第6話「依頼板」
壁に背をつけたまま、目が覚めた。
路地の奥。建物と建物のあいだに、人ひとり分の隙間があった。昨夜、歩く気力が尽きたところで見つけた場所だった。石壁が両側から迫り、頭上は軒と軒が重なって空を細く切り取っていた。
膝を抱えた姿勢のまま、一晩を過ごしたらしい。右脇腹が鉛のように重い。ゴブリンの棍棒を受けた箇所が、寝ている間に芯まで固まったようだった。呼吸のたびに、肋骨の下が軋む。左前腕も同じだ。動かすと、腕の中で何かが引きつれる。
足裏の布巻きは、左足のほうが完全にほどけていた。石畳に直接触れた足の裏が、冷たい。水膨れの跡と切り傷が固まった皮膚に、朝露の湿気がしみていた。
腹が鳴った。
もう何日、まともに食っていない。指先に力が入らない。視界の端が、ときどき暗くなる。立ち上がろうとして膝に手をつくと、掌の擦り傷が石畳にこすれた。左頬と顎の擦り傷は、乾いた泥と一緒にかさぶたになっていた。右手の拳は腫れたまま、指の関節がうまく曲がらない。
立ち上がった。
路地の出口に向かって歩いた。朝の光が石畳を白く照らしている。通りには、荷車を引く男や、店の前を掃く女の姿があった。パンを焼く匂いが、どこかから流れてきた。
腹がもう一度、鳴った。
——食わなければ死ぬ。
それだけが、頭の中にあった。昨日のゴブリンのことも、泥だらけの細剣のことも、ギルドの受付で何を言われたかも、思い出す余裕がなかった。腹が減りすぎて、感情が動かない。怒りも悔しさも、空腹の底に沈んでいた。
ギルドに向かった。
他に行く場所がなかった。
*
朝のギルドは、昨日の夕方とは空気が違っていた。
扉を開けると、依頼を取りに来た冒険者が十人ほど、ホールに散っていた。朝飯を済ませたばかりらしい顔が多い。装備を整え、仲間と打ち合わせをしている者。受付で書類を受け取っている者。依頼板の前で紙片を見比べている者。
誰も、こちらを見なかった。
泥だらけのチュニック一枚で、素足同然の女がひとり入ってきたところで、朝の準備に忙しい冒険者たちの視界には入らないらしい。昨日の夕方、細剣を返したときも、受付嬢以外はろくに反応しなかった。
俺は壁際を歩いて、依頼板の前に立った。
木の板に、羊皮紙や安い紙の依頼書が画鋲で留められている。左側に戦闘系。右側に非戦闘系。下のほうに、小さな文字で「女性向け」と書かれた区画があった。
戦闘系の依頼書に、目が行った。
『ゴブリン討伐 リムル南方森林 D級 報酬:銀貨3枚 条件:C級以上のパーティ推奨』
昨日、俺が三匹に叩きのめされた相手だ。銀貨三枚。それが命を賭ける値段なのか、安いのか高いのか、今の俺にはわからなかった。わかるのは、あの三匹に勝てなかったという事実だけだった。
隣の依頼書にも目を通した。
『パックウルフ駆除 街道北 D級 報酬:銀貨5枚 条件:魔力測定値E以上』
——魔力測定値。
視線が、その一行で止まった。
次の依頼書。
『ロックリザード調査 東部丘陵 D級 報酬:銀貨4枚+素材買取 条件:魔力測定値E以上・二名以上』
その次も。
『ホーンラビット間引き 農地周辺 E級 報酬:銀貨1枚 条件:魔力測定値E以上』
E級の害獣駆除ですら、条件に魔力測定値が書いてある。
俺は、一枚ずつ読んだ。戦闘系の依頼書を、上から下まで全部。十数枚あった。そのすべてに、魔力に関する条件が記されていた。最低でもE。ほとんどがD以上。
魔力ゼロの人間が受けられる戦闘依頼は、一枚もなかった。
登録のときに言われたことが、腑に落ちた。あの受付嬢は規定だと言った。戦闘依頼は受けさせられない、と。あのときは意味がわかっていなかった。俺の腕を見てもいないくせに門前払いか、という苛立ちしかなかった。昨日の夕方も、泥まみれの細剣を返すので精一杯で、依頼板の中身まで見る余裕がなかった。
今、こうして並んだ紙片を読んで、ようやく理解した。
——規定、というのは、受付嬢の裁量じゃない。依頼そのものに条件として書いてある。
つまり、誰が受付に立っていても同じだ。どれだけ頼み込んでも、怒鳴りつけても、泣いてみせても。紙に書かれた条件は変わらない。
依頼板の前から、動けなかった。
*
背後で、声が聞こえた。
「——あの子、昨日も来てなかったか」
「ああ、泥だらけのやつだろ。受付で測定器が反応しなかったっていう」
二人の冒険者が、酒場寄りのテーブルで朝の茶を飲みながら話していた。声を潜めているつもりなのだろうが、朝のホールは静かで、壁際まで届いていた。
「魔力ゼロだってな。獣でも魔力はあるのに」
「女だろ。剣なんか持ってどうすんだ。採取でもやりゃいいのに」
「受付も困るだろうな。戦闘依頼は出せないし。女で魔力なしなんて、やれる仕事が——」
「薬草摘みか、洗濯か、飯炊きか。まあ、そんなもんだろ」
笑い声が混じった。嘲りではなかった。世間話の延長だった。当たり前のことを当たり前に言っている、という気楽さだった。
拳を握ろうとした。
右手が、痛みで止まった。腫れた拳は、指を折り込むだけで関節が悲鳴を上げる。力が入らない。
——レオンなら。
その思考が、一瞬だけ走った。レオンなら、あの二人の前に歩いていって、テーブルを片手で叩き割って、怒鳴りつけていた。何を言ったかは覚えていないだろう。言葉より先に声が出る。大音声で、ホール中が黙る。それが、俺のやり方だった。
今、喉から出る声は、高くて細い。
あの二人に届くかどうかも怪しい。届いたところで、泥だらけの小娘が何か喚いている、としか見えないだろう。テーブルを叩き割る腕力もない。立っているだけで、足裏が痛い。
怒りは、湧かなかった。
湧く前に、身体が止めた。怒ったところで何もできない身体が、感情の着火を拒否していた。空腹が底にあった。痛みが全身にあった。怒る燃料が、どこにも残っていなかった。
依頼板に向き直った。
*
右側の非戦闘系を見た。
上の段には、魔力測定値の条件がついた調査や運搬の依頼が並んでいる。その下に、「女性向け」の区画。
読んだ。
『薬草採取 リムル西方草原 報酬:銅貨15枚 条件:女性可・魔力不問』
『宿屋の洗濯補助 報酬:銅貨10枚+昼食 条件:女性・即日可』
『酒場の厨房手伝い 報酬:銅貨12枚+賄い 条件:女性・調理経験者優遇』
『貴族邸の清掃要員 報酬:銅貨20枚 条件:女性・身元確認あり』
——採取。洗濯。炊事。掃除。
どれも、魔力不問だった。女性可、と書いてある。裏を返せば、女にはこれしかないという意味だった。男で魔力がなくても、力仕事や護衛の下働きがある。女で魔力がなければ、裏方の雑用だけ。
報酬は銅貨。銀貨ではなく、銅貨。戦闘依頼の十分の一以下。
洗濯の仕方を知らない。調理の経験がない。薬草の見分け方も知らない。貴族邸の清掃に必要な所作も、身元を証明する手段もない。
レオン・ローゼンフェルトは、戦場以外の技能を何ひとつ持たない男だった。
それが今、少女の姿をして、女性向けの雑用依頼の前に立っている。できる仕事がひとつもない。戦えない。稼げない。食えない。
虚無が、腹の底から這い上がってきた。怒りではなかった。悲しみでもなかった。ただ、何も感じない。依頼板に並んだ文字が、意味のある言葉として頭に入ってこない。文字を読んでいるのに、文章にならない。目が滑る。
——どうする。
自分に問いかけた。答えが出なかった。
背中を壁につけた。依頼板の横の壁に、体重を預けた。立っているのが限界だった。膝の裂傷がずきずきと脈を打っている。右脇腹は呼吸のたびに抗議する。左前腕は、だらりと下げているだけで鈍く痛む。
足裏の布巻きが、左足はもう完全になくなっていた。右足のほうも、泥を吸った布が薄く伸びて、ほとんど素足と変わらない。石畳の冷たさが、足の裏から骨に伝わった。
目を閉じた。
*
どれくらいそうしていたか。
目を開けたのは、依頼板の前に人が立ったからだった。
背の高い男が二人、非戦闘系の上段を見ていた。運搬依頼の紙片を剥がして、中身を確認している。
「荷運び、今日もあるな。南門の倉庫だ」
「日当は銀貨一枚か。まあ、魔獣の解体よりは楽だろ」
「力さえありゃ誰でもできる仕事だからな。条件も——ほら、魔力不問だ」
男たちは紙片を受付に持っていった。
俺の視線は、男たちが見ていた場所に残っていた。
非戦闘系の上段。「女性向け」の区画よりずっと上。男たちが剥がした紙片の隣に、同じような依頼書がもう一枚、残っていた。
壁から背を離した。
依頼板に近づいた。
紙片は、依頼板の右上隅に、画鋲一本で留められていた。安い紙に、ぶっきらぼうな筆跡。
『荷運び作業員募集 南門前倉庫 日当:銀貨1枚+昼食 条件:成人・魔力不問・体力のある者 ※性別不問 ※翌朝集合』
——銀貨一枚。昼食つき。
魔力不問。
性別不問。
文字を三度読んだ。読み間違いではなかった。
銀貨一枚あれば、安宿に泊まれる。昼食がつけば、一日に二食は確保できる。条件は体力のある者。体力。筋力ではなく、体力。
——今の俺に、あるのか。
右手は腫れている。右脇腹は打撲。左前腕も打撲。膝は裂傷。足裏は布切れ一枚。空腹で指先が震えている。体力のある者。笑えもしなかった。
だが、他の条件はすべて満たしている。成人。魔力不問。性別不問。
この依頼板の中で、俺が受けられる仕事は、これだけだった。
左手を伸ばした。画鋲をつまんで引き抜く。紙片を掴んだ。
引ったくるように取った。
力が余って、隣の依頼書の端を巻き込んだ。画鋲が一本、床に落ちた。金属が石畳に当たる小さな音が、ホールの隅で鳴った。
誰も見ていなかった。
紙片を左手に握ったまま、受付に向かった。足裏が石畳を踏む感触が、さっきまでとは違った。痛いのは同じだった。空腹も変わらない。身体中の傷も、一つも治っていない。
それでも、手の中に紙がある。
明日の朝、南門の前に立てばいい。荷を運べばいい。銀貨一枚と飯が手に入る。それだけのことだ。
受付嬢が顔を上げた。昨日と同じ女だ。額の銀縁眼鏡。事務的な目。視線が俺の手元の紙片に落ち、次に俺の全身を見た。泥だらけのチュニック。腫れた右手。裂けた膝。素足。
何か言いかけた口が、一度閉じた。
それから、いつもの声で言った。
「荷運び依頼の受注ですね。登録証を」
俺は左手でチュニックの内側をまさぐり、雑用枠の登録証を出した。受付嬢が受け取り、依頼書と照合し、帳簿に何かを書き込んだ。
「明朝、日の出に南門前の倉庫に集合してください。遅刻は受け付けません。——それと」
受付嬢が、一瞬だけ視線を上げた。
「この依頼は力仕事です。体調の管理は自己責任になります」
忠告なのか、警告なのか、判断がつかなかった。声の抑揚が平坦すぎて、そこに何かの感情が乗っているのかどうか、読み取れなかった。
「——わかってる」
声が、掠れていた。喉の痛みのせいか、水を飲んでいないせいか。短い返事が、自分の耳にも頼りなく聞こえた。
登録証を受け取った。依頼書の控えを受け取った。
ギルドを出た。
*
通りに出ると、朝の光が白かった。
石畳は乾いていた。昨日の夕暮れの橙はなく、ただ白い光が均等に町を照らしていた。
左手に、依頼書の控えを持っている。擦り傷だらけの掌に、安い紙の端が引っかかった。
荷運び。
戦士が荷を運ぶ。かつて大剣を片手で振り回し、アイアンファングの群れを正面から蹴散らした男が、倉庫で荷物を担ぐ。
笑えるはずだった。笑うべき落差だった。だが笑いは出なかった。笑う気力も、嘆く気力も、怒る気力も、腹の底にはなかった。
あるのは空腹だけだった。
明日の朝まで、何も食えない。今日一日を、このまま過ごすしかない。水だけは、ギルドの裏手に共同の井戸があったはずだ。
左足の裏が、石畳の継ぎ目の段差を踏んだ。切り傷が開いた感触があった。小さく顔をしかめて、歩幅を狭くした。
紙片を、チュニックの内側にしまった。登録証と一緒に、胸の近くに押し込んだ。落とさないように。濡らさないように。
俺が持っているものは、今はこれだけだった。




