた。
一瞬だった。
値踏みではなかった。品定めでもなかった。「小さな女が箱を引きずっている」という事実を認識して、それ以上の意味を載せずに通り過ぎた。そういう視線だった。
——珍しい。
そう思った理由が、すぐにはわからなかった。箱の縄を引き直して、また足を踏み出した。土を踏む素足の感触が、午前より少し鈍くなっていた。痛みに慣れたのか、足裏の感覚が磨り減ったのか。
三箱目を引きずり始めたとき、理由がわかった。
あの獣人は、レオンを「女」として見なかった。
ギルドの受付嬢は、測定器越しにこちらを見た。冒険者たちは、値踏みか憐れみか、どちらかの目で見た。依頼板の前ですれ違った男たちは、「魔力なしの女」という札を読み取るように見た。
獣人は、何も読み取ろうとしなかった。
たぶん——これは推測でしかなかったが——あの獣人自身が、他人から余計なものを読み取られ続けてきたのだろう。種族という札を。能力とは関係のない、生まれだけで貼られる値札を。
だから、他人にそれをしない。
レオンは気づかないうちに、午後の残りの作業を、獣人の近くで行っていた。意識して選んだわけではない。ただ、他の人間の近くよりも、そこが楽だった。楽という言葉は正確ではない。余計な力が要らなかった。身体はどこもかしこも痛んでいたが、神経のどこかで、警戒に割いていたぶんが僅かに緩んでいた。
一度だけ、箱を引きずる途中で左手が滑って、箱の角が膝に当たりそうになった。避けようとして体勢を崩し、倒れかけた。
獣人が、横から箱を片手で押さえた。
箱が止まった。レオンが膝をついて、息を整える間、獣人は箱を支えたまま、何も言わなかった。視線はレオンではなく箱の上面に向いていた。
「……悪い」
掠れた声で言った。喉の痛みが響いたが、それより先に、言葉が出ていた。
獣人は、短く頷いた。言葉はなかった。箱から手を離して、自分の作業に戻った。
それだけだった。
レオンは膝の泥を払って——払おうとして、もともと全身が泥だらけだったことを思い出して、手を止めた。立ち上がって、また縄を掴んだ。
*
日暮れ前に作業が終わった。
正確には、レオンの分が終わったのではなく、全体の作業が終わった。最後の数箱は、男たちが手分けして片づけた。レオンの運搬量は全体の一割にも満たなかっただろう。
日当が支払われた。
現場監督が労働者を順に呼んで、手渡しで銀貨を配っていた。一人に一枚。同じ額。同じ硬貨。レオンの前に呼ばれた男は、二十箱近く運んでいた。銀貨一枚。その前の男も、似たような数をこなしていた。銀貨一枚。
レオンの番が来た。
監督の手が、一瞬だけ止まった。こちらを見た。泥だらけの、傷だらけの、小柄な女を。何か言いかけたように口元が動いたが——結局、何も言わなかった。
銀貨一枚が、掌に載った。
同じ額だった。二十箱運んだ男と、四箱しか運べなかった女に、同じ銀貨一枚。日当とはそういうものだった。来て、働いて、日暮れまでいた。条件はそれだけだ。箱を何個運んだかは、どこにも書いていなかった。
金属の重さが、掌の中で妙に据わりが悪かった。受け取る資格のある重さなのか、わからなかった。だが突き返す選択肢は、最初からなかった。
「明日も来るなら、朝一番だ」
監督がそれだけ言った。次の人間を呼んだ。
レオンは銀貨をチュニックの内側にしまった。依頼書の控えと登録証の隣に。紙と金属が胸の近くで重なった。
顔を上げたとき、獣人の姿はもうなかった。日当を受け取る列に並んでいたはずだが、いつの間にか倉庫を出ていた。名前を聞いていなかった。聞く間もなかったのか、聞こうとしなかったのか——どちらだったか、分からなかった。
倉庫を出た。南門の外に、夕暮れの空が広がっていた。荷馬車はもう出発していて、轍の跡が街道に伸びていた。
足が重かった。両足とも素足で、地面の凹凸がすべて伝わった。膝から下が鉛を巻いたように動かない。背中の筋が固まって、肩甲骨の間が張り詰めていた。
それでも——腹には昼の煮込みが残っていた。銀貨が一枚、胸元にあった。明日も、同じ場所に来れば、同じように稼げる。
通りを歩き始めた。日が傾いて、建物の影が石畳を横切っていた。
*
夜の酒場は、人の匂いが濃かった。
安い。それだけが選んだ理由だった。看板もなく、路地の奥に入口があって、扉は開け放しで、中から油と酒と汗の混じった空気が漏れ出していた。木のテーブルが六つ。カウンターの奥に竈があり、何かが煮えている匂いがした。照明は天井から下がった油灯がふたつ。壁の隅は暗い。
客は、男ばかりだった。
労働者、日雇い、流れ者。正規の冒険者というよりは、ギルドに登録するかしないかの境界にいるような連中が多い。装備を持っている者はほとんどいなかったが、腰に短刀を差している者が何人かいた。声が大きく、笑い声がひっきりなしに跳ねていた。
レオンは入口に近い席を選んだ。壁を背にして、扉が見える位置。前線にいた頃の癖だった。退路の確保。視界の確保。レオンの身体ではそんなことを意識する必要もなかったが、今は違う。
一番安い食事を頼んだ。パンと、具の少ない汁物。銀貨をカウンターに出すと、店の親父が硬貨を一瞥して、無言で釣りの銅貨を何枚か皿の横に置いた。銀貨一枚は、この店では大きすぎる単位だった。最安の食事は銅貨で事足りる世界だ。
釣りをチュニックの内側にしまった。残った銅貨の枚数を数える気にはなれなかった。
出てきたパンは硬く、汁は薄かった。昼の煮込みのほうがまだ味があった。
食べた。味を気にしている余裕はなかった。身体が食物を必要としていて、口に入るものは何でも等しく燃料だった。
汁を啜っているとき、視線を感じた。
最初は気のせいだと思った。薄暗い店内で、誰がどこを見ているかなど正確にはわからない。だが、掬い上げた匙を口に運ぶ動作の途中で、首の後ろが——わずかに張った。
視線を上げずに、匙を口元で止めた。汁の表面に、油灯の光が揺れていた。
斜め前方のテーブル。三人の男が座っていた。杯を傾けながら、声を落として何か話していた。ひとりが——顎の長い、痩せた男が——こちらに目を向けていた。目が合ったわけではない。男の視線はレオンの顔ではなく、肩から鎖骨にかけてのあたりを撫でていた。ずり落ちたチュニックの襟ぐりから覗いている、細い首と肩の線を。
別のテーブル。壁際に二人。こちらは杯を持ったまま、会話もせずに店内を眺めていた。片方の男の目が、レオンの方向で止まっていた。口元が、薄く弧を描いていた。
——見ている。
レオンの指が、匙の柄を強く握った。右手の拳の腫れが抗議するように脈打ったが、構わなかった。
この視線を、知っている。
レオンとしてではなく。この姿になってから、この数日で学んだ。ギルドの奥のテーブルから向けられたもの。路地で擦れ違うときに感じたもの。「強いか弱いか」を測る視線ではない。「手が届くかどうか」を測る視線だった。獲物を前にした——いや、商品を前にした値踏み。
胃の中の食物が、急に重くなった。
汁物の匙を皿に置いた。パンの残りがあったが、口に入れる気が失せていた。奥歯を噛み締めた。噛み締めるしかなかった。
——怒れ。
自分に、そう命じた。
レオン・ローゼンフェルトなら、このテーブルごと蹴り倒していた。あの視線を向けた男の襟首を掴み上げて、壁に叩きつけていた。怒りに値する。侮辱に値する。俺を、ただの獲物だと——
怒りは、来なかった。
来ないのではなく、着火しなかった。引火点まで温度が上がる前に、身体が「それをやっても意味がない」と先に計算を終えてしまう。あの男たちの腕は太く、この身体は小さい。蹴り倒せない。掴み上げられない。叩きつけられない。
森のゴブリンと同じだった。読めるのに、できない。
ただし今度は、剣の話ではなかった。
左手を、テーブルの下で握った。拳を作った。右手は腫れて拳が握れないから、左手だけで。
——鳴らしてやる。
男だった頃の反射だった。指の関節を鳴らす。骨が軋む乾いた音を立てる。あの音ひとつで、酒場の空気を変えられた。「こいつは面倒だ」と思わせるだけの、圧。威嚇の最小単位。
左手の指を折り曲げた。親指の付け根を、人差し指の根元に押し当てた。
力を込めた。
——音は、鳴らなかった。
もう一度。中指を引いて、掌の内側で圧をかけた。
鳴らなかった。
関節が細すぎた。指が短すぎた。圧をかけても、骨と骨の間の隙間が狭くて、気泡が弾ける余地がない。少女の手は、威嚇のために作られていなかった。
レオンの指が、テーブルの下で、静かに開いた。力が抜けたのではなく、続ける意味がなくなっただけだった。
——誰にも聞こえなかった。当たり前だ。音が出ていないのだから。
だが、動作は見えていた。
斜め前の顎の長い男が、仲間に何か言った。低い声で、聞き取れなかった。隣の男がこちらを見て、口元を歪めた。笑っていた。小さく、だが明確に。
拳を握ろうとして失敗した女が、可笑しかったのだろう。
あるいは、威嚇しようとして何もできなかった女が。
笑い声は聞こえなかった。聞こえなかったのに、口元の形だけで十分だった。腹の奥に、熱くも冷たくもない、形容しがたいものが溜まった。怒りではなかった。怒りならまだよかった。怒りには方向がある。拳を向ける先がある。
これには、なかった。
ただ——居場所がない、という感覚だけがあった。この店に。この席に。この身体に。
パンの残りを掴んで、立ち上がった。皿はそのままにした。
椅子の脚が床を擦る音が、自分の耳にだけ大きく聞こえた。
*
夜の通りは、昼間より暗かった。当たり前のことを、今さらのように感じた。
油灯の光は建物の正面にしか届かない。路地に入れば月明かりだけになる。石畳は昼間の熱を失って冷たく、素足の裏に温度が刺さった。
パンの残りをチュニックの内側に押し込んだ。登録証と釣りの銅貨の隣に。硬いパンの角が、胸の皮膚に当たった。
歩いた。
酒場を出てから、三つ目の角を曲がったあたりだった。
足音が、聞こえた。
自分の足音ではなかった。自分の足は素足で、石畳を踏む音は柔らかい。聞こえたのは、靴底の硬い音だった。革靴か、底を打った長靴か。
一定の間隔で、後ろから。
レオンは歩く速度を変えなかった。変えなかったのは、冷静だったからではない。変えたらどうなるか、わからなかったからだ。足を速めれば、相手も速めるかもしれない。立ち止まれば、追いつかれるかもしれない。
身体の奥で、何かが引っかかっていた。名前のつかない違和感。殺気ではなかった。刃物を抜いた人間の、あの刺すような気配とは違う。もっと粘ついた、曖昧な圧。
何かがおかしい、と思った。だが「何が」おかしいのか、言語化できなかった。
角をもうひとつ曲がった。足音は消えなかった。
ひとつではなかった。
二つ。いや、三つ。微妙にずれたリズムで、石畳を踏んでいる。最初のひとつは等間隔。二つ目はやや遅れて、重い。三つ目は軽く、間隔が短い。
三人。
レオンの喉が、干上がった。喉の痛みとは別の——筋が引き攣るような感覚。息を吸おうとして、胸の上のほうが詰まった。
走れるか。
この足で。素足で。膝の傷が開いて、太腿の筋は午後の作業で使い果たして、右脇腹の打撲がまだ呼吸のたびに軋んで。
走れるかもしれない。追いつかれるかもしれない。
角を曲がった。今度は広い通りに出た。酒場がもうひとつあり、そこから漏れる灯りが石畳を橙色に染めていた。人の声が聞こえた。
足音が——遠のいた。
完全に消えたわけではなかった。距離が開いた。人通りのある場所に出たことで、間合いを取り直したような。
レオンは、広い通りを歩き続けた。足を止めなかった。振り返らなかった。
視線だけを、一瞬、左に流した。通りの向こう側に、建物の陰がある。人影は見えなかった。見えなかったが、それは「いない」ことの証明にはならなかった。
宿を取る金はなかった。今夜も路地裏で明かすしかない。だが、暗い路地に入ることが——
足が、止まりかけた。
——入れない。
理屈ではなかった。戦場で磨いた勘ですらなかった。もっと原始的な、身体の拒否反応だった。暗い場所に。狭い場所に。逃げ道のない場所に。
レオン・ローゼンフェルトは、暗い場所を恐れたことがなかった。暗闇の中から出てくるものは、すべて斬れば済んだ。
今は、斬れない。
広い通りをそのまま歩いた。人通りがある方向へ。灯りがある方向へ。
足音は、もう聞こえなかった。
聞こえなくなったことが、安心ではなく、別の種類の不安として残った。消えたのではなく、見えなくなっただけだという感覚が、首の後ろに張りついたまま剥がれなかった。
歩いた。
素足の足裏が冷たかった。石畳の継ぎ目を踏むたびに、切り傷がちくりと刺した。チュニックの内側で、パンの角が胸に当たっていた。登録証と、銅貨と、依頼書の控えが、肌の上で揺れていた。
俺が持っているものは、今はこれだけだった。
そして今夜は——それすら、安全に抱えて眠れる場所がなかった。




