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礼装のレオナ〜最弱へと転落した最強の男が、真の強さを知るまで〜  作者: 今井 幻


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第19話「土の匂い」

 クラリスの手は冷たかった。


 中庭の石畳を歩きながら、レオナはそのことだけを妙にはっきり感じていた。細い指が右手に触れている感触。体温が低いのか、それとも自分の掌が火照っているのか。判別がつかないまま、半歩先を歩くクラリスの背中を見ていた。


 淡い色のスカートの裾が、歩くたびに揺れる。足音は静かだった。石畳の上をほとんど音を立てずに歩く。所作というのはこういうことだ、とレオナは思った。自分がさっき同じ石畳を歩いたとき、寝巻きの裾を踏んで燭台を壊した。同じ地面を踏んでいるとは思えない。


「遠いのか」


「すぐそこです」


 クラリスは振り返らなかった。生け垣の角を曲がった。レオナは引かれるまま続いた。足裏の包帯越しに、日向から日陰へ移ったときの温度差が伝わった。石畳が途切れ、足の下が柔らかくなった。芝だ。


 生け垣が左右から迫り、通路のように狭まった。頭上を枝葉が覆い、木漏れ日がまだらに落ちている。二人がすれ違えるかどうかという幅を、クラリスは迷いなく進んだ。


 十歩ほどで、視界が開けた。


 小さな空間だった。生け垣と低い石の縁に囲まれた、四方を閉じた庭——いや、花壇だ。中央に長方形の土が剥き出しになっていて、その周囲を白い小花が縁取っている。奥に一本だけ、背の低い樹がある。葉は青く、幹は細い。花壇の土は最近誰かが入れ替えたように黒く、湿っていた。


 だが花壇の端々には、雑草が伸びていた。蔓性のものが石の縁を這い、名前の分からない草が土の隙間から芽を出している。小花の株元にも、細い葉が侵食を始めていた。


 手入れが追いついていない。それも、かなり長い間。


 クラリスの足が止まった。レオナの手を離した。向き直ったとき、午後の光が彼女の顔に当たった。


「ここが、あなたにお願いしたい場所です」


 レオナは花壇を見た。それからクラリスを見た。


「——草むしり」


「ええ」


「庭師がいるだろう」


「ここには入れていません」


 クラリスの声は平坦だった。説明する口調でも、弁解する口調でもなかった。事実を置いただけの声。


「庭師も、使用人も。ここの手入れは私だけがしていました」


 レオナは花壇をもう一度見た。雑草の繁り具合を見れば、最後に手が入ったのは数週間——いや、もっと前かもしれない。クラリスの手がここに届かなくなるほど、何かが彼女の時間を奪っていた。


 訊くな、とレオナの中の何かが言った。


 訊けば、この女は答えるだろう。合理的な理由を並べて、本当のことは一つも言わないまま、完璧な説明をするだろう。それが分かっていたから、訊く意味がなかった。


「私にしかできない仕事、というのは」


「他の誰にも触らせたくない場所の手入れを、あなたに頼みたいということです」


 クラリスは微笑んだ。穏やかで、完成された笑み。だがその完成度が、逆に何かを隠していた。笑顔の精度が高すぎる。


「皿を割る心配もありませんし、花瓶もありません。シーツも燭台もない。土と草だけです。どうですか」


「……馬鹿にしてるのか」


「少しだけ」


 悪びれもしない。レオナは唇を引き結んだ。だが——反論する材料がなかった。皿は割った。花瓶は倒した。シーツは裂いた。燭台は壊した。全部事実だ。


 土と草なら、壊すものがない。


 壊すものがない場所を選んで寄越した。それはたぶん、この女なりの——


「分かった」


 言い切った。考えるのをやめた。考えると、この女の善意に名前をつけなければならなくなる。名前をつけると、借りの帳簿がまた一行増える。


「やる。任せろ」


「ありがとう。道具は——」


「要らない」


 レオナは花壇の縁の石に片足を乗せた。寝巻きの裾を膝の上で結んだ。素足の包帯が土に触れた。


「草を抜くだけだろう。手でやれる」


 クラリスが何か言いかけた。口を開き、閉じ、それからわずかに首を傾げた。


「……そう。では、お任せしますね」


 背を向けて、生け垣の通路を戻っていく。途中で一度だけ振り返った気配があった。レオナは見なかった。もう花壇の土に手を突っ込んでいた。


  *


 草は、想像よりも手強かった。


 最初の一本を掴んだとき、レオナは軽く引けば抜けると思っていた。地面から数寸ほど伸びた細い葉。見た目だけなら、指先でつまんで引き上げれば済む。


 抜けなかった。


 根が深い。茎を掴んで引いたが、途中でぷつりと切れた。地表部だけがちぎれて手に残り、根はまだ土の中にいる。


「……」


 レオナは茎の切れ端を見下ろした。それから土を見た。何も起きていない。草は平然と、切れた断面から地面に居座っている。


 次は根元を掴んだ。指を土に差し込み、根の付け根に触れてから引く。力を入れた。肩に力が入った。腰を落とし、両手で一本の草の根元を掴み、真上に引いた。


 ずるり、と抜けた。


 根は思いのほか長かった。白い髭のような根が土を噛んでいて、抜いた瞬間に黒い土がぼろぼろとこぼれた。レオナの顔に土の粒が飛んだ。頬についた泥を、手の甲で拭った。手の甲にも土がついていたので、泥を泥で塗り広げただけだった。


 一本。


 花壇の端から端まで見渡した。雑草は、少なく見積もっても百を超えている。


「……上等だ」


 誰に言うでもなく呟いて、レオナは次の草に手を伸ばした。


 午後の陽射しが背中を焼いた。寝巻きの生地が汗を吸い、肩や背中に貼りついた。膝をついて土に向かい、一本ずつ根元を探って抜いていく。蔓性の草は石の縁に絡みついていて、引きはがすのに両手が要った。石の角で指の腹を擦った。爪の間に土が入り込んだ。


 途中で、特に根の深い一株に当たった。


 茎が太く、地表に四方へ匍匐枝を伸ばしている。根元を掴んでも動かない。両手で掴み直し、腰を入れ、足を踏ん張った。包帯の足裏が湿った土の上で滑った。


 体勢を立て直し、今度は片膝を石の縁にかけて支点にした。呼吸を吐ききったところで、一気に引く。


 根が動いた——と同時に、泥が跳ねた。


 胸元から顔まで、黒い飛沫が散った。口に土の味がした。草は抜けた。根の先に拳大の土の塊がついていて、それが崩れながらレオナの寝巻きの前を汚した。


 両手に草を握ったまま、レオナは自分を見下ろした。寝巻きの白い生地に泥のまだら。膝から下は最初からもう土色だった。顔は——頬を触った感触から察するに、ひどいことになっている。


 戦場で血を浴びたことは何度もあった。泥に塗れたこともある。だがあの頃は、泥の中でも立っていられた。


 今は草一本に尻餅をつきかけている。


 笑えない、と思いながら、口の端が引きつった。笑えないのに、何かが喉の奥で引っかかっている。


 黙って次の草に手を伸ばした。


  *


 陽が傾き始めたころ、花壇の西半分はおおむね片づいていた。


 雑草の山が石の縁の外側に積み上がっている。大きいもの、小さいもの、蔓の絡まったもの。レオナはそれを数えなかった。数えても仕方がない。まだ東半分が残っている。


 だが手が——止まった。


 次の草を掴もうとして、指が動かなかった。正確には、動くが、掴む力が入らない。


 レオナは自分の掌を開いた。


 赤かった。


 指の付け根から掌の中央にかけて、皮膚が擦り切れていた。草の茎や根を握り続けたせいで、薄い皮が剥け、下の肉が露出している箇所がある。血が滲んで、土と混じり、掌全体が赤黒く汚れていた。右手も左手も、同じだった。


 痛みは——あった。じくじくと、鈍く。だが作業に集中している間は気づかなかった。気づかないふりをしていたのかもしれない。どちらでも同じことだ。手を止めた瞬間に、痛みが遅れて追いついてきた。


 レオナは掌を見つめた。


 血の滲んだ手のひら。細い指。白く、柔らかく、何の厚みもない皮膚。


 ——違う。


 この手は、違う。


 かつてのレオンの掌には、剣だこがあった。大剣の柄を何万回と握り続けて出来た、分厚い角質の層。掌の中央から指の付け根にかけてを覆う硬い皮膚。それは醜いものだった。女の手が好む柔らかさの対極にあるもの。だがあの硬さがあれば、草の茎ごときで血は出なかった。岩を握っても痛まなかった。荒縄を素手で引いても、刃を掌で受けても——あの皮膚は破れなかった。


 今は、ない。


 剣だこは消えていた。変貌のときに、筋肉も、骨格も、背丈も、声も、すべてが奪われた。掌の硬さも例外ではなかった。残ったのは、何も積み重ねていない少女の手だ。草を抜いただけで擦り切れる、薄い掌。


 左手の甲に目が行った。白い裂傷痕。少年のときに自分で刻んだ傷だけが、この身体に残っている。それ以外の、戦場で積んだすべての痕跡が——消えた。


 レオナは拳を握ろうとした。血が滲んだ掌が圧迫され、鋭い痛みが走った。握りきれなかった。指が途中で止まった。


 夕陽が花壇を染めていた。赤い光が土を、雑草の山を、レオナの泥だらけの寝巻きを照らしていた。


 背の低い樹の影が、花壇の端まで伸びていた。


  *


 足音が聞こえた。


 生け垣の通路を来る、静かな足音。石畳から芝に変わるところで、音の質が変わった。レオナは掌を膝の上に伏せた。血を隠すように、指を丸めた。


 クラリスが通路から現れた。


 片手に木の桶を持っていた。もう片方の手に、小さな革の箱と白い布を抱えている。


 レオナの姿を見て、足が止まった。


 泥だらけの寝巻き。顔についた土のまだら。膝と脛は茶色く染まっている。石の縁の外に積み上がった雑草の山。そして——膝の上で丸められた、レオナの手。


 クラリスは何も言わなかった。


 桶を地面に置いた。革の箱と布をその隣に並べた。レオナの前にしゃがんだ。スカートの裾が芝の上に広がった。


「手を」


 短い声。命令でも依頼でもない、ただの事実確認に近い響き。


「……別に」


「手を、見せてください」


 レオナは動かなかった。クラリスの視線が、膝の上の拳を見ていた。血が指の隙間から覗いている。隠しきれていないことは、分かっていた。


 数秒の沈黙があった。


 レオナは指を開いた。掌を上に向けた。


 赤黒い掌がクラリスの目の前に晒された。擦り切れた皮膚、滲んだ血、土の汚れ。


 クラリスの視線が掌の上で止まった。


 表情は——変わらなかった。眉をひそめもしなければ、息を呑みもしなかった。ただ、視線の滞在時間が長かった。レオナの掌を見つめる目が、何かを確認しているように動いた。指の付け根。掌の中央。手首に近い部分。


 ——あの草地で、この女はレオナの手を見ていた。


 戦士の所作を見せる手だ、と。あのときクラリスが見ていたのは、レオナの手の動きに残る戦場の名残だった。


 今、同じ目が見ているのは、草を抜いただけで血を流す少女の掌だ。


 クラリスは桶に手を入れた。水を汲んだ布を絞った。絞った布を、レオナの右手の上に載せた。


「冷た——」


「少し我慢してください」


 水が掌に触れた瞬間、傷口が沁みた。だがクラリスの指は力加減を知っていた。布を掌の上で滑らせるのではなく、押し当てて離す動作を繰り返し、土と血を少しずつ浮かせて拭き取っていく。


 レオナは自分の手を見ていた。クラリスの白い指が、赤黒い掌の上で動いている。治癒魔法は使っていなかった。光も、魔力の気配もない。ただの水と布と、人の手だけだった。


 この女は治癒魔法の使い手だ。掌の擦り傷くらい、魔法で一息に治せるはずだ。背中の裂傷を塞いだ手だ。筋を繋ぎ直した手だ。


 なのに今、この女は——布を水に浸し、絞り、傷口を拭いている。


 右手が終わった。クラリスは布を桶で洗い、左手に移った。同じ手順。押し当てて、離して、汚れを浮かせて、拭く。


 革の箱を開けた。中から小さな壺と、薄い綿布の束が出てきた。壺の蓋を開けると、薬草の匂いがした。苦い、青臭い匂い。クラリスの指が壺の中身を少量すくい、レオナの掌に塗った。


 沁みた。歯の奥が軋んだ。だがレオナは手を引かなかった。


 クラリスの指が、傷の一つひとつをなぞるように薬を塗り込んでいく。擦り切れた皮膚の際に沿って、力を入れず、だが確実に。


 綿布を取り出した。掌に当て、手首のあたりから巻き始めた。布を引きすぎず、緩すぎず、一巻きごとに指の動きを確かめながら巻いていく。


 右手。左手。


 時間がかかっていた。治癒魔法なら一瞬で終わる処置を、クラリスは何分もかけて手で行っている。


 なぜ魔法を使わない——と、訊こうとした。


 訊けなかった。


 クラリスの指が、左手の巻き終わりを結んでいるとき、レオナはその指先を見ていた。白く細い指。爪は短く整えられていた。貴族の令嬢の手だ。


 ——だがその指の動きには、慣れがあった。


 薬の量を見極める指先。布を巻く手順。力加減。これは初めてではない。何度もやっている手つきだった。


 誰の傷を、この手で巻いてきたのか。


 問いが喉の奥に浮かんで、そのまま消えた。訊いてはいけないと思った。理由は分からなかった。ただ、この花壇の——誰も入れない花壇の手入れを、この女がたった一人で続けてきたのと同じ匂いが、この手当ての手つきにはあった。


 祈りに似た何か。


 失ったものに触れ続ける行為。


 クラリスが巻き終わった布の端を押さえ、手を離した。


「これで。明日には皮が落ち着くと思います」


「……」


「レオナさん?」


「なぜ」


 声が掠れた。喉が狭くなっていた。


「なぜ、魔法を使わなかった」


 クラリスは少し黙った。桶の水面に、夕陽の色が揺れていた。


「擦り傷ですから。治癒魔法を使うほどではありません」


 合理的な理由だった。完璧に筋が通っている。


 嘘だ、とレオナは思った。


 嘘だ。理由はそれではない。この女は嘘をつくとき、理由が完璧になる。綻びのない合理を並べて、本当のことを一つも言わない。


 だが——レオナにはそれを暴く言葉がなかった。


 この手当てが何だったのか。なぜ魔法の「結果」ではなく、手で触れる「行為」を選んだのか。その問いに正面から踏み込む言葉を、レオナは持っていなかった。


 持っていなかったが——掌は、覚えていた。


 布の温度。水の冷たさ。薬草の匂い。そしてクラリスの指が、一つひとつの傷をなぞった感触。


 生まれてから、一度もなかった。


 ローゼンフェルト家では、傷は自分で処理するものだった。戦場では、止血ができれば上等だった。誰かの手が自分の傷に触れるということ自体が、レオンの人生になかった。ましてや——痛まないように、丁寧に、時間をかけて。


 それは強さとは何の関係もない行為だった。戦えるようになるための処置ではなく、ただ、傷ついた掌を労うためだけの時間だった。


 目の奥が熱くなった。


 レオナは包帯の巻かれた両手を膝の上に置いた。視線を落とした。白い綿布に覆われた掌。その下に、剣だこのない、柔らかい手がある。


「……手間をかけた」


 それだけ言った。声が震えないように、喉の筋を固くした。


 クラリスは立ち上がった。スカートの裾についた芝を払った。桶と薬箱を拾い上げた。


「明日も、お願いしますね。東半分がまだ残っていますから」


「分かってる」


「手袋を用意しておきます」


「……最初から言え」


「最初に言ったら、使わなかったでしょう」


 返す言葉がなかった。


 クラリスは花壇を見た。西半分の、雑草が除かれた土。夕陽の中で、黒い土が赤く染まっている。白い小花が、縁に沿って揺れていた。


 その横顔を、レオナは見た。


 笑っていなかった。困った顔の皮も、穏やかな微笑みの仮面もなかった。花壇を見つめるクラリスの顔は——ただ、静かだった。


 静かで、どこか遠かった。


 ここにいるのに、ここではない場所を見ている目。今を見ているのに、別の時間を見ている目。


 この花壇は——この女にとって、ただの庭ではない。


 誰を想って植えた花なのか。何を失って、この場所を聖域にしたのか。レオナには分からなかった。分からなかったが、その視線の温度だけは——知っている気がした。


 自分にも、あった。


 失ったものを見つめる目。もう取り戻せないものの残像を、目の奥で追い続ける時間。剣だこの消えた掌を見つめていたとき、自分の目は——たぶん、同じ色をしていた。


 レオナは何も訊かなかった。


 訊かないことを、選んだ。


 クラリスが振り返った。一瞬だけ、視線が合った。レオナの目を見て、それから——ほんのわずかに、口元が緩んだ。笑みと呼ぶには小さすぎるもの。だが、あの完璧な微笑みとは違っていた。


「……戻りましょう。夕食の前にその泥を落とさないと、使用人が倒れます」


「これくらい——」


「レオナさん。鏡を見てから言ってください」


 言い返せなかった。顔の泥は、まだ乾いたまま張り付いている。


 レオナは立ち上がった。膝の泥を叩いたが、寝巻きの白は戻らなかった。仕方なく、クラリスの後について生け垣の通路を戻った。


 歩きながら、包帯に巻かれた掌をそっと握った。綿布の下で、薬草の匂いがまだ残っていた。


  *


 翌朝。


 空気がまだ冷たい時間に、レオナは庭に出ていた。


 昨夜のうちに泥を落とし、替えの寝巻きに着替えた。手の包帯はクラリスが巻いたまま、替えなかった。替える理由がなかった。


 中庭の石畳の上に立っていた。朝の光が低い角度で差し込み、石の表面を白く照らしている。息を吐くと、薄く白くなった。


 足音が近づいた。重い、だが安定した足音。革底が石畳を踏む音。


 護衛の男だった。朝の巡回だろう。鍛え抜かれた体躯に、簡素だが手入れの行き届いた装備。視線の配り方が訓練を通った人間のそれだった。


 男はレオナの前で足を止めた。


 視線が、レオナの両手に巻かれた包帯に落ちた。


「嬢ちゃん、手は大丈夫か」


 短い声だった。気遣いとも確認ともつかない、簡潔な言葉。だがその中に、値踏みや詮索の気配はなかった。


 レオナは包帯の巻かれた手を見下ろした。白い布の下に、まだじくじくとした痛みがある。草を抜いただけの手。剣だこのない、柔らかい掌。


 だがその包帯は、クラリスが巻いたものだった。


「——あぁ」


 声が出た。小さな声だった。掠れていたが、昨日までと少し違っていた。


 棘がなかった。


 虚勢も、反発も、借り貸しの計算もない。ただの返事だった。護衛の男に向けた、毒の抜けた一音だった。


 笑っていた、と気づいたのは、男が軽く頷いて歩き去った後だった。口元が、ほんの少しだけ、緩んでいた。

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