第2話「頂の沈黙」
山が、拒んでいた。
道の両脇に茂っていた低木がいつの間にか消え、剥き出しの岩肌だけが続いている。風は冷たくはない。冷たいのではなく、乾いている。水気を根こそぎ抜き取られたような、喉の奥がざらつく空気。足元の砂利を踏む音が妙に響く。それ以外の音が、ない。
鳥がいない。
虫もいない。麓を出てから半日以上は歩いたはずだが、アイアンファングどころか、獣の痕跡一つ見当たらなかった。木々の間を走る小動物も、岩陰に潜む蜥蜴も。生き物の気配が、ある高度を境にきれいに途絶えている。
レオン・ローゼンフェルトは足を止めず、ただ口の端を持ち上げた。
重装鎧の重みが両肩にかかり、背に負った大剣の柄が歩くたびに揺れる。籠手を嵌めた両手は自然に下ろしたまま、指の感覚だけを研いでいた。身体が告げている。この山は「危険」なのではない。「住めない」のだ。何か一つの存在が、他の全てを押し退けて棲みついた結果、生態系そのものが沈黙している。
縄張りとは違う。縄張りは境界の内側に生き物が棲み、外に追い出された者が境界の外で暮らす。ここにはそれがない。内も外もなく、ただこの山全体が一つの領域として塗り潰されている。
兵士が言っていた。精鋭四十人の討伐隊が中腹で七人にまで削られ、生還者の全員が同じ言葉を残したと。
——相手にされなかった。
つまり、殺すつもりですらなかった。四十人の精鋭を七人にまで削ったのは、おそらく環境の苛烈さと、恐慌による自滅だろう。ドラゴン本体がまともに手を下したかどうかすら怪しい。
足元の傾斜がきつくなった。岩の色が変わっている。灰色だった地面が、白みがかった硬質の岩盤に変わっていた。風化の度合いが浅い。この高度では雨が少ないか、あるいは苔すら生えないほど——何かが、岩から生命力ごと吸い上げているのか。
考えることではなかった。
レオンは歩幅を変えずに登り続けた。装備の重さは数十キロに及ぶが、この身体にとっては着衣と変わらない。疲労は軽微。むしろ野営地を発ってから一度も戦っていないことの方が、身体を鈍らせる。
岩の隙間から吹き上げる風が、一瞬だけ止んだ。
——来る。
戦場で磨いた勘とは違った。もっと手前の、皮膚の表面を撫でるような感覚。毛穴が開き、産毛が逆立ち、それが全身へ波紋のように広がる。耳の奥で、空気の質が変わった音がした。低く、重く、振動というには遅すぎる何か。地面を通じて足裏に届くそれは、鼓動に似ていたが、鼓動よりもはるかに間隔が長い。
レオンは足を止めた。
開けた場所に出ていた。
山頂付近の広い岩棚。北側は切り立った崖壁、南側は登ってきた斜面に続く。東西は低い岩の隆起で区切られ、地面は白い岩盤が露出している。広さは闘技場ほど——いや、それより広い。百歩四方はある。
陽が傾き始めていた。西から差す光が岩棚を斜めに照らし、白い岩盤の上に長い影を引いている。空は晴れていた。雲はなく、空気は澄み、視界を遮るものは何もない。
何もないはずだった。
岩棚の奥——北側の崖壁の前に、それは在った。
最初に見えたのは、色だった。陽光を受けているのに影を持たない鱗の色。黒ではない。紺でもない。光を吸い込んで返さない、名前のない暗さ。網膜がその色を処理しようとして、わずかに遅れる。見ているのに、見えたものを脳が受け取るまでに一拍かかる。
次に、大きさ。
大きい、という言葉では足りなかった。レオンは巨躯と呼ばれる男だ。重装鎧を纏えば常人の二回りは膨れ、戦場では敵味方の頭上から睥睨する。その自分が、視界の端から端まで使っても全体を一度に捉えられない。
翼が折り畳まれていた。崖壁に沿って閉じた翼の先端が、岩棚の縁近くまで伸びている。首は長く、地面に近い位置で緩やかに弧を描き、その先に頭部があった。頭部だけでレオンの全身に匹敵する。
眼は閉じていた。
眠っている——のではない。胸郭の動きがない。呼吸をしていない。呼吸の必要がないのか、あるいは呼吸という行為そのものが、この存在には当てはまらないのか。
レオンの足裏を通じて伝わっていた振動が、止まった。
ああ、と思った。
あれは鼓動ではなかった。この存在が、自分の接近を知覚した音だったのだ。近づく者があると気づき、それを気に留めた——その程度の反応が、山を伝わる振動として麓近くまで届いていた。
喉の奥が渇く。唾を飲み込もうとして、口の中にも水気がないことに気づいた。
恐怖ではなかった。
身体の芯で、何か熱いものが膨れ上がっていた。腹の底から胸へ、胸から喉へ、喉から——
レオンは笑った。
声は出さなかった。ただ口が開き、歯が剥き出しになり、頬が引きつるほどに裂けた。笑いというよりも、全身が同時に引き絞られたような、制御の外にある反応だった。
右手が背中に伸びる。大剣の柄を掴み、一息で引き抜く。重量が片腕にかかり、手首から肩まで筋繊維が張り詰める。刃を下ろし、右手一本で支えたまま、左手の籠手の指を開閉した。感覚は鈍っていない。
歩き出した。
大剣を右手に提げ、岩棚の中央へ向かう。靴底が白い岩盤を踏むたびに、乾いた音が響く。距離が縮まるごとに、空気の重さが変わる。呼吸が浅くなるのは、胸が圧されているからではなく、吸い込む空気そのものが濃い。魔力の残滓なのか、それとももっと根本的な——この存在が放つ「圧」が、物理的に大気を歪めているのか。
五十歩。四十歩。三十歩。
ドラゴンの眼が開いた。
音はなかった。まぶたが上がっただけだ。だが、それだけで世界の照度が変わったように感じた。光の加減が同じなのに、岩棚全体が暗くなる。違う——暗くなったのではなく、ドラゴンの瞳以外の全てが、重要度を失ったのだ。
瞳の色は金だった。金というには深すぎる。溶けた金属を覗き込んだときのような、底が見えない光。その中に虹彩があり、虹彩の奥に何かが動いていた。知性と呼んでいいのかすら分からない。だが確かに、あの瞳はレオンを「見ていた」。
戦場で出会ったどの敵の目とも違う。殺意がない。敵意もない。恐怖もない。あるのは——
品定め。
値踏みとは違う。商人が商品を見るような卑しさはない。もっと静かで、もっと巨大な、何かの基準に照らして測っている。レオンという人間を、生物を、存在を。
二十歩。足を緩めない。十歩。
大剣を両手で握り直した。右手が柄の上、左手が下。籠手越しでも伝わる鋼の冷たさが、指の熱を吸い取る。刃の重心が前方にかかり、切っ先が岩盤の上を滑るように低く構えた。
ドラゴンは動かなかった。首を持ち上げすらしない。地面に近い位置から、ただ金色の目でレオンを見ている。
「——来たぞ」
声は短く、硬かった。笑いの残滓が喉に引っかかり、掠れている。
返答はなかった。ドラゴンの瞳が、わずかに細まった。それだけだった。
それで、十分だった。
レオンの右足が岩盤を蹴った。
*
初撃は、渾身だった。
三歩で加速し、四歩目を踏み切る。地面を砕く勢いで重心ごとぶつける突進。大剣は下段から持ち上げ、両腕の筋繊維を総動員して斜め上に振り抜く。アイアンファングの頭蓋を兜ごと叩き割った一撃と同じ軌道。同じ速度。同じ膂力。
刃がドラゴンの首に触れた。
触れた——としか言いようがなかった。
金属が岩壁にぶつかったときの衝撃が両腕に返ってきた。手首が軋み、肘が悲鳴を上げ、肩の関節が引き剥がされるような力が逆流する。大剣の刃先が弾き飛ばされ、勢いのまま身体が半回転した。右足で踏ん張り、左膝をついて辛うじて転倒を免れる。
鱗に傷はなかった。
刃が触れた箇所を見た。首の側面——もっとも皮が薄いはずの部位。大剣の全重量と、レオンの膂力を乗せた斬撃。それが、何一つ通っていない。擦過の痕跡すらない。鱗の表面が、刃を受け入れることを拒否したとしか表現できない滑らかさで、大剣を弾き返していた。
——硬い。
違う。硬いのではない。硬さとは、打撃に対する抵抗だ。力を加え、素材がそれに耐える。だがこれは耐えたのではない。刃がたどり着いていない。鱗の表面に触れた瞬間に、力の全てが跳ね返された。
立ち上がった。左膝の砂利を払う余裕はない。大剣を握り直し、構え直す。両手に残る痺れを無視して、柄を絞った。
二撃目。
今度は横薙ぎ。回転の慣性を使い、腰の捻りで刃の速度を上乗せする。狙いは同じ箇所——首の側面。
同じだった。
衝撃が返り、刃が弾かれ、レオンの身体が横に流れる。右足で止まり、すぐに三撃目。上段からの叩き斬り。頭頂部を狙う。
刃が鱗に触れた瞬間、大剣が鳴いた。金属の悲鳴のような高音が岩棚に反響し、手の中で柄が暴れた。指の皮が籠手の内側で擦れ、左手の薬指の感覚が一瞬消えた。
通らない。
四撃、五撃、六撃。部位を変え、角度を変え、速度を変えた。首、肩、翼の付け根、前足の関節。一撃ごとに全力を乗せ、一撃ごとに同じ結果が返ってくる。衝撃の逆流で右腕の感覚が鈍り始めていた。左手の籠手の指部分を留める小さな金具が飛び、小指が剥き出しになった。
ドラゴンは、動いていなかった。
首を持ち上げすらしていない。同じ姿勢のまま、ただ金の瞳でレオンを見ている。六度の全力の斬撃を、身じろぎ一つせずに受け——いや、受けたのですらない。認識していたかどうかすら怪しい。
呼吸が乱れていた。自分の息の音が、耳の中で響いている。
七撃目を放とうとして——
ドラゴンが動いた。
首が持ち上がった。それだけだった。折り畳まれていた首がゆっくりと伸び、頭部が岩盤から離れ、レオンの頭上を越えて空へ向かう。動作は遅い。脅かすような速さではない。だが、その「遅さ」が重かった。急ぐ必要がないのだ。何に対しても。
首が伸びきり、頭部がレオンの遥か上方で止まった。見上げる角度が限界に近い。陽光を背にしたドラゴンの頭部が、影になって輪郭だけが見える。
前足が動いた。
右の前足が、岩盤から持ち上がる。爪の一本がレオンの大剣より長い。その前足が、ゆっくりと——
首の後ろが灼けた。
身体が反応していた。思考より先に、右足が岩盤を蹴り、左に跳ぶ。その判断は正しかった。正しかったが、足りなかった。
前足が地面を払った。
速い、という認識が追いつかなかった。あれほどゆっくりと持ち上がった前足が、振り下ろされた瞬間に速度の次元が変わった。爪が岩盤に触れ、白い岩が砕け、粉塵が噴き上がった。直撃は避けた。だが前足が岩盤を叩いた衝撃波が、横に跳んだレオンの身体を掬い上げた。
足が地面から離れた。
飛ばされている。身体が回転し、空と地面の区別がつかなくなる。背中に衝撃が来た。西側の、腰の高さほどの岩の隆起に叩きつけられていた。岩の角が背中の鎧に食い込み、肺の中の空気が全て吐き出される。重装鎧の背面が凹み、衝撃が脊椎を伝って脳まで揺らした。
岩の隆起を越えて、その向こう側の地面に落ちた。
うつ伏せのまま、動けない。腕がある。足がある。大剣は——右手がまだ柄を握っていた。離していなかった。指の筋がそれだけを覚えていて、意識が飛んでいる間も柄を放さなかった。
左の肋骨が軋んでいた。折れてはいない。ひびが入った程度。呼吸のたびに鋭い痛みが走るが、肺は動いている。
右手で地面を押し、身体を起こした。膝をつき、片手で大剣を支えに立ち上がる。口の中に鉄の味が広がっていた。岩に叩きつけられた衝撃で、舌の縁を噛み切っている。唇の端から血の混じった唾液が垂れ、顎を伝って鎧の胸当てに落ちた。
視界が戻る。
岩の隆起を挟んで、ドラゴンが同じ場所にいた。首を持ち上げた姿勢のまま、上からレオンを見下ろしている。前足は元の位置に戻っていた。岩棚の中央に刻まれた爪の痕が、レオンが先ほどまで立っていた場所を貫いている。三本の溝が、白い岩を黒い断面ごと抉っていた。
あの前足が直撃していたら、重装鎧ごと潰されていた。あの一瞬の反射がなければ、岩盤に刻まれた溝の一つがレオンの身体を通っていた。
——強い。
違った。
強い、という言葉は、比較の中にある。俺より強い。あの魔獣より強い。そういう序列の中で使う言葉だ。だがこれは、序列の外にいる。レオンが六度振るった全力の斬撃を、気にも留めていなかった。前足の一薙ぎは、攻撃ですらなかったかもしれない。虫を払う程度の——
考えるな。
レオンは岩の隆起を越えて岩棚の中央に戻り、大剣を構え直した。左手の籠手の指部の留め金がもう一つ飛んでいた。小指と薬指が剥き出しだが、甲の装甲はまだ残っている。柄は握れる。
走った。
正面から。真っ直ぐに。身体を低くし、大剣を右に引き絞り、間合いの限界まで踏み込んでから——
ドラゴンの尾が来た。
視界の左端に影が走った。西側からだった。尾の太さは大剣の刃幅を遥かに超えている。咄嗟に大剣を盾代わりに構えたが、鋼が鱗に弾かれ、衝撃が大剣越しに両腕を叩き、体ごと東方向に薙ぎ飛ばされた。東側の岩の隆起にぶつかり、鎧の右肩の接合部が砕けた。肩甲板が外れ、地面に落ちて乾いた音を立てた。
右肩が動かない——いや、動く。だが鎧の構造が歪み、肩甲骨の周囲で金属片が皮膚に食い込んでいた。動かすたびに、引き裂くような痛みが走る。
立ち上がった。
大剣は手元にある。右手で握れる。左手を添えれば振れる。まだ振れる。
走った。
今度はドラゴンの右側面を狙う。翼の付け根の下——脇腹に当たる部位。関節の隙間なら鱗が薄いはずだ。大剣を突きの軌道に変え、切っ先を絞り、全体重を乗せた一点集中の刺突。
鱗に触れた。切っ先が鱗の隙間を捉えた。——捉えた、と思った。切っ先が半寸ほど沈み、そこで止まった。それ以上進まない。全体重と膂力を乗せた刺突が、半寸で完全に止まっている。
鱗の下の筋肉が、刃を挟んでいた。
意図して受けたのか。反射で絞まったのか。どちらでもいい。結果は同じだった。切っ先は鱗を貫通しておらず、刃は筋繊維に挟まれて動かない。引き抜こうとして両腕に力を込めた瞬間、翼が動いた。
折り畳まれていた翼の肘に当たる関節が、横に張り出した。その一動作だけで、翼の骨がレオンの胸を打った。
鎧の胸当てが潰れた。
金属が内側に折れ、肋骨を圧迫する。さっき軋んでいた左の肋骨が、今度こそ折れる感触があった。短い骨が二本、内側にずれた。肺は——まだ届いていない。だが胴の内側全体に鈍い衝撃が広がり、腹の奥から酸っぱいものが込み上げてきた。
大剣から手が離れた。身体が後方に飛び、岩盤の上を転がった。背中、肩、頭の順に地面を叩き、二回転して止まった。
仰向けだった。
空が見えた。傾き始めた陽が西の岩の隆起の向こうに沈みかけ、空の色が青から紫へ移り始めている。吸い込もうとした瞬間、折れた肋骨が肺の膨張を押し返し、呼吸が浅く途切れた。横を向いて吐いた。口の中で溜まっていた血と胃液が混ざった液体が、白い岩盤の上に広がった。舌の傷はまだ塞がっていない。
——大剣。
大剣がない。ドラゴンの脇腹に刺さったままだ。翼の一撃で吹き飛ばされた際に、柄から手が外れていた。
レオンの武器がなくなった。
右手を地面につき、身体を起こそうとした。左の肋骨が軋み、折れた骨の端が内側から肉を押した。声にならない息が漏れ、片膝をついたまま止まった。
前を見た。
ドラゴンが、こちらを見ていた。
変わらない姿勢。変わらない瞳。あの金色の目が、レオンの全てを映していた。満身創痍で膝をつき、武器を失い、血を吐いた男を——何の感情もなく、ただ見ている。
退屈そうですらなかった。怒りもない。侮蔑もない。感情というものが、あの瞳の中に存在するのかどうかすら分からない。ただ「見ている」。
レオンは立ち上がった。
右膝が笑っていた。先ほどの転倒で打ったのか、膝の裏側に鈍い痛みがある。立てる。歩ける。走れるかは分からない。
右手を開き、閉じた。拳を作れる。殴れる。大剣がないなら、拳で。アイアンファングの頭蓋を素手で砕いたことがある。この拳なら——
分かっていた。
分かっていて、走った。
右拳を振りかぶり、ドラゴンの前足に向かって踏み込んだ。拳が鱗に叩きつけられた。骨が軋み、右の籠手の甲が割れ、中指と薬指の間から血が滲んだ。鱗には何の変化もない。もう一発。左拳。籠手の甲部が鱗にぶつかった衝撃で留め金が全て弾け飛び、金属板が砕けて散った。剥き出しになった左手の甲——そこに走る白い裂傷痕が、ドラゴンの鱗の暗色を背景にして一瞬だけ浮かんだ。皮膚が裂け、裂傷痕を横切るように新しい血が滲んだ。
通らない。何も、何一つ、通らない。
三発目を打とうとした右手を、ドラゴンの前足の指が押さえた。
爪ではなく、指の腹で。レオンの右拳を、地面に押しつけるように、ゆっくりと。
膝が落ちた。
力ではなかった。力なら、対抗できる。押し返そうとすることができる。だがドラゴンの指が加える圧は、重力のようなものだった。方向があるのに逆らえない。地面が引いているのと同じ種類の力で、レオンの身体が沈んでいく。
両膝がつき、右手が地面に縫い止められた。左手で地面を叩いた。何の意味もなかった。ただ、両手が塞がれていないことを確認するように、空いた手を動かしただけだった。
ドラゴンの指が離れた。
解放されたのではない。押さえる必要がなくなっただけだ。レオンの身体はもう、立ち上がる力を出せなかった。
——出せる。
出せるはずだ。まだ腕がある。足がある。肋骨が折れている。右手の指が動きにくい。大剣はない。鎧は半壊している。血を吐いた。膝が言うことを聞かない。だが——
立て。
右手で地面を押した。肘が伸びかけて、そこで筋繊維が限界を訴えた。腕が震え、震えが止まらなくなり、肘が折れた。顔面が岩盤に近づく。左手で支えた。こちらも震えている。二本の腕で身体を持ち上げようとして——右肘が崩れた。
左腕一本で支えている。右半身が地面に落ち、左腕だけが突っ張って、身体を斜めに保っていた。
顔を上げた。
ドラゴンが、首を下ろしていた。
頭部がレオンの目の前にあった。吐息が顔にかかる距離。吐息は熱くない。冷たくもない。温度がない。空気が動いているだけだった。瞳の金色が、至近距離で揺れている。
殺せる距離だった。
牙がレオンの身体を二つに断てる距離。噛みつくまでもなく、鼻先で押しただけでレオンは地面に潰される。それだけの差が、最初から、一瞬たりとも縮まることなく、存在していた。
ドラゴンは動かなかった。
沈黙が落ちた。
風が吹いていた。夕暮れの風が岩棚を渡り、レオンの髪を揺らし、ドラゴンの鱗の隙間を抜けていく。それ以外の音はなかった。レオンの荒い呼吸と、風だけの世界。
金色の瞳が、僅かに変わった。
何が変わったのか、言葉にできなかった。瞳の大きさは同じ。色も同じ。だが、その奥で何かが——
一拍。
ドラゴンの口元が動いた。
顎が開いたのではない。唇に当たる部位が、微かに、ほんの微かに——割れた。
そこから、光が漏れた。
炎ではなかった。熱がない。色も定まらない。白に近いが、白ではない。金に似ているが、ドラゴンの瞳の金とは違う。もっと——もっと根源的な。名前のない。見たことのない。
光が溢れた。
ドラゴンの口から、水が溢れるように、静かに、しかし止まることなく。光は空気のように広がり、レオンの左腕に触れた。触れた瞬間——
痛くなかった。
何も感じなかった。温度がない。圧もない。触覚そのものが消失したような、世界との接続が切れたような——
光が左手を包んだ。白い裂傷痕の上を流れるように広がり、手首から肘へ、肘から肩へ、肩から胸へ。止まらない。止められない。抵抗するという概念が成立しない。水の中に沈んでいるのに溺れていない。落ちているのに重力がない。
視界が白く染まっていく。
最後に見えたのは、金色の瞳だった。
そこに映っていたのは、満身創痍のレオン・ローゼンフェルトではなかった。
——何が映っていたのか。
認識する前に、左腕から力が抜けた。身体が右に傾ぎ、岩盤に崩れ落ちる感覚だけが遠く残り——消えた。
*
光が、岩棚を包んでいた。
夕陽はすでに西の空に落ちかけ、空は紫と藍が混ざり始めている。その薄暮の中で、ドラゴンの口から溢れ続ける光だけが白く輝き、岩棚の全てを塗り替えていた。
光の中心に、人の形があった。
右の頬を岩盤に押しつけるようにして横たわっている。半壊した重装鎧。右手の籠手は甲が割れ、左手の籠手は完全に砕けて散っていた。大剣はドラゴンの脇腹に刺さったまま、持ち主のもとにはない。
白い岩盤の上には、戦いの痕が散らばっていた。爪の溝が中央を横切り、砕けた鎧片が点々と落ち、岩棚の南寄りには赤黒く乾きかけた吐瀉の痕がある。そこから身体が倒れている場所まで、血の粒が断続的に続いていた。口元からは、まだ新しい血が細く一筋、岩盤の白を汚している。
動いていなかった。
だが——死んではいなかった。光がそれを許していないかのように、身体を包み続けている。殺したのではない。殺すために光を放ったのではない。
ドラゴンは口を閉じなかった。
光は流れ続けた。静かに。音もなく。岩棚に吹く風すら、光の中では止まっているように見えた。
やがて、ドラゴンの瞳が閉じた。
最初に開いたときと同じように、音もなく。ただまぶたが下り、金色が消えた。
光だけが残った。
倒れた男を包んだまま、何かを——書き換えるように。




