第22話「剣の在処」
数日が経っていた。
雨上がりの朝に膝をついた花壇の土は、毎日少しずつ形を変えた。雑草を抜き、土を均し、枯れかけた茎の根元に水をやる。翌朝にはまた別の草が芽を出している。終わらない。終わらないが、嫌ではなかった。
手袋越しの土の感触にも慣れた。最初は力加減が分からず、根ごと苗を引き抜いてしまったことがある。護衛の一人が無言で苗を拾い、土に戻してくれた。その男は、翌日から花壇の脇に小さな木の札を立てるようになった。「雑草」と「苗」の区別がつかない人間のために。
——舐めやがって。
そう思ったのは最初だけだ。札がなければ、レオナは今日もまた苗を引き抜いていた。
朝の挨拶は、もう自然になっていた。護衛とすれ違えば声をかける。向こうも返す。それだけのことが、数週間前には想像もできなかった。
足裏の包帯はまだ巻いている。左肩は相変わらず脇より上に上がらない。銅貨は一枚。武器はない。
だが、毎朝目が覚めたとき、自分がどこにいるかを確認して怯える必要がなくなった。
それだけで——十分すぎるほど、世界は違って見えた。
*
その日の昼過ぎ、食堂で遅い昼食を取っていたレオナを、使用人が呼びに来た。
「クラリスお嬢様が、応接間でお待ちです」
レオナの手が止まった。スプーンが皿の縁に当たって、かちん、と小さな音を立てた。
応接間。
この屋敷で暮らすようになって、呼び出される場所が決まっていることに気づいた。食堂、花壇、たまに廊下。応接間は、まだ一度もない。あそこは来客用の部屋だ。つまり——何かの話がある。
レオナは残りのパンを一口で頬張り、椅子を引いた。
*
応接間の扉を開けると、クラリスが窓際の椅子に腰かけていた。
陽光が斜めに差し込んで、クラリスの横顔を柔らかく照らしている。手元にはいくつかの書類と、封蝋で閉じられた封書が一通。
「座ってください」
クラリスの声は普段通り——穏やかで、しかし柔らかさの奥に芯がある。レオナは向かいの椅子に腰を下ろした。背筋が勝手に伸びる。この部屋の空気がそうさせるのか、クラリスの居住まいがそうさせるのか。
「体の具合はどうですか」
「……悪くない」
左肩を軽く回す仕草で答えた。まだ途中で引っかかる。が、日々の花壇作業で、左手の握りは少しずつ戻りつつあった。土を掴む、根を引く、水桶の取っ手を持つ。そういう動作の一つ一つが、萎えた指の感覚を呼び戻していた。
「足は」
「歩ける。走れるかは、まだ試してない」
クラリスが小さく頷いた。それから、手元の書類に視線を落とした。
間があった。
クラリスが言葉を選んでいる間というのは、レオナにも分かるようになっていた。この人は、言いにくいことほど丁寧に整えてから出す。
「——単刀直入に言います」
レオナの眉が片方だけ上がった。この人の「単刀直入」は、だいたい単刀直入ではない。
「あなたに、総合学校へ通ってもらいたいのです」
静かな声だった。
レオナの表情が、一瞬で固まった。
「……学校」
「はい」
「——学校」
もう一度、同じ単語を繰り返した。声に、明確な拒絶の色が滲んでいた。
「貴族の、学校か」
「侯爵家の影響下にある総合学校です。教養課程から実技課程まで幅広い——」
「断る」
クラリスの説明を、レオナは途中で切った。
椅子の背に体重を預け、腕を組もうとして——左肩が上がりきらず、右腕だけを胸の前で折った。不格好な拒絶のポーズだった。
「なんで俺が、貴族のガキどもに混じって机に座らなきゃならない」
「聞いてください。私が提案しているのは——」
「座学なんぞ、一日で首が折れる。文字は読めるが、勉強なんぞしたことない。礼法も、社交も、茶の淹れ方も知らない。そんな場所に放り込まれたら、皿洗いより先に問題を起こす」
一息に言い切った。事実の羅列だった。レオナは自分のことを正確に把握していた。最強の戦士だった男が、文字の読み書き以外にまともな教育を受けたことは一度もない。
クラリスは、レオナの言葉が途切れるのを待っていた。慌てず、遮らず、ただ静かに。
その落ち着きが、逆にレオナの苛立ちを煽った。
「大体、俺はここで働いて恩を返すと——」
「案内状を、読んでもらえますか」
クラリスが、封蝋を切った封書を差し出した。
レオナは黙った。
受け取らないのも子供じみている。右手を伸ばし、封書を取った。中から折りたたまれた紙を引き出す。総合学校の紋章が印刷された厚手の紙だった。
文面に目を通した。入学案内。教養課程。実技課程。魔法基礎。錬金術概論。歴史学。——どれも、レオナの目は素通りした。文字が頭に入らない。興味がない。こんなものは——
視線が、止まった。
紙の下半分。実技課程の一覧。その三行目。
——**剣術基礎**。
指先が、紙を握りしめていた。右手の親指の腹が、その三文字の上を這うように止まっている。
呼吸が、変わった。
鼻から吸い込んだ空気が、喉の奥で引っかかって、口から漏れた。短く、鋭く。獣が獲物を見つけたときの、あの呼吸だった。
「——ここに、入れるのか」
声が低くなっていた。さっきまでの拒絶はどこにもない。目が据わっている。案内状を持つ右手が微かに震えている——怒りでも恐怖でもない。
渇きだった。
喉が、干上がった砂漠に水を見つけたように疼いている。
クラリスが、ほんの一瞬だけ目を伏せた。口元が動いたのは、笑いを噛み殺したのか、それとも予想通りの反応に安堵したのか。レオナには分からなかった。
「ええ。入れます」
「剣を、教えてもらえるのか」
「技術を、型を、基礎から。あなたに足りないと言っていたもの全てを」
レオナの喉が鳴った。唾を飲み込む音だった。
——技術。
それは、レオンだった頃には必要なかったものだ。圧倒的な膂力があった。どんな相手でも、力で叩き伏せれば済んだ。型など知らなくても、速度と重量で全てを解決できた。
だが今の身体には、そのどちらもない。
あの日、練習場を見つけたとき、足が止まった。木剣を振る音が聞こえた。規則正しい、反復の音。自分には無い何かがそこにあると、身体が知っていた。
あのとき欲しかったものが——ここにある。
「俺が——」
唇が閉じた。喉の奥で、音が引っかかって止まった。
レオナは案内状から顔を上げた。目がまっすぐにクラリスを見ていた。
「私が、そこに通う費用は」
「投資です」
クラリスの声は、感情を排した実務の響きだった。
「あなたがここで花壇の草を抜いているだけでは、私の投資に対する回収が見込めません。あなたには戦える人間になってもらいます。そのための教育費は、アークライト家が負担します。恩を返すと言ったのは、あなた自身です」
合理だった。隙のない、クラリスらしい論理構成だった。善意を取引の形に整え、レオナの誇りを傷つけずに手を差し伸べる——この人は、いつもそうだ。
レオナは、それを見抜いていた。見抜いた上で、乗った。
「——分かった」
短く、吐き捨てるように。だが視線は案内状の「剣術基礎」の文字に戻っていた。指が離れない。
「ただし」
クラリスの声が、わずかに硬くなった。
レオナは顔を上げた。
「剣術基礎は、事実上の男たちの独占領域です」
「……は?」
「女性が参加すること自体は制度上禁じられていませんが、実態としては嘲笑の対象になります。魔力を持たない女性となれば、なおさら」
クラリスの説明は淡々としていた。事実を述べているだけだ。忠告でも諫言でもない。ただ、この道がどういう道なのかを、正確に伝えている。
「あなたがそこに立てば、周囲の反応は——おそらく、冷たいものになるでしょう。能力で証明するまでは」
レオナは黙って聞いていた。
数週間前の自分なら、その言葉に噛みついていた。あるいは、黙り込んで逃げていた。だが今は——
「……それで?」
声が出た。低く、平坦だった。
「それだけか」
クラリスが、一拍だけ間を置いた。
「それだけです。制度上の障害はありません。あるのは——」
「ガキどもの目と、口だろ」
レオナの口元が、歪んだ。
それは笑みだった。
だが、愛想笑いでも自嘲でもない。唇の端が片方だけ吊り上がり、目が細くなる——あの笑みだった。
かつてレオン・ローゼンフェルトが、格上の魔獣の群れを前にして浮かべた笑み。勝てるかどうかではなく、ここに戦いがあるという事実だけで口元が緩む、あの不敵な——
「知るか」
椅子から立ち上がった。左肩が軋んだが、構わなかった。
「嘲笑されるのが怖くて、剣の前に立てなくなったら——そのときは本当に終わりだ」
右手の案内状を、二人の間のテーブルに、ぱん、と叩きつけた。紙が乾いた音を立てて広がる。「剣術基礎」の文字が上を向いていた。
「技術がある。型がある。それを教える場所がある。なら行く。男だろうが女だろうが、関係ない。私に足りないのは、そこにあるものだ」
声が上擦りかけた。喉の奥から、熱いものが込み上げている。興奮だった。純粋な、剥き出しの闘志だった。
——ああ、そうだ。
この熱を、忘れていた。
最強だった頃は、毎日これが燃えていた。戦う理由も、守る相手もなく、ただ強さだけを追いかけて——孤独に、しかし全力で。
今は違う。
守りたいものがある。返すべき恩がある。そしてそのために、足りないものが何かを知っている。
あの頃の自分は、何も知らなかった。強さ以外のすべてを。
今の自分は、弱さを知っている。だからこそ——技術が要る。
「……よろしい」
クラリスの声が聞こえた。静かな、しかし確かな響きだった。
レオナが振り向くと、クラリスはまっすぐにこちらを見ていた。その視線の中に、何かが揺れた。計算でも観察でもない、もっと柔らかい何か。だがそれは一瞬で——クラリスの目元が、いつもの落ち着きに戻った。
「入学の手続きは、こちらで進めます。あなたは身体を整えて、準備をしてください」
「準備って何だ」
「最低限の礼法と、着替えの用意です。学校に包帯の足のまま乗り込まれると、私の体面に関わります」
レオナは自分の足元を見下ろした。包帯の上から、花壇で踏んだ泥がまだらにこびりついている。食堂に入る前に足を拭いたはずだが、拭ききれていなかった。
「……靴は買ってもらえるのか」
「支給します。壊さないでください」
「壊さない」
「あなたは三日前に、花壇の柵を踏み折っています」
「あれは——柵の方が弱かった」
クラリスの眉が、ほんの僅かに上がった。
レオナは視線を逸らした。逸らした先に、テーブルの上の案内状があった。
叩きつけたまま広がった紙の上に、午後の光が落ちている。
剣術基礎。
その三文字が、光の中で熱を持っているような気がした。
*
レオナが応接間を出て行った後、クラリスはしばらく窓の外を眺めていた。
庭の向こうに、花壇が見える。東半分の土が綺麗に均されていた。あの不器用な手で、毎日少しずつ。苗と雑草の区別もつかなかった人間が、今では根の張り方で見分けている。
——あの笑みだった。
クラリスは、自分の手元に視線を戻した。指先が、僅かに冷たい。
レオナが浮かべた笑み。あれを見たのは初めてだ。あの少女の顔に、あの種類の——恐れを知らない、獣じみた不敵さが浮かぶのを。
これまでのレオナは、痛みに耐え、屈辱を噛み殺し、時に泣き、時に怒り、時に黙り込んだ。だが、笑ったことはなかった。あの種類の笑い方は。
何を見てきた人間が、ああいう笑い方を覚えるのか。
クラリスは首を振り、書斎へ向かった。
*
書斎の机には、便箋と封蝋の道具が並べてあった。
クラリスは椅子に座り、ペンを取った。
宛先は総合学校の教務主任。文面は事前に組み立ててある。侯爵家の後援による入学願書の添え状。形式は整っている。問題は——その中に、どこまで書くかだった。
ペン先が便箋に触れた。
*
『拝啓
時下ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。
このたび、アークライト侯爵家の後援により、一名の生徒を貴校の実技課程——特に剣術基礎へ入学させたく、ご高配をお願い申し上げます。
当該の者は、魔力を持ちません。
この一点のみをもって、貴校が受け入れを躊躇されることは承知しております。しかしながら、私が彼女を推挙する理由は、まさにその一点にあります。
魔力に依存しない戦闘技術の可能性を、私は検証したいと考えております。これは学術的関心であると同時に、侯爵家として今後の脅威に備えるための実務的判断でもあります。
詳細は別紙の経歴書に記しましたが、一つだけ申し添えます。
この者は、命を懸けて私を守りました。理由を聞いても「借りを返しただけだ」としか言いません。
損得ではない場所で動ける人間を、私は他に知りません。
ご査収のほど、よろしくお願い申し上げます。
敬具
クラリス・アークライト 』
*
ペンを置いた。
最後の二行は、本来なら要らない。推薦状に個人の感情を混ぜるのは、貴族の文書作法としては美しくない。
だが、消さなかった。
クラリスは便箋を折り、封筒に入れた。封蝋を溶かし、侯爵家の印章を押した。赤い蝋が固まるまでの数秒間、指先が印章の上に留まっていた。
——投資。
そう言った。レオナにも、自分自身にも。
嘘ではない。教団の動きが加速している以上、魔力に頼らない戦力は確保すべきだ。レオナの特異体質は、教団の常識が通じない「例外」として機能し得る。兄を——
指先に力が入った。
封蝋の上の印章が、僅かに傾いだ。
クラリスは静かに手を離し、封筒を確認した。印は少しだけ歪んでいた。押し直すほどではない。だが完璧でもない。
それでいい、と思った。
完璧な計算だけで動いていた頃の自分なら、押し直していた。
使用人を呼び、封書を託した。学校への届けは、明朝の便に載せる手筈になっている。
使用人の足音が廊下の角を曲がり、消えた。封蝋の赤い色だけが、指先の記憶に残っていた。
*
それから、数日が過ぎた。
教官室の窓は西向きで、午後になると西日が容赦なく入り込む。夏場は蒸し風呂になるこの部屋を、誰も好んで使いたがらない。だから彼女の部屋になった。もう何年も前の話だ。
女は机に向かい、書類を読んでいた。
広げられた便箋と経歴書。その脇に、封を切られた封筒が一通。アークライト侯爵家の紋章入りだった。
二度、通読した。
一度目は事務的に。二度目は、末尾の二行で手が止まった。
——「この者は、命を懸けて私を守りました」。
——「損得ではない場所で動ける人間を、私は他に知りません」。
侯爵家の令嬢が、入学の添え状という公文書にこういう文を入れる。形式から逸脱していることを、書いた本人が分からないはずがない。分かった上で残したということは、完璧に整えられた文面の中で、ここだけが剥き出しの感情で書かれている。
女は添え状を机に置き、経歴書の方に目を戻した。
——魔力、なし。
冒頭に、それがある。
出自は不明。侯爵家の保護下に入った経緯は「負傷した状態で発見された」とだけ。年齢は十代後半。性別は女。
魔力なし。女。出自不明。剣術基礎を希望。
女は、書類から顔を上げた。窓の外を見た。
校庭では、剣術基礎の生徒たちが午後の訓練を終えて引き上げていく。木剣を肩に担ぐ者、仲間と笑い合う者、素振りの疲れで首を回す者。全員が体格の良い男子だった。
あの中に、この子が入る。
何が起きるかは、想像がつく。想像というより、記憶だった。
——最初の一週間で名前を覚えてもらえない。口を利いてもらえるようになるのは、運が良くて一月後。組み手の相手は見つからない。見つかったとしても、手加減されるか、逆に必要以上に力を入れられるか、どちらかだ。怪我をしても「だから女は」と言われる。怪我をさせても「だから女は」と言われる。何をしても、最初に来る評価は「女なのに」で、最後に残る評価も「女だから」になる。
それは推測ではなかった。
女は視線を窓から書類に戻した。経歴書の余白に、自分の爪の跡が薄く残っていることに気づき、ゆっくりと指を開いた。
——侯爵家の後援。
それがあるだけ、まだましだ。政治的な盾がある。門前払いにはできない。教務主任も無下には扱えない。
だが盾は、訓練場の中までは届かない。木剣を握った瞬間から先は、後援の紋章など何の意味もなくなる。そこから先は、本人の身体と意志だけの世界だ。
魔力がない。これが一番重い。
体格と腕力に勝る男たちを、間合いの操作と緻密な剣の軌道だけで手玉に取る女の剣術は、学内でも「並ではない」と畏怖されている。だが、そんな彼女であっても魔力の補助を前提としている。筋力の底上げ、反応速度のわずかな加速、刃筋を通すときの集中力の補正——どれも微量だが、ないのと、あるのとでは次元が違う。
人間だろうがその辺の獣だろうが、生きとし生ける者は皆、程度の差こそあれ魔力を持っている。それがこの世界の理だ。当然、学校の訓練もその大前提の上に組まれている。
魔力が完全にゼロなら、全てを純粋な肉体の機能と技術だけで埋めなければならない。
それがどれほど過酷かは、知っている。完全にゼロの立場ではないが、少ないほうだから。足りない分を、何で補ってきたかは——自分の身体が骨の髄まで覚えている。
脇の封筒を手に取った。封を切った跡の下に、赤い封蝋が残っている。侯爵家の印章。その縁が、ほんの少しだけ歪んでいた。
完璧な文面を書く人間が、最後の封だけ少し崩す。
急いでいたのか、迷いがあったのか。どちらにしても——この令嬢は、この案件を冷徹な事務として処理しきれなかった。あの二行の文面が示す通り、特別な感情を抱いている。それだけは確かだった。
書類を揃え、引き出しにしまった。入学手続きは通す。侯爵家の後援がある以上、断る理由もない。
あとは——来たときに見ればいい。
女は椅子から立ち上がり、窓の格子越しに校庭を見下ろした。
もう誰もいない訓練場だった。夕陽が地面を赤く染めて、木剣の立てかけられた架台の影が長く伸びている。
——ずいぶん、面倒な場所に来る子だ。
声には出さなかった。ただ、そう思った。
西日が、もう少しだけ傾いた。教官室の壁に這い上がっていた赤い光が、ゆっくりと引いていく。
女は窓を閉めた。




