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礼装のレオナ〜最弱へと転落した最強の男が、真の強さを知るまで〜  作者: 今井 幻


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第5話「届かない」

 森に入ると、空気が変わった。


 頭上の枝葉が街道の日差しを遮り、光がまだらに落ちてくる。さっきまで背中を焼いていた陽が消え、代わりに湿った土と腐葉土の匂いが鼻腔を満たした。足元の感触も変わる。石畳でも乾いた土でもない、落ち葉が重なった柔い地面。布巻きの足が沈み込むたびに、水膨れの潰れ跡に鈍い圧がかかった。


 細剣を握り直す。右拳の芯が痛んだ。


 構わない。森に入った以上、獲物を見つけなければ意味がない。雑用は受け付けない。俺は戦う。戦える。戦えるはずだ。


 ……頭ではそう言い聞かせている。だがあの武器庫で分かったことが、まだ腹の底に沈んでいる。俺には技術がない。型がない。足運びがない。あるのは、かつての身体が覚えている「戦場の勘」だけだ。


 それでも——勘だけなら、まだ残っている。


 足を止めた。耳を澄ませる。


 風が枝を揺らす音。遠くで鳥が鳴いている。下草を何かが踏む、乾いた擦過音。右の茂みの奥——いや、右の奥と、左の斜め前にもう一つ。


 気配がある。三つ。小さい。人間より小さい。動きは雑で、隠れる気がない。


 ゴブリンだ。


 冒険者ギルドの壁に貼ってあった依頼票を思い出す。リムル南方の森、ゴブリン駆除。D級。駆け出しの冒険者が最初に受ける依頼。


 ——駆け出し向けだ。問題ない。


 そう思った瞬間、右の茂みが揺れた。


 灰色の肌。尖った耳。膝丈ほどの背丈。粗末な棍棒を握った小さな影が、下草を掻き分けて姿を見せた。黄色く濁った目がこちらを捉えている。続いて左の斜め前からもう一体。さらにその後ろから三体目。


 三体。囲む形ではない。まだ散漫に集まっている段階だ。


 俺は細剣を前に構えた。右腕が震えた。柄を握る拳の腫れが脈打つように熱い。歯を食いしばり、震えを殺した——殺しきれなかったが、構えは崩さなかった。


 声を出す。


「来い」


 自分の喉から出た音に、一瞬、意識が止まった。


 高い。細い。擦り切れたような声が、木々の間に吸い込まれて消えた。威圧の欠片もない。戦場で百人を黙らせた大音声の残骸すらない。


 ゴブリンたちは止まらなかった。怯みもしなかった。先頭の一体が歯を剥き出しにして、甲高い声で何かを喚いた。笑っているのか、威嚇しているのか——どちらにしても、こちらを脅威とは見ていない。


 当然だ。向こうから見れば、俺はただの小柄な人間の女だ。泥で汚れたチュニック一枚に、まともに構えられてもいない細剣。


 ……関係ない。


 踏み込んだ。


 右足で地面を蹴り、細剣を突き出す。先頭のゴブリンの胴を狙った。身体が覚えている距離——大剣のリーチ、長い腕、広い歩幅で詰められるはずの間合い。


 剣先が空を切った。


 届かない。


 腕が短い。歩幅が狭い。踏み込みが足りない。身体が覚えている距離感と、今の手足の長さが、まるで噛み合っていない。突きの軌道は正しかった。狙いも正しかった。ただ——物理的に、届かなかった。


 空振りの勢いで上体が前に流れた。足元の落ち葉が滑り、膝が折れかけた。体勢を立て直そうと左足を踏ん張る。足裏の布巻きが湿った土にめり込み、水膨れの痕が潰れる鈍い痛みが足首まで突き抜けた。


 その一瞬の停滞を、先頭のゴブリンは見逃さなかった。


 棍棒が横から来た。


 見えていた。振りかぶる角度も、踏み込む足の位置も、体重の乗せ方も。雑な横薙ぎだ。受け流すか、半歩下がるだけで躱せる。分かっている。やり方は分かっている。


 右腕を動かした。細剣の腹で受け流す——はずだった。


 棍棒と細剣がぶつかった瞬間、手首が弾かれた。衝撃が拳の打撲に直撃し、指が開いた。握力が足りない。手首の制御が利かない。受け流すどころか、細剣ごと腕が横に跳ねた。


 がら空きになった右の脇腹に、棍棒の先端がめり込んだ。


 呼吸が止まった。肋骨の下を鈍い塊で殴られた衝撃が、胴の中を跳ね回った。膝が崩れる。左手を地面に突いて倒れるのを堪えた。指の間に湿った落ち葉の感触——冷たくて、重い。


 二体目が来ていた。


 見えている。右斜め前から、石を握った手を振り上げて突っ込んでくる。避ける。左に転がる。落ち葉と泥を巻き上げながら転がり、木の根に背中がぶつかった。痛みが走ったが、石は避けた。それだけだ。避けただけで、反撃の体勢には程遠い。


 立ち上がろうとした。右手の細剣はまだ握っている——いや、握っていない。さっきの衝撃で手から離れていた。三歩ほど先の泥の中に、刃が半分埋まっている。


 三体目が背後の茂みから飛び出してきた。


 首の後ろの皮膚が粟立った。殺気ではない——ゴブリンの殺気は薄い。だが動物的な貪欲さ、押せると見た獲物に群がる本能の気配が、空気の温度を変えた。


 見える。三体目の軌道が見える。右から来る。低い姿勢。手に何かを持っている——石か、骨か。分からないが、投擲ではなく殴打の構え。


 左に跳ぶ。跳んだはずだった。実際には足が滑り、尻餅をついた。落ち葉と泥が尻と太腿を濡らした。チュニックの裾が泥を吸い、重くなった。


 三体目の腕が振り下ろされた。


 左腕を上げて防いだ。前腕の骨に硬いものがぶつかる衝撃。痺れが肘まで走った。防げた——が、それだけだ。反撃する手段がない。剣がない。素手で殴っても、この拳ではゴブリンの灰色の肌に傷一つつかない。


 分かっている。全部分かっている。


 相手の動きは見えている。次に何をするか、どこを狙ってくるか、どのタイミングで踏み込むか。全部読める。レオンだった頃の俺なら、この三体を倒すのに十秒もかからなかった。棍棒も石も、素手で払い、掴み、叩き折れた。


 だが。


 今の腕では払えない。今の脚では追えない。今の拳では砕けない。


 読めるのに——できない。


 それが、どういうことか。


 戦場で「分かっていて動けない」は死を意味する。見えているのに避けられない。読めているのに止められない。それは目を開けたまま刃を見るのと同じだ。暗闇で殺されるより、よほど——。


 先頭のゴブリンが、棍棒を振り上げて再び突っ込んできた。


 俺は走った。


 背を向けて——走った。


 剣。細剣が泥の中にある。それを拾わなければ。三歩先。踏み込み、左手で柄を掴んだ。泥が指の間に入り込み、柄が滑った。両手で握り直す。立ち上がる。背後からゴブリンの甲高い喚き声が迫る。


 振り返らなかった。走った。


 枝が顔を打った。下草が足に絡んだ。布巻きの足裏に何かが刺さる鋭い痛み——枝か、石か、構っている余裕がない。走れ。走れ。走れ。


 息が上がった。肺が熱い。喉の奥が焼けるように痛む——猛抗議で酷使した喉が、走る呼吸に耐えられない。呼吸のたびに喉の粘膜が擦れ、咳が込み上げた。咳をすれば速度が落ちる。落ちれば追いつかれる。


 追いつかれる。ゴブリンに。D級の。最弱の魔獣に。


 足が枝根に引っかかった。


 転んだ。顔から落ちた。両手で庇ったが間に合わず、頬と顎を地面に打ちつけた。口の中に泥と落ち葉の味が広がった。細剣の柄が手の中で回転し、刃が横向きになって泥に突き刺さった。


 起き上がれ。起き上がれ。


 膝を突いた。裂傷の乾いた血が地面との衝突で割れ、生温い液体が膝の皿を伝った。両手で地面を押し、立ち上がる。細剣を引き抜く。刃にこびりついた泥が剥がれず、半分以上が茶色く汚れたまま。


 後ろを見た。


 ゴブリンの声が——遠い。追ってきていない。縄張りの端まで来たのか、あるいは追う価値もないと判断したのか。甲高い喚き声が、木々の奥で反響して消えていく。


 追われていない。


 分かった瞬間、膝から力が抜けた。


 木の幹に背中を預けた。ずるずると滑り落ち、根元に座り込む。樹皮がチュニックの背を擦り、肩の露出した肌に当たって冷たかった。


 手が震えていた。


 細剣を握ったまま、右手が止まらなかった。泥だらけの刃が視界の端で揺れている。左手も同じだ。膝に置いた指が小刻みに震え、落ち葉を無意味に掻いている。


 静かだった。風の音と、遠い鳥の声と、自分の呼吸だけ。荒く、浅く、喉の奥で擦れる呼吸。


 ——逃げた。


 ゴブリンから。


 かつて、群れごと蹴散らした相手だ。アイアンファングの大群を正面から叩き潰した腕で、ゴブリン程度は障害物ですらなかった。視界に入れる価値もなかった。


 その相手から、背を向けて走った。転び、泥に這い蹲り、追われなくなるまで逃げた。


 腹の底から何かがせり上がってきた。


 怒りではなかった。屈辱ですらなかった。もっと根の深い、名前のつけられない感情だった。胸郭の奥が潰されるように圧迫され、呼吸が浅くなる。目の奥が熱い。鼻の奥が痛い。


 ——泣くな。


 歯を食いしばった。奥歯が軋んだ。顎の筋肉が引きつり、こめかみが痛んだ。


 泣くな。俺は泣かない。泣いたことなど——。


 ……あった。山の上で。ドラゴンに打ちのめされた後、星空の下で、一度だけ。


 目の縁から雫が落ちた。


 止められなかった。


 次の一粒がすぐに続いた。頬を伝い、顎を辿り、泥のついた首に落ちた。視界が歪んだ。木漏れ日と落ち葉と泥だらけの自分の膝が、水の底から見るようにぼやけた。


 声が漏れた。


 殺そうとした。喉を締め、唇を噛み、音を押し殺そうとした。しかし腹の奥から突き上げてくるものは止まらなかった。嗚咽が喉を割って出た。高い、細い、みっともない声。押し殺そうとするほど、次の波が大きくなった。


 「ッ——」


 声を噛み殺す。噛み殺しきれない。喉の奥で潰れた音が漏れ、鼻から息が荒く抜ける。涙が止まらない。手で顔を覆おうとして——右手は細剣を握ったまま離せなかった。左手だけで目を覆う。泥だらけの指が目元を汚した。


 何もかもが惨めだった。


 泥まみれのチュニック。傷だらけの膝。腫れた右拳。血と泥が混じった足。震える指。止まらない涙。出るのは高い声だけ。


 泣いている場合じゃない。立て。剣を握れ。戻れ。もう一度やれ。


 そう思う頭と、動かない身体の間に、埋められない溝があった。


 嗚咽は長く続いた。声を殺す力すら、やがて尽きた。木の根元で膝を抱え、額を膝に押しつけたまま、小さな肩が震えていた。泥に汚れた細剣が、右手から滑り落ちて落ち葉の上に倒れた。その音すら聞こえないほど、耳の中を自分の脈と呼吸が埋めていた。


  *


 どれだけそうしていたか分からない。


 涙が枯れたのか、疲れ果てたのか、気がつくと肩の震えは止まっていた。顔を上げると、木漏れ日の角度が変わっていた。さっきより低い。影が長くなっている。


 夕方が近い。


 左手で目元を拭った。泥が引っかかって、拭ったのか塗ったのか分からなかった。鼻を啜る。喉が焼けるように痛かった。


 立ち上がらなければ。


 膝に手をつき、木の幹に背を預けたまま立ち上がった。膝の裂傷がまた開いたらしく、血が脛を伝っていた。足裏の布巻きは泥を吸って重く、片方はほとんど解けかけている。


 落ち葉の上に倒れた細剣を見下ろした。


 泥と落ち葉がこびりつき、刃の銀色はほとんど見えない。柄も泥で茶色くなっている。借り物だ。ギルドの貸出武器庫から借りた、登録者としての正当な装備。


 拾った。左手で柄を掴んだ。右手は——握れなかった。拳が腫れている。戦闘中の衝撃と、地面に叩きつけた衝撃で、打撲がさらに悪化していた。指を曲げると、拳全体が脈打つような痛みを返してきた。


 左手一本で細剣を持ち、歩き始めた。


 来た道を戻る。足元に残っている自分の足跡と、走った時に蹴散らした落ち葉の痕跡を辿った。途中、転んだ場所があった。顔から突っ込んだ跡が、泥の上にくっきり残っていた。


 目を逸らした。


  *


 森を出ると、西の空が橙に染まっていた。


 街道を北に歩く。リムルの門が見えてきた。行きに通った時は昼の光の中にあった門が、今は夕日の影に沈んでいる。


 門番がこちらを見た。行きと同じ門番だ。昼に出ていった少女が、泥まみれで戻ってきた。何があったかなど訊かなかった。門番の目が一瞬こちらの足元に落ち、すぐに前を向いた。


 通り過ぎた。


 石畳を歩く。足裏の布巻きが石の凹凸を拾い、一歩ごとに水膨れの跡と切り傷が軋んだ。町の通りには夕飯の準備をする匂いが漂っていた。肉を焼く匂い。パンの匂い。腹が鳴った。もう何日まともに食べていないか、数える気力もなかった。


 ギルドの扉を押した。


 中は昼より空いていた。夕方の依頼帰りの冒険者が数人、受付前に散らばっている。酒場の方からは笑い声が聞こえた。


 受付に向かった。


 受付嬢がこちらに気づいた。昼に応対した、あの女だ。視線がこちらの全身を上から下へ辿った。泥だらけのチュニック、腫れた右手、血が滲む膝、そして——左手にぶら下げた、泥まみれの細剣。


 俺は何も言わなかった。


 受付台の上に、細剣を置いた。泥が台の表面に薄く広がった。刃は半分以上が茶色い泥で覆われ、柄にも乾きかけた泥がこびりついていた。


 受付嬢が何か言った。聞こえなかった。聞く気がなかったのか、本当に耳に入らなかったのか、自分でも分からなかった。


 背を向けた。


 ギルドの扉を押し開け、夕暮れの通りに出た。橙の光が石畳を染めていた。長い影が足元から伸びて、前方の路地に消えていた。


 歩いた。


 どこへ向かっているか、決めていなかった。宿の金はない。食う金もない。戻る場所もない。ただ、ギルドの中に一秒も長くいたくなかった。


 足を引きずりながら、影の中を歩いた。

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