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礼装のレオナ〜最弱へと転落した最強の男が、真の強さを知るまで〜  作者: 今井 幻


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第4話「剣を知らない剣士」

 歩いた。


 どれだけ歩いたのか、もう分からなかった。山道が緩やかになり、土が柔らかくなり、木々の密度が薄れていく。足に巻いた布がまたずれた。チュニックの裾から裂いた細布を、右足に二重、左足に三重に巻きつけてある。巻いた日からまだ三日しか経っていないのに、布はとうに泥と血で固まって、足首の結び目がほどけかけるたびに立ち止まって縛り直した。それでも布の下の皮膚は擦れて水膨れが潰れ、小石を踏むたびに足裏の傷口が布越しに開いて痛んだ。膝の裂傷は乾いた血で突っ張り、腹の底にはとうに何も残っていなかった。空腹が痛みに変わったのは昨日の朝で、今はそれすら鈍い圧迫感に変わっている。


 木立の向こうに、煙が見えた。


 一筋ではない。何本もの炊煙が空に溶けている。朝の風に混じって、焼けた穀物の匂いと、牛か何かの獣臭がかすかに届いた。


 町だ。


 足を速めようとして、右足の布がずれた石を噛み、足首がねじれかけた。体が前に傾いだ。咄嗟に左手を伸ばして木の幹を掴む。——掴めた。指が樹皮に食い込み、体が止まった。


 その程度のことに、安堵している自分がいた。


 手を離すと、掌に樹皮の破片がめり込んでいた。引き剥がす。前からある擦り傷の上に新しい擦り傷が重なって、どこが痛いのかもう判別がつかない。


 しゃがんで右足の布を縛り直した。結ぶ指が震える。もう布の端がほつれて短くなっていて、結び目がうまく固定できない。三度目でなんとか留め、立ち上がった。


 構わず歩いた。町はもうすぐそこにある。


---


 リムルは、想像していたよりも小さかった。


 石壁で囲まれた集落に、木造の建物がぎっしりと詰まっている。正面の門は開け放たれたまま、荷馬車が轍を刻んだ道が真っ直ぐに伸びていた。門番が二人、槍を杖のように突いて立っている。


 近づくにつれ、門番の視線がこちらに向いた。


 泥と血で汚れた布を足に巻き、ぶかぶかのチュニックを腰帯で括った女が、山道の方からよろめくように歩いてくる。——そう見えているのだろう。門番の一人が眉をひそめ、もう一人は何か言いかけて、結局何も言わなかった。


 俺はそのまま門を通り抜けた。止められるかと思ったが、止められなかった。そういう町なのだろう。山に近い辺境の町は、訳ありの旅人を一々検分していたら日が暮れる。


 町の中に入ると、朝の空気が変わった。


 人の声が重なっている。荷車の車輪が石畳を叩く音。どこかで犬が吠え、子供が走り、鉄を打つ音が断続的に聞こえる。パンの匂いが横道から漂い、腹の底が引き攣った。


 食い物のことは考えるな。まず仕事だ。


 金がない。身分証もない。あるのは、この使い物にならない身体と、戦場で培った——何だ。何が残っている。


 殺気を読む力は残っている。前線で叩き込まれた勘は、この身体でも反応する。それだけが、俺がまだ戦士であると言える最後の拠り所だった。


 ギルドを探した。


 この規模の町なら、冒険者ギルドの支部がある。レオンの頃はギルドに寄る必要がなかった。一人で山に入り、一人で魔獣を殺し、一人で帰ってきた。依頼も仲介も不要だった。だが今は——今は、その窓口に頼るしかない。


 中央通りの突き当たりに、見覚えのある紋章を掲げた建物があった。盾と剣を交差させた意匠。扉は開け放たれていて、中から酒と革と人の体臭が混ざった空気が漏れている。


 足を踏み入れた。石畳の床が、布越しの足裏に硬く冷たかった。


---


 朝のギルドは、思ったより混んでいた。


 受付窓口の前に数人が列を成し、壁に掛けられた依頼板の前で腕を組んでいる男たちがいる。奥にはテーブル席があり、朝食なのか酒なのか分からない液体を呷っている連中もいた。


 俺が入った瞬間、何人かの視線がこちらに向いた。


 足に泥の布を巻き、ぶかぶかのチュニックを纏った女。泥と乾いた血がこびりついた掌と膝。——ああ、分かっている。みっともない姿だ。レオンの頃なら、どこであれ、俺が足を踏み入れればその場の空気が変わった。野営地でも、酒場でも、街道の関所でも。二メートルを超える巨躯と、背中の大剣と、言葉より先に届く殺気の圧。人は黙り、道を開け、目を逸らした。


 今は、ただの汚い小娘だ。


 何人かが一瞬だけ見て、すぐに興味を失った。それが一番堪えた。見られるのではない。見て、捨てられたのだ。


 列に並んだ。前の男の背中が近い。革鎧の上から剣帯を斜めに掛け、腰には使い込んだ長剣がぶら下がっている。この男の装備だけで、俺の全財産を上回る。全財産というのは、このチュニック一枚のことだ。


 列が進んだ。


 受付には、額に銀縁の眼鏡を乗せた女がいた。三十代半ばといったところで、手元の書類に目を落としながら、前の冒険者に依頼の詳細を説明している。声は事務的で、抑揚が少ない。仕事に慣れた人間の喋り方だった。


 俺の番が来た。


「——登録ですか、依頼受付ですか」


 受付の女が顔を上げ、俺を見た。視線が一瞬、足元から頭のてっぺんまでを往復した。足の布。泥。傷。ぶかぶかのチュニック。表情は変わらなかったが、声のトーンが微かに下がった。


「登録だ。戦闘系の仕事がほしい」


 口を開いた瞬間、自分の声に舌を打ちそうになった。高い。細い。地面を這うような低音が出ると思って腹に力を入れたのに、出てきたのは空気の薄い、張りのない声だった。


 受付の女は一拍の間を置いた。


「……分かりました。まず、基本計測を行います。こちらへ」


 受付の横に通され、掌大の水晶板を渡された。魔力測定器。ギルドの標準装備だ。水晶に手を当てると、保有魔力量に応じて色が変わる。


 知っていた。レオンの頃にも、面白半分で触ったことがある。あの時も、色は変わらなかった。


 右の掌を水晶の上に伏せた。板面に手を押し当てた途端、指の付け根から甲にかけて鈍い痛みが走った。山の水辺で砂利を殴りつけた右拳。腫れは引きかけていたが、打撲の芯がまだ残っている。掌を密着させるだけの動作が、拳の奥をじくりと突いた。顔に出さないよう歯を噛み締めた。


 水晶は何も映さなかった。


 透明なまま、沈黙していた。


 受付の女が、一瞬だけ動きを止めた。


 書類に走らせていたペンが止まり、眼鏡越しの目が水晶板に据えられた。それから俺の手を見て、もう一度水晶板を見た。


「……もう一度、お願いできますか」


 その声にさっきまでの事務的な平坦さがなかった。わずかに低く、慎重になっている。


 右手を離し、もう一度置いた。打撲が疼くのを無視して、掌を密着させた。


 何も起こらなかった。透明なまま。


 受付の女の顔から、仕事慣れした余裕が消えていた。眼鏡のレンズ越しに、こちらをまじまじと見ている。水晶板を自分の手元に引き取り、表面を指先で触って確認し——それからもう一度、俺の顔を見た。


「……反応なし」


 その声は、俺に向けてというより、自分自身に確認するような響きだった。


 空気が変わった。


 受付の周囲にいた冒険者の何人かが、こちらを振り返った。「反応なし」という言葉が聞こえたらしい。列に並んでいた男が半歩退き、後ろの女がわずかに首を傾げた。


 奥のテーブル席からも視線が刺さった。誰かが小声で何か囁き、それに応じて別の誰かが立ち上がりかけ——やめた。


 魔力ゼロ。


 この世界では、獣ですら微弱な魔力を持っている。路傍の野犬も、畑を荒らす鼠も、呼吸するように魔力を帯びて生きている。人間であれば尚更だ。高い低いの差はあれ、生きている限り魔力がゼロであることは——ない。ないはずだ。


 だから受付の女は二度測った。壊れていると思ったのだ。


「……魔力値ゼロの場合、戦闘系の依頼をお受けすることはできません」


 受付の女は事務的な口調を取り戻そうとしていたが、完全には戻りきっていなかった。ペンを持つ指がわずかに強張っている。


「安全管理上の規定です。代わりに、雑用系の依頼であればいくつかご紹介できます。荷運び、清掃、採集補助——」


「ふざけるな」


 声が裏返った。裏返ったことが余計に腹が立った。


「俺は戦えるんだ。魔力がないからなんだ。戦場に魔力が要るのか。剣で斬り、拳で殴り、足で踏み砕く——それが戦闘じゃないのか」


 右の掌で受付台を叩きつけた。叩いた瞬間、衝撃が掌から手の甲を貫いて、打撲の芯を直撃した。痛みが手首から肘まで突き抜ける。だがそれ以上に——音が出なかった。ぺちん、という間の抜けた音が出ただけだった。レオンの掌なら受付台ごと揺らせた一撃が、この小さな手のひらでは表面を叩いただけで終わった。しかも、痛いのは台ではなく自分の手の方だった。


 受付の女は、今度は眉を上げなかった。代わりに、わずかに身を引いた。俺の怒りではなく——俺の存在そのものに、どう対応していいか分からない顔をしていた。


「規定ですので」


「規定だと。その規定を作ったやつは戦場に出たことがあるのか。魔力ゼロでアイアンファングの群れを潰した人間の前で、規定を盾にするのか——」


 声が甲高く響いた。自分では凄んでいるつもりだった。低く、重く、相手の腹の底に叩き込むつもりで喋っていた。だが耳に返ってくるのは、金切り声に近い叫びだった。


 周囲の空気が変わった。


 変わったが——俺が期待した方向ではなかった。


 何人かの冒険者がこちらを見ている。だが、そこにあるのは恐怖でも緊張でもなく——好奇心と、薄い苛立ちだった。朝から騒ぐ小娘に向ける、あの目。面倒なのが来たな、という目。だがその中に、さっきの計測を見ていた者の目も混じっていた。あれは——興味とも警戒ともつかない、不気味なものを見る目だ。


 奥のテーブル席で、何かを呟いて笑った男がいた。声は聞こえなかったが、口の動きで分かった。——「かわいい」と言った。俺の怒号を聞いて、「かわいい」と言ったのだ。


 血が頭に昇った。


「お前——」


「お客様」


 受付の女が、変わらない声で遮った。


「声を荒げられましても、規定を変更する権限は私にはございません。戦闘依頼をご希望であれば、魔力値が基準を満たすか、あるいは戦闘能力を証明する推薦状をお持ちください。現時点でご案内できるのは、雑用系の依頼のみです」


 歯を食い縛った。


 こいつに怒鳴っても意味がないことは分かっていた。規定は規定だ。この女が作った規定ではない。だが——だが、この理不尽を飲み込める程度には、俺はまだ大人になっていなかった。


 だが、怒鳴り続けたところで腹は膨れない。


 どれだけ吠えたところで、規定は動かない。そして俺の腹の中は空で、足の裏は布の下で血が滲んでいて、右手はさっき叩きつけた衝撃でまた疼いている。


 数秒の間、何も言えなかった。


「……雑用でいい。登録しろ」


 声が掠れた。怒鳴り続けたせいで喉が焼けるように痛んでいた。


 受付の女は表情を変えなかった。用紙を一枚引き出し、ペンを差し出した。名前。年齢。出身。——


 ペンを受け取ろうとした右手が強張った。さっき台を叩いた衝撃がまだ残っていて、指を曲げるたびに拳の芯が脈打つ。ペン軸を握り込むのではなく、三本の指で挟むようにして持った。それでも指先に力を入れると、打撲の鈍痛が手首まで伝わった。


 名前の欄で、ペンが止まった。


 レオン・ローゼンフェルト。それが俺の名前だ。


 だが、ローゼンフェルトの名を辺境のギルドの紙切れに書けば、面倒が起きる。武闘派貴族の家名だ。知る者は知っている。こんな姿の小娘がその名を名乗れば、詐称か狂人か——どちらにしろ、余計な騒ぎの種になる。


 家名は省いた。ペンを走らせた。


 レオン。


 字が歪んだ。右手が震えているせいだ。画の終わりが揺れて、子供が書いたような文字になった。それでも読める。読めればいい。


 男の名前だ。分かっている。この身体で、この顔で、男の名前を書いている。受付の女がわずかに目を止めた。用紙の名前と、目の前の小娘の顔を一往復する視線。


 だが、それだけだった。辺境のギルドだ。偽名も通名も日常だろう。訳ありでない冒険者の方が珍しい。受付の女はそれ以上何も聞かず、用紙を受け取って判を押した。


「登録が完了しました。雑用系の依頼はこちらの掲示板に——」


「その前に、武器を貸せ」


「……武器庫ですか」


「雑用でも丸腰じゃ話にならない。採集だろうが何だろうが、森に入るなら武器がいる」


 受付の女がわずかに間を空けた。それから、手元の登録用紙に目を落とし、記載事項を確認するように指でなぞった。


「登録者であれば、貸出装備を一点お借りいただけます。突き当たりの左手が武器庫です」


 たった今書かされた登録が、こんな形で役に立つとは思わなかった。雑用枠の冒険者。魔力ゼロ。——その肩書きが、ギルドの棚にある鉄屑を一本借りる権利をくれた。


 受付台から手を離し、指し示された通路へ向かった。


 背を向けた瞬間、視界の端に動きが映った。


 奥のテーブル席。さっき「かわいい」と口を動かした男とは別の——壁に背をもたれかけた男が二人、こちらを見ていた。見ていた、というより、品定めをしていた。目が違う。冒険者が依頼板を値踏みする目ではない。もっと粘ついた、生臭い目。さっきの測定を見ていたかもしれない。魔力ゼロ——抵抗する力が何もない女。そういう計算をしている目だ。


 その視線を背中に感じながら、俺は通路に入った。


 嫌な目をする連中だ。だが今はそれどころではない。


---


 貸出武器庫は、埃っぽい部屋だった。


 壁に沿って木の棚が組まれ、剣や槍や鈍器が雑然と並んでいる。手入れの行き届いたものは少なく、大半が刃こぼれか錆びを抱えていた。新人用か、あるいは貧乏人用だ。


 だが、剣は剣だ。


 最初に目に入ったのは、棚の最上段に横たわる大剣だった。


 反射的に手が伸びた。レオンの身体が覚えている。背中に担ぐ重量、振り下ろした時の風切り音、骨ごと断つ衝撃。この手に剣を握れば——。


 右手で柄を掴んだ。指が柄に巻きつく。その圧迫で、拳の打撲が芯から脈を打った。構わず力を込めた。


 持ち上がらなかった。


 片手では、柄を握った状態で剣を棚から引き出すことすらできなかった。左手を添えた。腕が震えた。肩と背中の筋肉に力を入れ、膝を曲げて踏ん張り——刃先が棚から数寸持ち上がり、そこで止まった。


 腕の力が抜け、大剣が棚に落ちた。がちゃん、と鋼が木を叩く音が響いた。


 息が荒い。たったこれだけのことで、息が上がっている。右手の拳を開いたり閉じたりした。握り込むたびに打撲の痛みが手首の付け根まで突く。


 次。


 棚の中段に並ぶ長剣に手を伸ばした。大剣より軽い。右手で——柄を握った瞬間、拳の腫れが柄の革巻きに押し潰されて鈍く疼いた。それを無視して引き出すと、刃の重みで手首がねじれた。慌てて左手で支える。持てた。持てたが、切っ先を上に向けた瞬間、腕が左右にぶれて刃が壁に当たった。金属が石壁を引っ掻く不愉快な音。


 構えてみようとした。肩の高さに剣を上げる。腕が痙攣した。三秒と保たず、切っ先が落ちた。


 その長剣を棚に戻す時、柄がうまく掛からず、二度やり直した。


 次。


 棚の下段。


 短剣、ナイフ、投擲用の小型刃物——そしてその隣に、細身の剣が三本並んでいた。


 細剣。刺突に特化した、軽量の片手剣。レオンの頃は見向きもしなかった武器だ。あれは技巧派の武器だ。俺には関係ない。大剣で叩き斬る。それが俺の戦い方だった。


 だった。


 細剣を一本、右手で取った。柄が細く、大剣や長剣より拳への負担は少なかった。それでも、打撲の上から何かを握り続けるという行為自体が、じわじわと手の甲を熱くしていく。


 軽い。大剣や長剣と比べれば、まるで枝を持っているようなものだ。片手で持てる。腕を伸ばせる。切っ先を前に向けて構えることが——できた。


 できた、はずだった。


 構えた瞬間、手首の角度がおかしいことに気づいた。剣を真っ直ぐ前に向けたつもりなのに、切っ先がわずかに右に逸れている。手首の筋力が足りず、細剣の重心を軸線上に保てない。左手を添えて矯正すると、今度は握りが窮屈で肩に力が入った。


 振ってみた。


 右から左へ、横に薙ぐ動作。——剣先が遅れた。腕は動いたが、手首から先がついてこない。刃が空気を掻くだけの、締まりのない軌道だった。


 もう一度。今度は突き。前方に向けて、真っ直ぐに。


 足を踏み出した。右足が前に出る。同時に右腕を伸ばす。——踏み出した足の布が床の埃で滑り、体重移動が乱れた。突きの勢いに身体が持っていかれ、切っ先は天井を向いた。


 体勢を立て直した。膝が震えている。


 もう一度だ。もう一度。


 突いた。切っ先は右にずれた。


 薙いだ。腕が振り回しになり、重心が浮いた。


 斬り下ろした。肩から力を抜けず、細剣が鉈のような軌道を描いた。


 何度振っても同じだった。


 剣が言うことを聞かない。——違う。剣は何も悪くない。剣は持ち手が指示した通りに動いている。問題は、その指示が出鱈目だということだ。


 手を止めた。


 息が上がっていた。細剣を——こんな軽い剣を、十回も振っていないのに、肩で息をしている。右の拳が熱を持っていた。柄を握り続けた圧と打撲が混ざって、じくじくと脈打っている。だがそれよりも。


 それよりも。


 今まで一度も考えたことがないことが、急速に形になりつつあった。避けていたのではない。考える必要がなかっただけだ。レオンには必要がなかった。あの身体があれば——あの筋力があれば——


 ——俺は、剣の振り方を知らない。


 目の前が白くなった。


 構えを知らない。足運びを知らない。重心の移し方を知らない。刺突と斬撃の手首の使い分けを知らない。受け流しを知らない。間合いの詰め方を知らない。退き方を知らない。


 何一つ、知らない。


 レオンには技術がなかった。必要がなかったからだ。大剣を持ち上げて叩きつける。それだけで事足りた。人間の剣士が何十年もかけて磨く「型」も「技術」も「理合い」も、あの筋力の前ではすべて無意味だった。だから学ばなかった。学ぶ理由がなかった。


 その筋力がなくなった今——残ったのは何だ。


 手の中の細剣を見た。


 錆びかけた、安物の細剣。この軽い剣すらまともに振れない小さな手。腫れの残る右の拳。その手を支える細い腕。その腕を動かす、貧弱な肩。


 戦場で百を超える魔獣を屠った男の中に、技術は一片も残っていなかった。


 残っていたのは——剣を握りたいという、それだけだった。


 細剣を鞘に戻さず、そのまま手に持って武器庫を出た。柄を握る右手が疼いていた。打撲の熱と、それとは別の震え。疲労のせいなのか、それ以外の何かのせいなのか、自分でも分からなかった。


---


 ギルドの広間を横切る時、さっきの視線をまた感じた。


 壁際の男が二人。こちらを見ている。今度は目を合わせなかった。合わせる余裕がなかった。


 受付の女が何か声をかけた気がしたが、聞こえなかった。聞く気がなかった。


 ギルドの扉を抜けた。


 朝の光が眩しかった。空が高く、町の喧騒が遠くに聞こえた。


 右手に細剣を提げて歩いた。剣先が下を向いている。持ち上げる力が残っていなかった。切っ先が地面の石を擦り、小さな金属音が足音に混じった。拳の打撲が歩くたびに揺れて痛んだが、指を開く気にはならなかった。離したら、もう握り直せない気がした。


 町を抜ける道が、南に伸びていた。その先に森がある。森には魔獣がいる。E級の害獣でも、今の俺にとっては命がけだ。


 それでも行く。行くしかない。


 雑用では飯が食えない。正確には、雑用でも食えるのかもしれないが——俺は戦う以外の生き方を知らない。知らないのだ。剣の技術と同じように、それ以外のことも何一つ学んでこなかった。


 風が吹いた。チュニックの襟ぐりから首筋に入り込み、肌が粟立った。


 構わず歩いた。


 細剣の重みが、右手からじわじわと肩に伝わっていた。腕が引きずられる。身体が右に傾ぐ。それを腰で補正して、また一歩。また一歩。


 リムルの門を抜けた。


 街道は南へ真っ直ぐ伸び、やがて森の手前で二又に分かれているはずだ。左が街道の続き、右が森への小道。


 右を選ぶ。


 足の布越しに、土の道の感触が変わった。石畳より柔らかい。が、細剣の重みは変わらない。たかが細剣だ。棒切れに刃をつけたようなものだ。それが——こんなにも、重い。


 森の入口が見えた。木々の影が街道の光を遮り、暗い緑のトンネルが口を開けている。


 立ち止まった。


 振り返らなかった。振り返れば、町が見える。温かい飯の匂いがする。ギルドがある。雑用がある。安全がある。


 前を向いた。


 細剣を、右手で握り直した。拳が軋んだ。震えは止まらなかったが、柄を離す気はなかった。


 一歩を踏み出した。細剣の重みに右肩が沈み、身体が傾いだまま、森の暗がりに足を踏み入れた。

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