第1話「最強の男」
アイアンファングの頭蓋が砕ける音は、鉄鍋を石壁に叩きつけた音に似ている。
レオンはそれを知っていた。四匹目を振り抜いた時点で確信に変わった。大剣の刃が類人猿の頭骨を断ち割る瞬間、右手に伝わる抵抗は骨というよりも陶器に近い。硬い。が、脆い。
「——遅ぇ」
群れの一匹が背後から跳んだ。殺気を纏った四肢が重装鎧の肩を掴もうとする。レオンは振り返らなかった。左腕を後ろに突き出し、接近してきた獣の胸板を掌底で叩く。それだけで百キロ近い体躯が地面に叩き落とされ、泥と草を巻き上げながら二回転して止まった。
止まった獣が起き上がる気配はない。肋骨が折れたか、臓腑が潰れたか——どちらでもいい。
「次」
視界の端で、残った群れが散開を始めていた。アイアンファングは群れで動く。数が揃えば正面戦力でC級を超え、熟練の戦士でも連携を組んで当たるのが定石とされる魔獣だ。十二匹の群れともなれば、通常は一個小隊が必要になる。
レオンは一人だった。鎧は返り血と泥で汚れ、大剣の刃には灰色の脳漿がこびりついている。だが呼吸は乱れていない。そもそも、乱れる理由がない。
散開した群れのうち三匹が、三方から同時に仕掛けてきた。正面から一匹が突進し、左右の草むらからそれぞれ一匹ずつが飛び出す。群体の包囲陣形——まともな戦士なら後退して味方との合流を選ぶ場面だった。
レオンは前に出た。
正面の一匹に向かって大剣を横薙ぎに振った。二メートル近い刃が空気を裂き、突進してきたアイアンファングの胴を腰の高さで断ち切る。上半身と下半身が別々の方向に飛び、左から回り込もうとしていた二匹目の顔面に内臓の塊がぶつかった。怯んだ二匹目の首を、返す刀で刈る。
三匹目が右から飛びかかり、背中に取りついた。爪が重装鎧の背板を引っ掻く。甲高い金属音——だが鎧は揺るがない。レオンは大剣を片手に持ち替え、空いた左手を背中に回して三匹目の後ろ足を掴んだ。
掴んで、引き剥がして、地面に叩きつけた。
一連の動作に技術と呼べるものは何もない。間合いの妙も、剣理の冴えも、魔力の援護もない。あるのは、およそ人間の骨格が発揮していい上限を軽々と超えた膂力と、戦場で命を削り続けた年月が練り上げた殺気の読みだけだ。
叩きつけた獣の上に、レオンは片足を乗せた。踏む。骨の砕ける感触が靴底に伝わる。
「——ハッハッハッハッ!」
笑い声が戦場に響いた。
腹の底から放たれる哄笑。戦鬼のそれだった。空気が震え、遠くで陣形を組んでいた兵士たちの馬がいなないた。大音声の笑いは殺気よりも広く、風よりも速く、戦場の端まで届く。
残っていたアイアンファングの群れが、一瞬だけ動きを止めた。獣の本能が、目の前にいるものの危険を正確に測定したのだろう。正面に立つ人間は一人で、武器は一振り、身にまとう魔力は——ゼロ。にもかかわらず、群れの大半がすでに地面に転がっている。
残った四匹が後退を始めた。
「逃がすか」
レオンが地面を蹴った。重装鎧の重量を無視するような加速。二歩目で先頭の一匹に追いつき、三歩目で大剣を振り下ろした。地面ごと叩き割る一撃が、逃走を試みた魔獣を文字通り地面に埋め込んだ。
衝撃で周囲の土が円形に隆起し、半径三メートルほどの浅い窪みができた。
残り三匹。うち一匹は仲間の死に混乱して動きが止まっている。もう二匹は散開しながら後退していた。レオンは止まった一匹の顎を蹴り上げ、空中に浮いた身体に横から大剣を叩き込んだ。
魔獣の身体が壊れた凧のように吹き飛び、十数メートル先の岩に激突して動かなくなった。
あと二匹。
すでに走り始めている。群体の生存本能が「勝てない」と判断した結果の全力逃走だった。まともな判断だ。C級魔獣の走力は訓練された軍馬に匹敵する。追いつける人間は限られる——
レオンは大剣を左手に持ち替え、右手で足元の石を拾い上げた。拳ほどの大きさの石を、逃げる一匹の後頭部めがけて投げつける。腕の一振り。石が空気を切り裂く音すら聞き取れないほどの速度で飛び、逃走中の魔獣の頭蓋を粉砕した。
最後の一匹が振り返った。仲間がまた一匹崩れ落ちるのを見て、恐慌が限界を超えたらしい。牙を剥き、自棄になったように突進してくる。
「いい度胸だ」
レオンは大剣を右手に戻し、正面から迎えた。最後の一匹が跳躍する。レオンは半歩も退かず、跳んできた獣の顔面に大剣の腹を叩きつけた。殴るように。
鈍い音。アイアンファングの身体がくの字に折れ、レオンの足元に落ちた。痙攣が二度、三度。それきり動かない。
静寂が降りた。
戦場には十二体の死骸と、一人の男だけが残っている。風が吹き、血の匂いと土煙を運んでいく。レオンは大剣を肩に担ぎ、ゆっくりと首を回した。鎧の隙間に入り込んだ砂利が首筋を擦るのが少しだけ不快だった。
「——十二匹か。物足りねぇな」
独り言は誰に向けたものでもない。レオン・ローゼンフェルトにとって、この程度の群れは朝の準備運動に等しかった。
*
味方の陣地に戻ると、兵士たちの空気が変わった。
正確に言えば、レオンが歩き始めた時点で変わっていた。戦場と陣地を隔てる緩やかな丘を登るレオンの姿——返り血で赤黒く染まった重装鎧、肩に担いだ大剣から滴る液体、そして平然と歩く巨躯——を見つけた歩哨が、声を上げるでもなく、ただ道を空けた。
道を空けた、というよりも、退いた。
レオンが陣地の中央を横切ると、左右の兵士たちが会話を止めた。武器の手入れをしていた者は手を止め、食事をしていた者は匙を下ろし、報告の伝令をしていた者は声を落とした。視線はある。だが誰もレオンの方を見ようとしない。ちらりと横目で確認して、すぐに逸らす。
レオンは知っている。これはいつものことだ。
恐怖。畏敬。それから、理解の及ばないものに対する生理的な拒否。戦場で魔獣を蹂躙する男の前に立ちたがる兵士はいない。味方であっても、だ。特に、魔法も使わず、純粋な腕力だけで人の域を超えた破壊を成す男の傍には。
ある兵士が目を合わせてしまった。若い。入隊して日が浅いのだろう、レオンの顔を正面から見た瞬間、肌の色が変わった。
「ローゼンフェルト卿——お、お疲れさまで……」
「水場はどっちだ」
「……あ、は、北の天幕の裏に、井戸が」
「そうか」
レオンは若い兵士の横を通り過ぎた。背後で小さく息を吐く音が聞こえた——安堵の音だ。毎回こうだった。用が済めば離れてくれる。それだけで、兵士たちの肩から力が抜ける。
不快ではなかった。
足手まといがいない方が動きやすい。声をかけてくる人間がいなければ、余計な配慮を考えなくて済む。戦場ではレオン一人で十分だし、それ以外の場所では——そもそも、兵士たちとの間に共有すべき話題がない。
井戸に着くと、大剣を縁に立てかけた。柄杓で水を汲み、頭から浴びる。鎧の隙間を伝って泥と砂利が首筋から流れ落ちた。水が赤黒く濁った。もう一杯。冷たい水が顔面を叩き、ようやく戦場の熱が引いていく。
視界の端で、水汲みに来ようとした兵士が二人、レオンの姿を認めて踵を返すのが見えた。
——清々する。
*
日が傾き、野営地に篝火が点された。
レオンは陣地の外れに一人、焚き火を起こしていた。大剣を地面に突き立て、腰を下ろす。魔獣の肉は食えないが、戦場に出る前に補給係から受け取った干し肉と塩漬けの根菜がある。
串に刺す前に、両手の籠手の留め金を外した。返り血でこびりついた革紐が指に引っかかったが、力任せに引き剥がす。外した籠手は焚き火の脇、手の届く場所に並べて置いた。
現れた素手は大きく、節くれ立ち、戦場の男の手だった。左手の甲に白い裂傷痕が一筋走っている。古い傷だ。
干し肉と根菜を雑に串に刺し、焚き火の上に並べた。肉が焼ける匂いが広がる。脂が火に落ち、音を立てて弾けた。
レオンは串を一本引き抜き、まだ半生の肉に噛みついた。顎に力を入れ、固い繊維を引き千切る。味付けは塩だけだったが、戦場の後の肉は何でもうまい。素手の指先に脂が滲み、串を握り直す。
「……ふん」
二本目の串を火に近づけながら、レオンは野営地の方を見た。篝火を囲む兵士たちの輪がいくつか見える。笑い声、酒瓶を回す音、誰かが調子外れの歌を始めた気配。勝ち戦の後の高揚が、夜の野営地を温めている。
レオンの焚き火の周囲には誰もいない。最も近い兵士の輪まで、三十歩はある。
三本目の串を抜き、肉を噛み千切った。四本目を火にくべた。根菜の串も引き抜いて齧る。固い。だが歯応えがある分、食っている実感がある。
レオンは胡座をかいたまま、五本目の串に手を伸ばした。補給係から受け取った量は「二人分」として渡されたものだったが、すでに半分以上が胃に収まっている。戦闘後の身体は燃料を要求する。思考よりも先に手が動き、串が減っていく。
六本目を噛み千切ったあたりで、レオンの口元が緩んだ。
うまい。肉はうまい。火はあったかい。敵は死んだ。何も問題がない。
笑い声が漏れた。先ほどの戦場の哄笑とは違う、腹の底に溜まった満足感が勝手に声になったような、ゆるい笑いだった。
「——ハハッ」
遠くの篝火の周りで、兵士が一人、こちらを見た。暗がりの中で一人笑っている巨漢と目が合い、慌てて視線を戻した。
レオンは気にしなかった。七本目の串を火から引き抜き、熱い肉に齧りついた。
*
串をすべて食い終えた。
腹は満ちた。だが喉が乾いている。戦闘後に井戸で水を浴びたきり、まともに飲んでいなかった。手元の水筒はとうに空だ。
レオンは立ち上がった。大剣と籠手は焚き火の脇にそのまま置いておく。自分の陣地に近づく人間はいない。
陣地の中に共用の水樽がいくつか据えてある。そこまで歩けばいい。篝火の輪をいくつか横切る形になった。レオンが通り過ぎるたび、兵士たちの声が途切れ、通過すると元に戻る。波のように。いつものことだ。
水樽は陣地の中ほど、物資を集めた天幕の脇に置かれていた。柄杓で水を掬い、一息に飲む。冷えた水が喉を下り、腹の底に落ちた。もう一杯。
三杯目を飲み終えたところで、声が聞こえた。
水樽から十数歩ほど先に、篝火が一つ燃えている。その手前——水樽と同じ側に、兵士が四人、篝火に向かって並んで腰を下ろしていた。火に当たるために揃って前を向いているから、四人とも水樽の方に背を向けている。レオンからは兵士たちの背中越しに、篝火の赤い光が見えた。
酒が回っているのだろう。声が大きい。夜気を通して十数歩の距離を越え、話の中身が聞き取れた。
「——だから、あの山には近づくなって話だよ。霊峰ガルドだ」
「ガルド? 北のあの——」
「そうだ。頂級災害指定。ドラゴンが棲んでる」
レオンの手が止まった。
柄杓を樽の縁に掛けた。
「去年の秋に討伐隊が出ただろう。A級相当の精鋭を四十人揃えて、山の中腹まで行ったって話だ」
「どうなった」
「七人だけ帰ってきた。残りは——まあ、帰ってこなかった」
兵士たちの間に沈黙が落ちた。篝火の薪が爆ぜる。
「……七人も生きて帰れたなら、まだましな方じゃないか」
「逆だよ。ドラゴンが本気を出してたら一人も帰れなかったって、生還した連中が全員そう言ってる。あれは戦いじゃなかった。踏み潰されただけだ、って」
「何だそりゃ」
「相手にされなかったんだよ。人間ごときは。虫が巣の近くをうろついたから、払っただけだ——そういう規模の話だ」
別の兵士が酒瓶を傾けながら続けた。
「脅威度ランクで言えばS級どころじゃねぇ。あれは規格外だ。分類する意味がない。討伐って言葉自体がおこがましい。山そのものが怒ったらどうしようもないだろう。それと同じだ」
「まあ、俺たちには関係ないさ。あの山に用がある馬鹿は——」
「——ドラゴン、か」
声は、背後から落ちてきた。
レオンは会話が聞こえている間に水樽を離れ、十数歩の距離を詰めて、兵士たちの背後に立っていた。鎧の重量が地面を踏む音は確かにあったはずだが、酒と話に夢中だった四人は気づかなかった。
四人が一斉に首をひねった。全員が篝火に向かって同じ方向を向いていたから、振り返る動作も揃っていた。篝火の光が、兵士たちの頭越しにレオンの顔を照らしている。口元が歪んでいた。笑っている。
兵士たちの顔から、酒の赤みが引いた。
「……ろ、ローゼンフェルト卿」
「そのドラゴンは強いのか」
問いかけは端的で、世間話の体裁を取っていない。答えを要求する声だった。
兵士たちが顔を見合わせた。一人が喉を鳴らし、答えた。
「……つ、強いなんてもんじゃありませんよ。四十人の精鋭が七人になるような化け物です。近づいたら死ぬ。それだけです」
「四十人が七人。ふん」
レオンは兵士たちの横を通り過ぎ、篝火の前に出た。火が近い。炎に照らされた鎧が赤く光る。
「場所は北か」
「は——」
「霊峰ガルド。どっちだ」
兵士の一人が、震える指で北東を指した。レオンはその方角に首を向けた。篝火の光の外、夜空を切り取る稜線がかすかに見える。険しく、高く、雲がかかった山の輪郭。
「——面白ぇ」
レオンの口元が裂けるように開いた。歯を見せる笑み。獣が獲物を見つけた時の、歓喜と飢餓が混ざった表情だった。
兵士たちは黙っていた。言葉を挟む隙がない。眼の前の男が何を考えているか——考えるまでもなく、分かってしまっている。分かったうえで、止めるという選択肢が存在しないことも。
「四十人で七人か。なら一人で行けば、誰も巻き込まずに済むな」
レオンは背を向け、自分の焚き火に向かって歩き出した。篝火の光から離れるにつれ、巨躯が夜の暗がりに沈んでいく。兵士たちは動けなかった。誰かがようやく小声で言った。
「……正気じゃねぇ」
「正気だよ。あの人はいつもああだ。正気のまま、人間の枠を踏み越えていく」
「止められないのか」
「止められる奴がいるなら連れてこい。この陣に——いや、この王国に、あの男を止められる人間はいない」
*
陣地の外れ、自分の焚き火に戻った。傍に置いた籠手と大剣はそのままだった。当然だ。
残った薪を火に足し、仰向けに横になる。夜空には雲が流れていた。その向こうに、北の山の頂がある。
明日の行軍路を変えてもいい。隊を離れることに許可は要らない。レオン・ローゼンフェルトは最強の戦士であり、命令を受ける立場にはない。どこへ行くかは、自分で決める。
常に、自分で。
左手を持ち上げ、焚き火に翳した。甲に走る白い裂傷痕が、揺れる炎の光で浮かび上がる。いつ、なぜ刻んだか——それは今、考えることではない。
目を閉じる前に、もう一度だけ北の空を見た。
「——待ってろ」
静かな、しかし揺るぎのない声。戦場の哄笑も、豪快な食事の笑いも消えた後に残った、この男の芯にある音。
レオン・ローゼンフェルトは笑っていた。
孤独を感じたことは、一度もない。
強い者に、仲間は要らない——それが二十年間、一度も疑わなかった信条だった。




