第21話「取引」
目を開けたとき、最初に見えたのは天井の木目だった。
見慣れた——いや、見慣れ始めた、と言うべきか。この部屋で目覚めるのは、もう両手の指では足りない回数になっている。それでもまだ、朝いちばんに天井を見上げるたび、ほんの一瞬だけ空白が挟まる。ここはどこだ、という問いが、意識の底で瞬いて消える。
窓の外が明るい。
雨上がりの朝だった。薄い陽の光が、濡れた空気越しに窓硝子を通って、部屋の床に淡い四角を落としている。昨夜の嵐が嘘のように、空は静かだった。
身体を起こそうとして、目の周りが引き攣った。
——泣いたのか。
瞼が重い。頬のあたりが突っ張って、乾いた塩の感触が肌に残っている。枕に顔を押しつけたまま眠ったらしい。寝巻きの袖口が濡れて、冷たく腕に貼りついていた。
寝台の端に手をついて、ゆっくりと上体を起こす。左肩がいつもの位置で引っかかる。脇より上には、今日も上がらない。右手で寝巻きの襟元を直しながら、足を床に下ろした。包帯の巻かれた足裏が、石の冷たさを布越しに拾う。
立ち上がる。
卓の上のランプは消えていた。油が尽きて、芯だけが黒く焦げている。昨夜、あの小さな炎の下で自分の腕を見つめていたことを思い出す。細い腕。白い肌。剣だこのない、柔らかい掌。
——そこから先の記憶は、水に溶けた絵の具のように輪郭がない。
泣いた。それだけは確かだった。声を殺して、枕に顔を押しつけて、身体を丸めて泣いた。どれだけの時間そうしていたのかは分からない。涙が止まったのか、意識が途切れたのか、その境目すら曖昧だ。
ただ、胸の奥が——昨日までとは、少しだけ違っていた。
あの重さが消えたわけではない。孤高と呼んでいたもの、誇りと呼んでいたもの、もはや執着と呼ぶしかなかったもの——それは今もある。だが昨夜、一枚だけ、薄い皮が剥がれたような感覚があった。
窓に近づく。硝子の表面に、自分の顔がぼんやりと映った。
目が腫れていた。
瞼が膨らんで、目尻が赤く滲んでいる。鼻の頭も赤い。髪は寝癖で右側だけ跳ねて、頬には枕の皺が残っていた。
——ひどい顔だ。
レオンだった頃なら、泣いた翌朝に鏡を見ることはなかった。泣くこと自体がなかったからだ。戦場で仲間が死んでも、依頼主に裏切られても、涙を流したことは一度もなかった。泣く暇があるなら剣を振れ。ローゼンフェルトの家訓は、骨の中にまで染みている。
——いた。
染みて、いた。
窓硝子の向こうで、雲の切れ間から光が差した。庭の芝が雨粒を宿して光っている。花壇のあたりは、ここからでは見えない。
寝巻きを脱いで、用意されていた衣服に着替える。袖を通すとき、左肩が引っかかって一瞬止まる。右手で左の袖口を引いて、無理に通した。釦を留める指先は、まだ少し震えていた。泣き疲れた身体の残響だろう。
髪を手櫛で整える。跳ねた右側を掌で押さえたが、すぐに戻った。
——このまま食堂に行けば、顔を見られる。
瞼の腫れは、一晩泣き通したことを誰の目にも明らかにする。使用人にも、護衛にも、そしてクラリスにも。
水差しに手を伸ばした。卓の端に置かれた陶器の水差しから、手巾に水を含ませて、目の周りを押さえる。冷たい布が、腫れた瞼に沁みた。何度か繰り返す。少しはましになっただろうか。
硝子に映る自分を、もう一度見た。
まだ赤い。
だが——どうしようもない。これ以上ここに閉じこもっていても、腫れが引くわけでもないし、腹も減っている。
扉に手をかけた。
廊下は静かだった。
石壁が朝の光を受けて、薄い灰色に染まっている。壁燭台の蝋燭はとうに燃え尽きて、受け皿に白い蝋が固まっていた。足音を殺す癖が抜けないまま、包帯越しの足裏で石の床を踏む。
食堂までの廊下は、短い。
角を曲がったところで、開け放たれた食堂の扉が見えた。朝の光が室内から廊下へ溢れている。食器が触れ合う微かな音。給仕の足音。
——そして、椅子に座っている人影。
クラリスはすでにそこにいた。
窓際の席で、背筋を伸ばしたまま茶杯を口元に運んでいる。いつもと同じ姿勢。いつもと同じ落ち着き。室内着の襟元に乱れはなく、髪も丁寧に整えられていた。
ただ——。
目の下に、ごく薄い影があるように見えた。
光の加減かもしれない。窓から差す朝日が逆光になって、輪郭だけがくっきりと浮かんでいるせいかもしれない。レオナにはそれ以上のことは分からなかったし、分かろうとする余裕もなかった。
自分の目の腫れのほうが、よほど問題だ。
「——おはようございます」
声が掠れた。
昨夜の慟哭で喉を痛めたのだろう。元から高くなった声が、さらに細く裂けて、空気に散った。自分でも驚くほど、弱々しい声だった。
クラリスが顔を上げた。
一瞬——ほんの一瞬、その視線がレオナの目元に止まった。止まって、通り過ぎた。何も指摘しなかった。何も訊かなかった。
「おはようございます、レオナさん。今朝は少し冷えますね。座ってください」
声が柔らかかった。いつもの、落ち着いた、制御の行き届いた声。だがその下に——レオナの耳が拾ったのは、ほんのわずかな温度の高さだった。いつもより、ほんの少しだけ、声の底が温かい。
気のせいかもしれない。
レオナは黙って、向かいの椅子を引いた。椅子の脚が石の床を擦る音が、静かな食堂に響く。座る。背もたれに背中をつけたとき、自分がどれだけ疲れているか分かった。泣き疲れた身体は、一晩眠っても回復しきっていない。
給仕がパンと薄い粥を運んできた。温かい湯気が立ち上る。
手を伸ばして、パンを千切った。
口に運ぶ。噛む。飲み込む。
粥を匙で掬う。口に入れる。飲み込む。
味はする。温かいことも分かる。だが、食べるという行為が、今朝はどこか遠い場所で起きているような感覚があった。身体は動いているのに、意識が半歩後ろにいる。
クラリスも黙って食事をしていた。
二人の間に会話はなかった。食器と食器が触れ合う音、給仕の足音、窓の外で小鳥が鳴く声——それだけが食堂を満たしていた。
だが、不思議と居心地は悪くなかった。
以前なら——ここに来たばかりの頃なら——この沈黙は、針のように刺さっただろう。借りを作っている居候が、恩人の食卓で黙って飯を食っている。その事実だけで、喉に石が詰まるような息苦しさがあったはずだ。
今朝は、それが薄い。
消えたわけではない。だが、昨夜の涙が何かを洗い流したのか、あるいは単に泣き疲れて余計なことを考える気力が残っていないだけなのか——胸の中の棘が、ほんの少しだけ丸くなっていた。
粥を食べ終えた。パンの最後のひとかけらを口に入れて、水で流し込む。
匙を置いた。
クラリスも、ちょうど茶杯を受け皿に戻したところだった。
給仕が食器を下げていく。食堂に残ったのは、二人と、窓から差す朝の光だけだった。
——今だ。
胸の奥で、何かがそう言った。
昨夜の涙で剥がれた一枚の下から、ずっと抑え込んでいた問いが浮き上がってきている。ここに来てからずっと、訊けなかった問い。訊く権利があるのか分からなかった問い。
訊いたところで、何が変わるわけでもない。
——だが。
「クラリス様」
声が出た。掠れて、低くて、自分の声かどうかも怪しいくらい小さかったが、出た。
クラリスの視線が、静かにこちらへ向いた。
「はい」
「一つ——訊いていいですか」
敬語が邪魔だった。レオン時代なら、こんな回りくどい切り出し方はしない。言いたいことがあるなら言え。訊きたいことがあるなら訊け。それがローゼンフェルトの流儀だった。
だが今の自分は、この屋敷の善意で生かされている身だ。言葉を選ぶ必要がある。
「どうぞ」
クラリスの声は穏やかだった。
レオナは、卓の上に置いた自分の手を見た。両掌の薄い瘡蓋。左手の甲の白い裂傷痕。細い指。爪の先まで少女のそれだった。
「——あの日」
声が途切れた。喉の奥が締まる。
「……あの日、あなたは私を拾った。名前も知らない。何者かも分からない。魔力もない。街道で倒れていた、ただの——」
言葉を探す。正確な言葉を。自分を飾らない言葉を。
「ただの、役に立たない女を」
卓の上の自分の手が、微かに震えていた。
「なぜですか」
訊いた。
声は、思ったより平坦だった。感情を乗せないように、意識して抑えた。乗せたら崩れる。崩れたら、この問いの答えを聞く前に、また泣いてしまう。
クラリスは、すぐには答えなかった。
窓の外を見ていた。雨上がりの庭を、朝の光が柔らかく照らしている。クラリスの横顔に、その光が薄く当たって、睫毛の影が頬に落ちていた。
三秒。五秒。それ以上かもしれない。食堂の静寂の中で、小鳥の声だけが遠くで鳴いている。
「——倒れている人がいたからです」
クラリスの答えは、拍子抜けするほど簡素だった。
振り向いたクラリスの目は、レオナをまっすぐ見ていた。
「あの街道で、傷だらけで意識を失っている人がいた。私の馬車が通りかかった。護衛がいて、治癒の術があった。手を伸ばせる状況で、伸ばさない理由がなかった。——それだけです」
嘘ではない、とレオナは思った。
この人は、嘘をつくとき別の顔をする。言葉を選ぶとき、一瞬だけ視線が手元に落ちる。今、クラリスの目はまっすぐこちらを向いたままだ。
だが——それだけでもない。
レオナは、この屋敷で過ごした日々の中で、少しずつ学んでいた。クラリスという人間の輪郭を。善意は本物だ。手を伸ばした瞬間に、打算はなかったかもしれない。だが——その後に、何かが加わっている。レオナの身体を診たとき、魔力がゼロだと知ったとき、それでも戦おうとする姿を見たとき——クラリスの目の奥で、何かが計算を始めていた。
それを、責める気にはなれなかった。
善意と計算は、同じ人間の中に同居する。どちらか一方だけの人間など、レオナはこれまでの人生で一人も見たことがない。
戦場でも、そうだった。命を張って仲間を庇う男が、翌日には報酬の取り分で揉めている。人間とはそういう生き物だ。
大事なのは——差し伸べられた手が、確かに温かかったということだ。
「……そうですか」
レオナは、それだけ言った。
視線を卓に落とす。自分の手を見る。白い裂傷痕が、朝の光を受けて微かに光っている。
——ここからだ。
ここから先が、本当に言いたいことだ。
喉が締まる。胸の奥で、レオン・ローゼンフェルトの残骸が叫んでいる。やめろ。そんなことを口にするな。お前は最強の戦士だ。誰かに頭を下げて、置いてくれなどと——。
——お前は、もういない。
昨夜、泣いて、認めた。あの腕は戻らない。あの声は戻らない。あの力は戻らない。レオン・ローゼンフェルトは死んだ。剣だこと一緒に、消えた。
残ったのは、この細い身体と、掠れた声と、魔力のない少女の殻だ。
だが——殻の中に、まだ何かが残っている。それが何なのかは分からない。分からないが、昨夜の涙が一枚剥がしたものの下に、確かにある。
それを守りたいなら——。
それを育てたいなら——。
一人では、もう、無理だ。
唇が震えた。
声を出す。出さなければならない。ここで黙っていたら、また一人で抱え込んで、また閉じて、また誰にも手が届かない場所に沈む。ディルクが言った通りの人間——強かったが、死んでも惜しまれない男——そのまま、少女の姿で朽ちていく。
嫌だ。
それだけは——嫌だ。
「クラリス様」
声が裂けた。高く、細く、喉の奥から絞り出すように。
クラリスが、わずかに身を正した。何かを察したのかもしれない。レオナの声の質が、さっきまでとは違うことに。
「——私は」
言葉が詰まる。喉の奥に栓がある。それを押し退けようとして、口が開いたまま止まる。
卓の上の手が、拳になっていた。爪が掌に食い込んでいる。薄い瘡蓋の上から、新しい痛みが走る。
「私は——家事が、できません」
出てきた言葉は、想定と違った。
「皿を洗えば割る。掃除をすれば壊す。シーツを畳めば裂く。……採寸のときは、使用人に迷惑をかけた」
自分の無能を、一つずつ並べている。何をやっているのか分からない。こんなことを言いたいのではない。だが、言葉が勝手に転がっていく。
「魔力もない。剣も持てない。ギルドでは雑用しかできない。全財産は銅貨一枚で——」
声が震える。抑えているのに、震える。
「——何の役にも立たない」
そこで、一度止まった。
息を吸う。空気が喉を通るとき、冷たくて痛い。
クラリスは黙っていた。口を挟まなかった。食堂の窓から差す光だけが、二人の間を通り抜けている。
レオナは、拳を開いた。掌の瘡蓋に、爪の跡が赤く残っている。
「——だから」
ここだ。ここが、レオナの喉を塞いでいる栓の正体だ。
「だから、これは——取引です」
声が掠れて、途切れた。
取引。この言葉にすがるしかなかった。対等な交換。等価の約束。「助けてくれ」ではなく、「返すから貸してくれ」。レオン・ローゼンフェルトの残骸が許容できる、最後の一線。
「私は必ず——」
声が、もう一度途切れた。
喉が閉まる。目の奥が熱い。だめだ。泣くな。ここで泣いたら取引にならない。取引は対等な者同士がするものだ。泣きながら差し出す取引など——。
——だが、声は止まらなかった。
「必ず、恩は……返します」
震えていた。声だけではない。肩も、手も、膝も、全部が震えていた。
「何でもします。戦えるようになります。掃除でも、草むしりでも、何でも——上手くなります。だから——」
顔を上げた。
泣きはらした目で、クラリスを見た。
「——ここに、置いてください」
それは取引の言葉ではなかった。
どれだけ取引の形に整えても、声の震えが、目の赤みが、拳を握りしめた指の白さが、全てを裏切っていた。
見捨てないでくれ。
ここにいさせてくれ。
一人は——もう——。
口にしていない言葉が、全身から漏れていた。
クラリスの顔が、一瞬だけ歪んだ。
——歪んだ、とレオナは思った。
だが、それは苦痛の歪みではなかった。唇が震えて、それを押さえるように、一度だけ強く結ばれた。目元が細くなった。睫毛が揺れた。
そして——。
「……ずいぶんと、条件の悪い取引ですね」
クラリスの声は、いつもより低かった。低くて、少しだけ掠れていた。
「皿を割り、シーツを裂き、銅貨一枚の人材を雇うなんて。侯爵家の財務官に怒られそうです」
言葉だけを聞けば、いつもの冷静な分析だった。いつもの、合理で善意を包む、クラリスの話法。
だが——声が、震えていた。
クラリスが、椅子から静かに立ち上がった。卓を回って、レオナの傍に来た。
レオナは動けなかった。椅子に座ったまま、見上げることしかできなかった。
クラリスの手が伸びてきた。
レオナの震える拳の上に、そっと置かれた。温かかった。冷えた石の食堂で、その手だけが確かに温かかった。
「取引として成立するかは分かりません」
クラリスの声が、レオナの頭上から降ってくる。
「ただ——ここは、あなたの部屋です。あなたの席です。あなたが出ていきたいと言うまで、誰もそれを動かしません」
——崩れた。
レオナの顔が、くしゃくしゃに崩れた。
堪えようとした。歯を食いしばって、唇を噛んで、呼吸を止めて——だが、クラリスの手の温度が、全部を壊した。
涙が溢れた。
昨夜の涙とは違っていた。昨夜は暗闇の中で、声を殺して、枕に顔を押しつけて泣いた。あれは喪失の涙だった。過去の自分を埋葬する涙だった。
今の涙は——温かかった。
目から溢れた瞬間に頬を伝って、顎から落ちて、卓の上に小さな染みを作った。声は出なかった。出す必要がなかった。ただ、涙だけが止まらなかった。
鼻の奥が痛い。視界が滲んで、クラリスの輪郭がぼやける。
レオナは——生まれて初めて、泣きながら誰かの手を握り返した。
強く。不器用に。少女の握力で精一杯の力で。
何も言えなかった。取引の続きも、条件の提示も、恩を返す方法も——何一つ、言葉にならなかった。
だが、それでよかった。
クラリスは何も言わなかった。手を引かなかった。レオナの拳を包んだまま、ただ、そこにいた。
食堂の窓から、朝の光が差していた。雨上がりの空気が、開いた窓から微かに流れ込んで、レオナの濡れた頬を撫でた。
どれくらいそうしていたか、分からない。
涙が止まったのは、目が枯れたからではなく、胸の奥の何かが——昨夜剥がれた一枚のさらに下にあった、凝り固まった塊が——ほんの少しだけ、溶けたからだった。
レオナは、袖の端で乱暴に目を拭った。
「……顔が、ひどいことになっている」
自分で言った。声はまだ掠れていたが、さっきまでの震えは消えていた。
クラリスが——笑った。
声を立てず、目元だけで。いつもの制御された表情とは違う、どこか安堵の混じった、小さな笑みだった。
「朝から二回も泣かれたら、ハウスに報告書を書かれそうですね」
「二回じゃない。一回だ」
——俺、と言いかけて、飲み込んだ。
「……一回です」
クラリスの手が、レオナの拳からそっと離れた。
「顔を洗ってきてください。冷たい水がいいですよ。——それと」
一拍、間を置いた。
「花壇の東半分、今日も続きをお願いできますか。昨日の雨で、また少し草が出ているかもしれません」
それは、いつもの依頼だった。いつもの、淡々とした、合理的な仕事の振り方。
だが——今朝、その言葉が意味するものを、レオナは正確に聞き取った。
ここにいていい。
やることがある。
あなたの手を、必要としている場所がある。
「——分かりました」
レオナは椅子から立ち上がった。膝が少しだけ震えたが、立てた。
食堂を出る。廊下を歩く。洗面の水で顔を洗う。冷たい水が腫れた瞼に沁みて、一瞬だけ息が詰まる。何度も水をかけた。指先が冷えるまで。
顔を上げる。水滴が顎から落ちる。
鏡はないが、分かっている。まだ目は赤い。まだ腫れている。一目見れば、泣いた後だと誰にでも分かる。
——まあいい。
乾いた手巾で顔を拭いた。
手袋を取りに自室へ戻る。クラリスが用意した花壇作業用の手袋。卓の端に、きちんと揃えて置いてある。左手、右手。片方ずつ嵌めた。革が掌の瘡蓋を覆って、痛みが和らぐ。
廊下を歩く。裏口から、庭へ出る。
朝の空気が、全身にぶつかった。
冷たい。雨上がりの湿気を含んだ風が、頬を撫で、髪を揺らし、寝巻きから着替えた衣服の隙間に入り込んできた。芝は露で濡れて、光っている。空は高く、雲の切れ間から青が覗いていた。
足裏の包帯が、濡れた石畳の冷たさを拾う。
——広い。
屋敷の中にいると忘れる。外の空気の、この広さを。天井がない。壁がない。視界が、空の端まで続いている。
花壇へ向かおうと歩き出したとき——。
「おはようございます」
声がかかった。
庭の端に立っていた護衛の一人だった。朝の巡回だろう。鍛え上げた体格に、装備を整えた姿。レオナを見て、軽く頭を下げた。
——挨拶。
以前なら、この男はレオナに挨拶などしなかった。得体の知れない少女。保護対象。警戒すべき未知の存在。視線はあっても、声をかけることはなかった。
それが——変わっている。
あの夜以降。魔獣からクラリスを庇ったあの夜以降、護衛たちの態度は少しずつ変わっていた。水を届けてくれるようになった。すれ違いざまに頷いてくれるようになった。そして今朝——声をかけてきた。
レオナの喉が、一瞬だけ締まった。
目が、まだ赤い。泣いた後だと、この男にも分かるはずだ。
右手が上がった。鼻の頭を、手袋をした指先で擦った。照れ隠し。目元を隠すように、ほんの少しだけ顔を逸らして。
そして——。
「おう!」
声が出た。
掠れていた。高かった。少女の声だった。レオン・ローゼンフェルトの低い咆哮とは似ても似つかない、細く小さい返事だった。
だが、力があった。
威勢ではなく、虚勢でもなく——ただ、そこにいることを恥じていない人間の声だった。
護衛の男が、一瞬だけ目を瞬いた。それから、口元がわずかに緩んだ。
レオナはそれ以上立ち止まらず、花壇へ向かって歩き出した。
手袋の中で、掌が温かい。
泣きはらした目は、まだ赤い。鼻の頭も赤い。髪の右側はまだ跳ねている。銅貨は一枚。武器はない。左肩は上がらない。足裏には包帯が巻かれている。
それでも——。
雨上がりの朝の光が、庭を照らしていた。
花壇の東半分で、昨日の雨に洗われた土が、黒く湿って光っている。小さな雑草が、もう幾つか頭を出していた。
レオナは膝をつき、手袋をした手を土に伸ばした。




