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礼装のレオナ〜最弱へと転落した最強の男が、真の強さを知るまで〜  作者: 今井 幻


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第20話「雨葬」

 雨が降っていた。


 窓の外の闇を、太い雨粒が叩いている。途切れない水音が硝子を震わせ、部屋の中にまで湿った空気が滲んでいた。


 レオナは寝台の上に座っていた。膝を立て、背を壁に預けている。仕立てたばかりの寝巻きは以前のものより身体に合っていて、肩や袖口がずり落ちることはなくなった。それだけのことが、妙に落ち着かない。合う服があるということは、この身体を認めたということだ。


 卓の上のランプが、低い炎で部屋を照らしている。壁に映る影はひとつだけだった。


 日中は花壇にいた。手袋を嵌めて東側の雑草を抜いた。手袋があると掌は守られるが、その分、根を掴む感触が遠くなる。力の加減が分からず、何度も手袋ごと滑った。護衛の一人が通りがかりに水を置いていった。名前は知らない。ただ水を置いて、何も言わずに去った。


 そういう日々が、数日続いていた。


 花壇の雑草を抜く。手袋を外す。掌を洗う。飯を食う。部屋に戻る。眠る。翌朝また庭に出る。壊すものがない仕事だった。誰の邪魔にもならない。誰の役にも立たない——いや、クラリスは「助かる」と言った。あの花壇は、あの女にとって大事な場所だ。だから任されたのだろう。借りの帳簿に、また一行が加わる。


 雨音が強くなった。風が窓枠を揺らし、炎が一度だけ傾いた。


 そのとき、視線が自分の腕に落ちた。


 寝巻きの袖が肘のあたりまで捲れていた。ランプの灯りが、露出した前腕を淡く照らしている。


 ——細い。


 白い。筋の一本も浮いていない。手首から肘にかけて、骨の輪郭がうっすらと見える。皮膚の下に脂肪と骨だけがあって、その間に筋肉と呼べるものがほとんどない。


 この腕を、じっと見た。


 ランプの炎が揺れるたびに、影が腕の上を滑る。その影が動くたびに、腕の細さが別の角度から確認される。内側。外側。手首の骨の突起。肘の窪み。


 知っている腕ではなかった。


 あの腕は太かった。前腕だけで、今のこの太腿ほどの太さがあった。腱が浮き、血管が走り、握り締めれば岩を砕く力がそこにあった。大剣の柄を掴めば柄が軋んだ。盾を叩けば盾が歪んだ。素手で人間を持ち上げられた。素手で魔獣の顎を押し返した。


 それは、身体がまだ覚えていた。


 指に力を入れた。握った。右手を、ゆっくりと握り締めた。


 何も起きなかった。


 爪が掌に食い込んだだけだった。瘡蓋になりかけた皮膚が突っ張って、鈍い痛みが走った。力を込めても、前腕に浮かぶ筋は糸のように細い。腱も、血管も、あの頃の面影を一筋も残していない。


 左手も握った。同じだった。甲の白い裂傷痕だけが、かつての自分と今の自分を繋いでいる唯一の線だった。それ以外は——何もない。


 剣だこがあった場所を、右手の指先で触れた。薄い瘡蓋の下の、柔らかい掌。指の付け根に、硬さの欠片もない。


 大剣を握れた手ではない。


 この手で、何を握る。


 雨音が、遠くなった。窓の外で叩いていた音が、膜を一枚隔てたように曇った。部屋の中の空気が、急に重くなった。ランプの炎が揺れているはずだが、視界の端でしか捉えられない。


 腕を見ていた。細く、白い腕を。


 この腕で大剣は振れない。


 もう、二度と。


 その事実は、知っていた。身体が変わった最初の日から知っていた。リムルの路地裏で知った。オランの傭兵の言葉で知った。ゴブリンに追われて知った。荷運びで知った。細剣を握って知った。ナイフが砕けて知った。草を抜いて血を流して知った。


 知っていた。ずっと知っていた。


 なのに。


 喉の奥が、塞がった。


 それは詰まるという感覚ではなかった。喉の内壁が内側から膨らむように狭まり、空気の通り道が、ゆっくりと、しかし確実に閉じていく。息を吸おうとした。吸えた。だが吐けなかった。吐こうとすると、喉の奥から別のものがせり上がってくる。声なのか、嘔吐なのか、分からない何かが。


 目が熱くなった。


 泣くのか、と思った。また泣くのか。何度目だ。この身体になってから、何度こうなった。リムルの安宿で。オランの裏通りで。野盗に組み伏せられた夜に。


 だがこの夜の涙は、あの時とは違うものだった。


 惨めさではなかった。屈辱でもなかった。「こんなはずじゃない」という否認でもなかった。


 否認するものが、もう残っていなかった。


 レオン・ローゼンフェルトは死んだ。


 大剣を片手で振るい、魔獣の群れを単身でねじ伏せ、誰の助けも要らず、誰にも頼らず、誰にも必要とされないまま最強であり続けた男は——もういない。


 知っていた。


 ずっと知っていた。


 だが知っていることと、骨の髄まで理解することは違う。


 頭が知っていても、身体がまだ覚えている限り、否認は続けられる。あの重さを、あの速度を、あの握力を、身体が記憶している限り、「いつか戻れる」という嘘を自分に吐き続けることができる。


 だが剣だこは消えた。


 掌から。指から。手の平のすべてから。


 あの戦場で刻まれ、何百回もの素振りで磨かれ、何千回もの実戦で固められた——あの手の記憶が、この柔らかい皮膚の下に、一片も残っていない。


 身体が、忘れ始めていた。


 大剣の重さを。柄が掌に吸いつく感触を。振り下ろした瞬間に全身の筋肉が連動する、あの一体感を。


 忘れ始めている。


 この華奢な腕の中に、もうあの記憶を留めておく場所がない。筋肉がない。腱がない。骨格が違う。身長が違う。体重が違う。何もかもが違う。


 あの男の身体は、もうどこにもない。


 呼吸が崩れた。


 吸って、吐く。そのただの動作が、制御できなくなった。吸う間隔が短くなり、吐く前に次の吸気が来る。肩が上下する。背中が壁から離れ、前に丸まる。膝を抱えた腕が震えている。


 声は出さなかった。


 出せなかった、ではない。出さなかった。歯を食いしばり、唇を噛み、喉の奥で何かを押し殺した。声を出したら、この部屋の外に漏れる。この屋敷の誰かに聞かれる。護衛に。使用人に。クラリスに。


 ——聞かれてたまるか。


 だが身体は従わなかった。


 肩が震えた。最初は細かく。やがて大きく。膝を抱えた手の指が白くなるほど力を込めても、震えは止まらなかった。呼吸が短く途切れ、その合間に、喉の奥から漏れる音があった。嗚咽とも呻きともつかない、押し潰された音。


 目から落ちたものが、寝巻きの膝に染みを作った。


 一滴。二滴。止まらなかった。


 歯の間から息が漏れた。小さな、壊れた音だった。


 雨が窓を叩いている。強い雨だった。風が吹くたびに窓枠が軋み、水の幕が硝子を覆い、外の闇を完全に塞いでいた。


 その雨音が、いくらかの慈悲だった。


 声を殺し損ねた分を、雨が埋めてくれていた。喉から漏れる音が、水の音に紛れて溶ける。誰にも届かない。この厚い雨の壁の向こうには、誰もいない。


 そう思った。


 だから、少しだけ、力を抜いた。


 歯を食いしばるのをやめた。唇を噛むのをやめた。喉の奥を押さえつけていた力を、ほんの少しだけ、緩めた。


 声が漏れた。


 自分の声だと、すぐには分からなかった。高く、細く、掠れて途切れる音。男の声ではなかった。戦場で怒号を上げたあの喉から出た音ではなかった。少女の、壊れかけた声だった。


 その声を聞いて、また泣いた。


 声も違う。喉も違う。この身体のどこにも、レオン・ローゼンフェルトは残っていない。


 左手の甲の、白い傷だけだ。


 少年の頃に自分で刻んだ、あの忌まわしい痕だけが、自分が自分であることの唯一の証で。


 それだけが残って、他の全部が消えた。


 膝に額を押し付けた。両腕で膝を抱え込み、身体を丸めた。小さな身体が、寝台の上でさらに小さくなった。


 泣いていた。声を殺し切れずに、雨音に縋りながら、泣いていた。


 雨よ、降れ。


 もっと強く。もっと激しく。この声が溶けて消えるまで。


 誰にも聞かれないまま、この夜を過ぎさせてくれ。


  *


  *




 廊下は暗かった。


 壁燭台の炎は夜半を過ぎて小さくなり、石壁に落ちる光の輪も狭まっている。雨の音が屋敷全体を覆っていた。窓のない廊下にも、外壁を伝う水の音が染み込んでいる。


 クラリスは足音を殺して歩いていた。


 眠れなかった。理由は特定しなかった。特定すると、それに名前がつく。名前がつくと、対処を考えなければならなくなる。今夜はただ、眠れないから廊下を歩いている。それで十分だった。


 レオナの部屋の前を通りかかったのは、順路だったからだ。


 足が止まったのは、理由があったからではない。


 ——音が、した。


 雨音の中に。分厚い雨の幕を透かして、壁と扉を通して、それでも消えきれなかった何かが、鼓膜に触れた。


 声ではない。声と呼ぶには小さすぎた。呼吸が崩れる音。喉の奥で何かが押し潰される音。寝巻きの布が擦れる音。


 人が泣いている音だった。


 声を殺して。懸命に殺して。それでも溢れている。


 クラリスの足が、石の床に縫い止められた。


 右手が、無意識に扉の取っ手へ伸びた。


 ここで扉を開ける。それは彼女にとって、息を吸うのと同じくらい自然な行為だった。相手の状態を確認する。何が起きているかを把握する。対処が必要かを判断する。必要なら手を差し伸べ、不要なら記録して退く。


 それがクラリス・アークライトという人間の、基本の構造だった。


 指先が、金属の取っ手に触れた。冷たかった。深夜の冷気を吸った金属が、指の熱を奪う。


 扉一枚の向こうで、呼吸が震えている。


 開ければ見える。あの少女が——あの不器用で、頑固で、借りの計算ばかりして、誰にも弱味を見せまいと歯を食いしばっている少女が——今どんな顔をしているのか。


 見たかった。


 その衝動が、喉元まで来ていた。見たい。確かめたい。状態を把握したい。必要なら手を。


 ——必要なら。


 指が、止まった。


 取っ手を掴む直前で。


 雨音が廊下を埋めていた。扉の向こうから漏れる音は、もうほとんど聞こえない。雨が隠してくれている。あの子の声を。あの子の涙を。あの子が誰にも見せたくないものを。


 雨が隠しているものを、この扉を開けて暴くのか。


 クラリスの手が、取っ手から離れた。


 指先に、金属の冷たさだけが残った。


 立っていた。廊下の暗がりに。扉の前に。


 中からは、もう何も聞こえなかった。雨がすべてを呑み込んでいる。


 だが、いる。


 扉一枚の向こうに、あの子がいる。泣いている。一人で。声を殺して。雨に縋って。


 見ない。


 見ないことを選ぶ。


 この扉を開けたら、あの子は二度とこの部屋で泣けなくなる。泣いているところを見られた、という事実が、あの子の中に刺さる。借りが増える。恥が増える。歯を食いしばる理由がまた一つ積み上がる。


 あの子は、泣いているところを誰かに見られるくらいなら、泣くこと自体をやめる人間だ。


 だから——見ない。


 クラリスは壁に背を預けた。石壁は冷たかった。薄い室内着越しに、背中から体温が抜けていく。


 そのまま、ゆっくりと、壁に沿って身体を滑らせた。


 床に座った。扉の横に。膝を揃え、背を壁に預け、両手を膝の上に置いた。


 雨音が降っている。


 廊下を覆い尽くすほどの雨音が。


 目を閉じた。


 何も見ない。何も確認しない。何も対処しない。


 ただ、ここにいる。


 この扉の向こうで泣いている人間が、一人きりではないということを——知らせるためではなく。知らせたら意味がなくなるから。


 ただ、自分がここにいたいから。


 雨音を聴いた。窓のない廊下で、壁を通して響く水の音を。レオナが聴いているのと同じ雨を。同じ夜を。


 同じ場所の、反対側で。


  *


  *




 どれだけの時間が経ったのか、分からなかった。


 雨音は変わらず続いていた。だが窓を叩く勢いは少しずつ弱まっている。風が止んだのか、雨粒が小さくなったのか。さっきまで硝子を殴りつけていた音が、今は硝子を撫でるような音に変わっていた。


 レオナは同じ姿勢のままだった。膝を抱え、額を膝に押し付けて丸まっている。涙は止まっていた。正確には、枯れていた。もう出るものがなかった。喉の奥はひりついて、呼吸のたびに乾いた痛みが走った。


 目を開けた。


 寝巻きの膝は濡れていた。涙の染みが、生地を暗く変色させている。


 その暗い染みの向こうに、自分の腕があった。


 細く、白い腕。


 もう一度、それを見た。


 さっきまで、この腕は失ったものの証だった。大剣を振れない腕。魔獣をねじ伏せられない腕。孤高の戦士の腕ではない腕。


 今も、それは変わっていない。


 だが——涙を流し尽くした後では、その事実の触り心地が、少しだけ違っていた。


 刃物で抉られるような痛みではなく。


 古い傷の、鈍い疼きに近い。


 まだ痛い。まだ重い。だが、叫ばずにはいられないほどの鋭さは、いくらか削がれていた。


 レオン・ローゼンフェルトは死んだ。


 その事実を、もう一度、胸の中で確かめた。否認しなかった。否認する力が残っていないのではない。否認する必要を、今この瞬間だけは、感じなかった。


 死んだものは、戻らない。


 戦場で何度も見てきたことだ。


 ランプの炎が小さくなっていた。油が少なくなっている。光の輪が縮み、部屋の隅が闇に沈んでいく。


 雨は、まだ降っている。だが音はさらに細くなった。叩く音から、流れる音に変わりつつある。


 身体が重かった。泣いた後の、空っぽの重さ。中身を全部絞り出した後に残る、からっぽの器の重さだった。


 横になった。寝台の上で、そのまま横に倒れた。枕に頭を乗せる余裕はなかった。ただ、丸まったまま、横向きに崩れ落ちた。


 目が閉じかけた。


 寝巻きの袖の間から、左手の甲が見えた。白い裂傷痕。ランプの残りの灯りが、その線をうっすらと照らしている。


 ——まだ、ある。


 これだけは、まだある。


 思考はそこで途切れた。


 雨音が、子守歌のように細く、長く、続いていた。


  *


 雨が止んだのは、空が白み始める直前だった。


 窓の向こうの闇が、ほんのわずかに薄くなっている。雨粒の音は消え、軒先から落ちる雫の音だけが、不規則に響いていた。


 レオナは眠っていた。


 寝台の上で、膝を軽く曲げたまま横たわっている。寝巻きの膝には涙の染みが残っている。左手は胸の前で軽く握られ、甲の白い裂傷痕が朝の薄明に浮かんでいた。


 顔は穏やかだった。


 眉間の皺がなかった。唇を噛み締めた痕もなかった。泣き腫らした目の周りは赤く、瞼は重たそうに閉じているが、そこにあの張り詰めた険はなかった。


 胸の奥にこびりついていた何か——孤高と呼んでいたもの、誇りと呼んでいたもの、執着と呼ぶしかなかったもの——の厚みが、ほんのわずかだけ、薄くなっていた。


 全部が剥がれたわけではない。全部が消えたわけではない。


 だが、一枚。


 昨夜の涙が、一枚だけ剥がしていった。


 ランプの炎は、いつの間にか消えていた。油が尽きたのだろう。部屋の中は、窓から入る薄明だけが満たしている。雨上がりの空気は冷たく、湿って、清んでいた。


 廊下では——


 扉の横の壁に背を預けていたクラリスが、音を立てずに立ち上がっていた。


 膝を伸ばし、衣服の皺を両手で軽く押さえた。長く座っていたせいで、室内着の背中に壁の冷たさが移っている。


 扉を見た。一度だけ。


 中からは何も聞こえない。雨が止んで、廊下は静かだった。


 開けなかった。


 最後まで、開けなかった。


 クラリスは廊下を歩き始めた。壁燭台の炎はとうに消えて、薄明だけが石壁を照らしている。足音を殺したまま、自分の部屋へ戻っていく。


 誰にも会わなかった。誰にも見られなかった。


 レオナは知らない。


 一晩中、扉の向こうに人がいたことを。


 同じ雨を聴いていた人間が、壁一枚の反対側にいたことを。


 知らないまま、穏やかに眠っている。


 雨上がりの朝が、窓の向こうで静かに明けていった。

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