第3話「残ったもの」
水の音がした。
意識の底を、細い水音が繰り返し叩いている。規則的で、途切れなくて、それが何なのか分からないまま、俺はしばらくその音だけを聴いていた。
頬が冷たい。
右の頬に、湿った土と苔の感触がある。鼻先に腐葉土の匂いが届いて、そこでようやく——自分がどこかに横たわっていると理解した。
目を開けた。
視界がぼやけている。低い位置から見上げる景色は、苔に覆われた岩と、その隙間を縫う細い木漏れ日だった。朝だ。空気の色で分かる。霊峰ガルドの朝特有の、冷たく青い空気。
身体を起こそうとした。
——軽い。
それが最初の違和感だった。地面から身体を引き剥がす動作に、あるはずの重さがない。重装鎧の残骸が身体の下で硬い音を立てたが、それすら覚えていた重量とは程遠い。腕に力を込める。肘が伸びる。上体が持ち上がる。その一連の動作が、あまりにも——少ない力で完結してしまった。
違う。
軽いのではない。力を込めたつもりの量と、実際に出た力が、まるで噛み合っていない。
俺は両手を地面について、身体を起こした。右手に嵌まっていたはずの籠手が、腕を動かした拍子にずるりと滑り、苔の上に落ちた。甲が割れて歪んでいた半壊の籠手——レオンの太い手首と前腕に嵌め込まれていたそれが、今の腕からは何の抵抗もなく抜け落ちた。腕が震えている。震えるほどの負荷ではないはずなのに、腕が——細い。
視線が落ちた。
自分の前腕が見えた。苔と土にまみれた、白い腕。右も左も、籠手はもうない。左は戦いの中で砕け散り、右は今——この腕には大きすぎて、勝手に落ちた。露出した手首から先が、朝の光の中にさらされている。
細い。
自分の腕ではなかった。
いや——自分の腕が、そこにある。指を曲げれば曲がる。拳を握れば握れる。だが、その拳が収まる掌は、俺が知っている自分の手ではなかった。節くれ立った指も、手首から前腕にかけて浮き出ていた腱も、何もかもが消えている。代わりにあるのは、指の細い、小さな手だ。
水音が近い。
身体を引きずるようにして、その音の方へ向かった。鎧の残骸が邪魔だった。胸当ては凹んだまま胴に引っかかり、右肩甲板はとうに失われ、背面の鎧板は身体から浮いてずり落ちかけている。かつて隙間なく身体を覆っていた鎧が、今は——大きすぎる。
三歩も這わないうちに、水面が見えた。苔むした岩の窪みに溜まった湧水だ。掌二つ分の深さしかない浅い水溜りだが、朝の光を受けて水面が静かに光っている。
覗き込んだ。
女が映っていた。
——若い。華奢で、小柄で、頬の輪郭がまだ柔らかい。土と乾いた血にまみれた顔。髪が長い。額から頬にかけて泥が貼りついている。その下にある肌の白さと、輪郭の細さが、水面越しでも分かった。
目が合った。映っている女の瞳と、俺の視線が重なった。
水面の女が、同時に俺を見返していた。
俺が眉を寄せれば、女も眉を寄せた。俺が口を開けば、女も口を開いた。指を上げれば指が上がり、首を傾ければ首が傾く。
映っているのは俺だ。
俺の顔が——これになっている。
右手で水面を掻き回した。指先が水底の砂利をさらい、映っていた顔が歪み、崩れ、散った。だが水が静まれば、同じ顔がまた浮かび上がる。何度崩しても、同じ女が俺を見返してくる。
知っている顔だった。
母に——似ている。
若い頃の母の肖像画を、幼い頃に屋敷で見たことがある。ローゼンフェルト家の奥の廊下に、ほとんど誰も見ない場所に掛けられていた小さな絵。父はその絵の前を通るたびに足を速め、使用人たちは視線を逸らした。あの家では、あの女の顔を見ることすら——弱さの証のように扱われていた。
その顔が、水面にある。
俺の顔として。
胃の底から何かがせり上がってきた。吐き気とも怒りとも違う、名前のつけられない衝動が喉を焼いた。右の拳を水面に叩きつけた。浅い水底の砂利に拳が当たり、冷たい水飛沫が顔に散った。だが殴った手が——痛い。レオンの拳なら砂利ごと砕けた衝撃が、今は拳の骨の方に返ってきている。
右手を引いた。痛みに視線が落ちる。水溜りの縁の岩についたままの左手が目に入った。
剥き出しの左の手。その甲に——白い線がある。
裂傷痕。
少年の頃、自分の手に刻んだ傷の痕だった。ローゼンフェルト家の嫡男として、弱さを許さないと誓った日に——馬鹿な子供が、刃物で自分の手を切った痕。治癒師に見せず、膿むまで放置し、白い跡として残った。
それが——ある。
この小さな手の甲に、同じ位置、同じ形、同じ長さで。消えていない。身体が変わっても、顔が変わっても、骨格も筋肉も声も何もかもが奪われても、この傷だけが残っている。
俺はしばらくその白い線を見つめていた。
左手の甲の傷痕と、水面に映る若い女の顔。どちらかが嘘であってほしかった。だが左手を水面にかざせば、白い線を持つ細い手と、母に似た女の顔が、同じ水の中に並んで映る。
どちらも俺だった。
どちらも、俺だった。
*
声を出そうとした。
喉に力を込め、腹に圧をかけ、口を開いた。レオンの声なら、この山の中腹からでも谷底まで届く。野営地で兵を叱り飛ばしたときの大音声。あの声で叫べば——少なくとも、頭の中がこの混乱に飲まれる前に、一度自分を取り戻せる気がした。
「——っ、」
出た声が、止まった。
高い。
細い、高い、知らない声だった。喉の奥から押し出したはずの空気が、あの太い振動を一切つくらず、代わりに——軽く、薄く、女の音として空気を揺らした。
もう一度。
「——あ、」
同じだった。高く、細く、震えている。山の空気に溶けて消える声。兵士が振り返るどころか、十歩先の鳥すら飛び立たない。
もう一度——今度は腹の底から、身体中の筋肉を絞り上げるつもりで叫んだ。
「ぅ、おおお——っ!」
裏返った。
絞り出した咆哮のつもりが、途中で裏返り、甲高い悲鳴のような音になって木々の間に散った。それを聞いた自分の耳が、その声を自分のものだと認識することを拒否した。頭の中で覚えている自分の声と、今喉から出ている音が、何一つ接続しない。
右手で喉を押さえた。喉仏が——ない。指先が触れるのは、滑らかで細い首の皮膚だけだった。
三度、四度、声を出した。どれも同じだった。高く、軽く、自分ではない誰かの声が、自分の口から出ている。出すたびに、頭の中で知っている「俺の声」との距離が広がっていく。
五度目で、喉が痛んだ。
枯れたのではない。使い方に身体が耐えていない。あの声量を出す筋肉が、この喉にはなかった。俺が声を張り上げるたびに、この華奢な喉は裏返り、掠れ、壊れかける。
水面に映る女の口が、はあはあと浅い呼吸を繰り返していた。
俺は——その映像から目を逸らした。
*
考えても分からなかった。
あの光が何だったのか。ドラゴンが何をしたのか。なぜ殺さず、代わりにこんなことをしたのか。理屈を組み立てようとしても、前提が何一つ足りない。
分かっていることは三つだけだ。
身体が変わった。力がない。ここは山の中だ。
ならば——降りるしかない。
鎧を脱いだ。
正確には、脱げた。胸当ては留め金を外すまでもなく胴から滑り落ち、背面の鎧板は肩から引き抜くだけで地面に落ちた。どれもレオンの巨躯に合わせて鍛冶師が打った一点物だ。今の身体では、鎧の内側で泳いでいるようなものだった。籠手はとうにない。左は戦いで砕け、右は目を覚ましたときに腕から滑り落ちていた。
立ち上がろうとして、足が滑った。軍靴の中で足が泳いでいる。爪先は靴の奥に届かず、踵は靴の縁に引っかかりもしない。一歩踏み出すたびに靴が地面に残り、足だけが前に出る。歩くどころではなかった。
靴紐を限界まで絞っても、足首の周りには拳が入る余裕があった。これを履いたまま山道を下れば、三歩ごとに脱げるか、靴の中で足が暴れて捻挫する。
脱いだ。
結局、身に着けているのは鎧の下に着込んでいたチュニックだけになった。
レオンの胴に合わせた一枚布の貫頭衣。立ち上がると、裾が膝の下まで垂れた。袖は手首の先に余り、肩の縫い目は二の腕まで落ちている。襟ぐりが——致命的に広かった。わずかに肩を傾けるだけで片方の肩が布の中から滑り出る。歩けばずり落ち、しゃがめば首から抜ける。このまま山を下れば、腰から裾が風をはらむたびに身体から布が剥がれていく。
裾を掴み、引き裂いた。丈夫な麻布は素手では破れなかった。歯で端に切れ目を入れて、両手で引いた。それでも腕が足りず、膝で踏んで身体の重みを使ってようやく一筋の布が千切れた。
腰に巻いた。二重にして結び、チュニックの余った布を引き上げて帯の上に被せた。手を離すと布がだぶついたが、少なくとも歩くたびに肩から落ちることはなくなった。襟ぐりはまだ広く、片側の鎖骨から肩の線が常に露出しているが、直す手段がなかった。
足元には何もない。裸足の足裏が、苔の湿りと岩の冷たさを直接拾っている。
足場を確かめて、一歩目を踏み出した。
——二歩目で転んだ。
木の根に足を取られた。それだけだった。地面から拳一つ分だけ盛り上がった根。レオンの脚なら踏み越えることすら意識しない障害物に、足の甲を引っかけて前のめりに倒れた。両手をついたが、衝撃を殺しきれず、顎が地面を掻いた。口の中に土の味が広がる。
立ち上がった。膝が笑っている。膝が——笑う。かつて鎧ごと敵の盾を蹴り砕いた脚が、木の根一本で折れかけている。
三歩目。四歩目。五歩目で、また転んだ。今度は斜面の傾きに足首がついていけなかった。右足が滑り、左足で踏ん張ろうとして踏ん張れず、横向きに倒れて肩から斜面を二転した。腐葉土の柔らかさがなければ、肩が折れていたかもしれない。
起き上がる。歩く。転ぶ。起き上がる。歩く。転ぶ。
七歩目で石に躓き、十二歩目で足場の苔に滑り、二十歩目あたりで数えることをやめた。転ぶたびに、両手と膝に新しい擦り傷が増えていく。レオンの皮膚なら赤くもならない程度の摩擦が、この薄い肌を容易く破った。掌が赤くなり、膝小僧の皮が剥けて血が滲んだ。裸足の足裏も、とうに無傷ではなかった。砂利が食い込み、岩の角が踵を抉り、木の根を踏むたびに足の指の間に鈍い痛みが走る。レオンの足裏は厚い革のようだった。何を踏もうが痛みなど感じなかった。今は石ころひとつが足の裏を割る。
立ち上がるたびに、腕が震えた。
体重がない。体重がないから、ただ立ち上がるだけの動作が軽いはずなのに、その軽い動作を支える筋肉がさらに足りない。持ち上げるものが減っても、持ち上げる側がそれ以上に減っているから、結果として——何もかもがきつい。
立てるのに、歩けない。歩けるのに、進めない。
木の幹に手をついて息を整えた。掌が震えている。汗が額を伝い、こめかみから顎に落ちた。
山の斜面は、まだ長く続いていた。
*
何度目かの転倒で、膝を岩の角に打ちつけた。
皮膚が裂け、血が出た。それ自体は大したことではない。戦場では日常だった。だが——痛みが、違った。レオンの身体で受けていた痛みは、常に鈍く、遠く、意識の端を掠める程度のものだった。筋肉の厚みと、身体が勝手につくる緊張が、痛覚を丸めて処理していた。
今は違う。
鋭い。膝から脛にかけて、痛みがそのまま神経を走る。緩衝も遅延もなく、岩の角が皮膚を裂いた事実が、そのままの解像度で脳に届く。
目の奥が熱くなった。
——泣くな。
何の前触れもなく、視界が滲んだ。膝の痛みではない。痛みはただのきっかけだ。それよりも——朝から積み重なった全てが、一斉に蓋を押し上げてきた。
この顔。この声。この腕。この足。転ぶたびに増える傷。立ち上がるたびに震える膝。自分の声を聞くたびに遠ざかる自分。何もかもが——何もかもが。
泣くな。
歯を食いしばった。顎の筋肉に力を込めた。だが奥歯の噛み合わせすら変わっていた。以前なら歯を砕きかねない圧で食いしばれた顎が、今は力の入れ方も分からない。唇が震えた。頬の筋肉が勝手に引きつった。
涙が出た。
左目の縁から一筋、頬を伝って顎まで落ちた。拭おうとした右手が間に合わず、二筋目が反対の頬を流れた。
止められなかった。
こめかみから額にかけて、頭蓋の内側を何かが圧迫している。泣くなと命じている自分と、身体が勝手に泣いている事実の間に、制御の手段が何もない。レオンの身体であれば——感情が溢れそうになっても、筋肉の緊張が蓋になった。歯を食いしばり、拳を握り、身体ごと感情を押し込むことができた。
この身体には、その蓋がない。
感情の圧力を受け止める筋肉がない。堰き止める顎の力がない。涙腺を制御する訓練を、この身体はしていない。
木の幹に額を押しつけた。樹皮が額の皮膚に食い込む。その痛みに意識を集中させようとしたが、涙は止まらなかった。声は出さなかった。出さなかったのではない。泣き声を出すことを、喉が最後の一線で拒んでいた。音を立てれば——本当に、崩れる。
歯の隙間から息が漏れた。短く、不規則に。嗚咽にならないよう、喉の奥で必死に潰している。
泣いたことは、なかった。
少年の頃も。父に殴られたときも。戦場で仲間を——仲間と呼べる者がいたかどうかすら怪しいが、隣で人が死んだときも。ドラゴンに叩きのめされた夕暮れの岩棚でも。一度も。
なのに今、木の根に躓いて転んだだけの山の中腹で、膝を擦りむいた程度の痛みで、涙が止まらない。
この身体が——勝手に泣いている。
俺の意志とは関係なく。
長い時間、額を木に押しつけたまま動けなかった。涙が顎を伝り、首筋に落ち、チュニックの大きすぎる襟を濡らした。視界がぼやけたまま、木々の隙間から差す光の角度だけが少しずつ変わっていくのが分かった。
やがて——涙が枯れた。
止まったのではない。出し切っただけだ。目の奥に残ったのは、乾いた痛みと、何も解決していないという事実だけだった。
額を木から離した。樹皮の跡が額に残っているのが、触れなくても分かった。
立ち上がった。
膝はまだ血が滲んでいたが、立てた。
*
山道を下り続けた。
転ぶ回数は減らなかった。だが立ち上がる速度は、少しだけ上がった。どの足場が滑るか、どの根が引っかかるかを、身体が——覚え始めていた。覚えたくもないのに。足裏の痛みはもう鈍く連続した熱のようになっていて、一歩ごとにどこが痛いのか区別がつかなくなっていた。
標高が下がるにつれて、木々が増えた。頭上の枝葉が光を遮り、足元の苔が厚くなる。沢の水音が遠ざかり、代わりに風の音が近づいてきた。
風が吹いた。
山の中腹を吹き抜ける、朝の残りの風だった。木々の葉を揺らし、枝を軋ませ、そして——俺の身体を通り抜けた。
寒い。
足が止まった。
ぶかぶかの襟ぐりから風が首筋に流れ込み、余った袖口から腕を舐め上がっていく。腰の布帯の上でだぶついたチュニックが風をはらんで膨らみ、肌との間に冷たい空気の層を作った。腕の産毛が逆立ち、肩が勝手に縮んだ。歯の根が合わなくなりかけて、顎に力を入れて押さえ込んだ。
寒い。
この程度の風で。この程度の標高で。夏の山の、朝の風ごときで。
レオンは寒さを感じなかった。正確には、感じていたのかもしれないが、それが行動を左右することはなかった。筋肉の熱量が常に体温を保ち、分厚い脂肪と鎧が外気を遮断し、身体そのものが炉のように熱を生んでいた。雪山の行軍でも震えなかった男が——今、夏の山の風で震えている。
両腕で自分の身体を抱いた。
細い。
腕の中にある身体が、信じられないほど細かった。自分の身体を自分で抱き締めて、その薄さに——言葉が出なかった。ここには何もない。レオンを構成していた筋肉も、骨格も、体温も、重さも。全部なくなっている。
風がもう一度吹いた。木々が鳴った。
俺は震えながら、その場に立っていた。
山道は、まだ長く続いていた。




