第17話「柔らかいもの」
最初に戻ってきたのは、匂いだった。
知らない匂いだ。焚き火の煙でも、泥でも、血でもない。甘くて、乾いていて、どこか粉っぽい。鼻の奥がむずむずした。
次に、背中の感触。
——柔らかい。
地面ではない。石でも、馬車の荷台でも、木の根が食い込む野営地の土でもない。身体が沈んでいる。背中全体を、何かが下から押し返している。均等に、どこにも硬い突起がなく、体重を受け止めている。
その異質さに、意識が浮上した。
目を開けた。
天井があった。白い。模様が刻まれている。蔦の葉と花を組み合わせた浮き彫りが、四隅から中央に向かって広がっている。焚き火の光ではなく、窓から差す午後の陽が、部屋全体を均一に明るくしていた。
知らない天井だった。
反射的に上体を起こそうとして——背中に鉄串を突き立てられたような痛みが走った。左の肩甲骨から背骨に向かって、三本の線を引くように。息が詰まり、身体が硬直した。
背中の裂傷。
亜種の爪。クラリスの前に立った。背中を向けた。その結果が、まだここに残っている。
痛みの質は変わっていた。あの夜の、肉を裂かれる生々しい熱さではない。深い場所で鈍く脈打つ、塞がりかけた傷の重さ。誰かが、この傷を治した。途中まで。
左腕を動かしてみた。肘から先は動く。だが肩を上げようとすると、背中の筋が悲鳴を上げて止まる。左手の指を握ったり開いたりした。力は弱いが、あの夜——クラリスの指を握り返そうとして、何も動かなかった瞬間よりは、ましだった。
右手でシーツを掴み、ゆっくりと身体を起こした。
部屋が広かった。
レオンとして暮らしたローゼンフェルト家の私室より、さらに広い。壁際に衣装棚。窓の下に書き物机。椅子の脚が獣の足の形をしている。暖炉には火が入っていないが、室温は十分に暖かい。ベッドは——自分が今いるこの場所は——大人が三人は横になれる大きさで、枕が二つ、掛け布が二枚、その下に毛布がもう一枚。
戦場の天幕にはない。野営地にはない。宿屋の藁束にもない。
ここは、アークライト侯爵家だ。
記憶を辿った。意識を失う直前——治癒の光。クラリスの目。名前を呼ぶ声。それ以降が、ない。ここまで誰がどうやって運んだのか、何日経ったのか、わからない。
寝巻きを着ていた。薄い生地で、肌触りが滑らかすぎる。自分の服ではない。鎧下チュニックは——背中が裂けていたはずだ。誰かがこれに着替えさせた。その事実が、腹の底に鉛を落とした。
自分では何もできなかった。
立ち上がった。足裏の包帯は新しいものに替えられている。膝の傷も、掌の擦り傷も、誰かが手入れした痕跡があった。全身に残る打撲の鈍い痛みは、以前より軽い。右脇腹を押さえてみると、まだ芯に響くが、呼吸が止まるほどではなくなっていた。
窓に近づいた。外を見た。
中庭が広がっていた。手入れされた芝生、石畳の小径、奥に生け垣。敷地の規模だけで、この家の財力が肌でわかる。護衛を何人も抱え、高位の治癒魔法使いを呼べる家。道端で倒れていた魔力ゼロの少女一人を生かすために、それだけの金を使える家。
——借りだ。
命の分の借り。治療の分の借り。この部屋の分の借り。寝巻きの分の借り。包帯を替えた分の借り。
返せるあてのない借りが、積み上がっている。
その重さが、柔らかいベッドの居心地の悪さよりも、ずっと深くのしかかった。
*
扉が控えめに叩かれたのは、窓際に立って間もなくだった。
「失礼いたします。お目覚めでしたか」
使用人の女性だった。年齢は三十前後に見える。髪をきちんと結い上げ、白いエプロンに皺ひとつない。レオナを見る目は——値踏みではなかった。仕事の対象を確認する、手慣れた視線。
「お加減はいかがですか。痛む箇所がおありでしたら、すぐに——」
「何日だ」
遮るつもりはなかった。声が勝手に出た。掠れていて、自分の耳にも聞き取りにくい。
「……三日でございます」
三日。丸三日間、意識がなかった。
「クラリス嬢様がお呼びくださった高位の治癒師が、到着された晩に施術を。その後は嬢様ご自身が——」
「わかった」
それ以上聞きたくなかった。聞けば聞くほど、借りの山が高くなる。
使用人が一瞬だけ間を置いた。それから、何事もなかったように微笑んだ。
「お食事をお持ちいたしますね。三日間ほとんど何も召し上がっていませんので」
食事。
その言葉で、腹が鳴った。盛大に。静かな部屋に響き渡るほど、盛大に。
使用人が微笑みを崩さなかったのは、訓練の賜物だろう。レオナは窓の方を向いたまま、返事をしなかった。返事の代わりに、耳が赤くなった。
*
運ばれてきたものを、食事と呼んでいいのかわからなかった。
盆の上に、白い皿が三枚。それぞれの皿に、色の違う食べ物が少量ずつ載っている。薄く切った肉が扇状に並べられた皿。緑の葉と赤い実が盛られた皿。透き通ったスープが注がれた深皿。その横に、パンが一切れ。さらにその横に、銀の食器が四本——大小のフォーク、ナイフ、匙——が布の上に整列している。
レオナは盆を見下ろした。
レオンだった頃、食事は「食う」ものだった。戦場では干し肉を齧り、宿では煮込みを木の匙で掻き込んだ。皿は一枚、食器は一本。それで十分だった。
なぜフォークが二本あるのか、わからない。
大きい方と小さい方で、何が違うのか。どちらで何を食べるのか。ナイフは——これは切るためのものだとわかる。だが、こんな薄い肉を切る必要があるのか。最初から切ってあるではないか。
スープの匙を手に取った。柄が長い。持ち方がわからない。握ると、拳から柄が突き出して、武器のような角度になった。
使用人が、部屋の隅に控えていた。視線は盆の上のレオナの手に向いている。表情は穏やかだが、目の奥に何かが——たぶん、これから起きることへの予感が——浮かんでいた。
レオナはスープの匙を置いた。
パンを手で千切った。
それをスープに浸した。
手でそのまま口に運んだ。
咀嚼した。
味は——良かった。温かくて、塩気があって、肉の旨味がスープに溶けていた。パンが汁を吸って柔らかくなっている。三日ぶりの食事が胃に落ちていく感覚が、全身に広がった。
二口目を手で掴もうとしたとき、使用人の気配がわずかに揺れた。
「あの……フォークをお使いになりませんか」
「いらない」
「お行儀と申しますか、侯爵家では——」
「手の方が早い」
反論の余地を塞いだのは、論理ではなく速度だった。レオナはパンの残りを千切り、三枚の皿の中身を順番にパンで包み、次々と口に運んでいた。扇状に並べられた薄切り肉も、パンで巻いて掴んだ。緑の葉も、赤い実も、パンに挟んだ。
使用人は、何も言わなかった。
言えなかった、の方が正確かもしれない。
レオナは五分もかからずに皿を空にし、スープを深皿ごと持ち上げて飲み干した。
口の端を手の甲で拭いた。
使用人を見た。
「……うまかった」
それだけ言った。使用人は笑顔のまま、長い沈黙の後に「それは何よりでございます」と答えた。声がわずかに上擦っていた。
*
午後の早い時間に、別の使用人が来た。年配の女性で、腕に布の束を抱えている。
「お召し物の採寸をさせていただきます。侯爵家に滞在される以上、最低限のお支度が——」
「採寸」
「ええ。身体の寸法を測りまして、お洋服を仕立てます」
レオナは使用人の手元を見た。布の束の中に、紐状のものが見えた。目盛りが刻まれた長い帯。
身体に巻きつけるもの。
拘束具ではない、と理性は判断している。だが、身体が先に反応した。
リムルの路地裏。赤蛇の手下が、縄を持って近づいてきた記憶。あのときも、こうやって——道具を持った複数の人間が、距離を詰めてきた。
「触らないでくれ」
声が低くなった。一歩、後退した。背中が壁に当たった。壁を背にする。出入口を確認する。扉は右。窓は左。使用人は正面に一人、その後ろにもう一人。
「あの、お怪我のことは存じておりますので、お痛みのないよう——」
「近寄るな」
使用人が手を伸ばした。巻き尺を広げようとしたのだ。意図は明確で、悪意はない。わかっている。頭では、わかっている。
だが、手が伸びてきた瞬間に身体が動いた。
右手で使用人の手首を掴み、横に払った。巻き尺が床に落ちた。もう一人の使用人が「きゃっ」と短い声を上げて後退した。
左肩に、電撃のような痛みが走った。
払う動作で、背中の傷が引き攣れたのだ。左肩から背骨にかけて、塞がりかけた裂傷が抗議するように脈打った。視界の端が白く飛んだ。膝が笑った。
壁に背中を預けたまま、ずるずると腰が落ちた。
「——申し訳ございません! お怪我に——」
「違う」
床に膝をついたまま、左肩を右手で押さえた。息を整えた。痛みが波のように引いていくのを待った。
「……違う。お前たちは何も悪くない」
声が掠れて、最後の方は音になっていなかった。
使用人二人が、レオナの前で立ち尽くしていた。巻き尺が、二人の間の床に落ちたまま、丸まっている。
「……すまない」
それだけ絞り出すのに、息を二回整える必要があった。
*
ベッドの問題は、その夜に発覚した。
使用人が退室した後、レオナは部屋に一人残された。窓の外は暗くなっている。暖炉に火が入れられ、燭台が二本、机の上で揺れている。
ベッドを見た。
シーツは新しいものに替えられている。枕は二つ。掛け布は整えられ、角が三角に折り返されている。招くように。
朝、目が覚めたときはこの上にいた。あのとき感じた異質な柔らかさ。身体が沈む感覚。野営地の硬い地面とは、何もかもが違う。
レオナは毛布を一枚引き抜いた。
床に敷いた。
その上に横になった。
——これだ。
背中に硬い面が当たる。肩甲骨が床を感じる。腰骨が押される。冷たくて、硬くて、身体のどこかが常に不快で——だからこそ、安心した。野営地と同じだ。戦場の天幕と同じだ。何かが来ても、すぐに起き上がれる。柔らかい場所に沈んでいたら、一拍遅れる。その一拍で死ぬ。
背中の傷が床に当たり、鈍く痛んだ。仰向けは駄目だ。右を下にして横向きになった。右脇腹の打撲が圧迫されて響くが、背中の裂傷が床に触れるよりはましだった。
目を閉じた。
すぐには眠れなかった。暖炉の火が爆ぜる音が、不規則に聞こえる。窓の外で虫が鳴いている。廊下の向こうで、使用人の足音がかすかに通り過ぎた。
これがこの家の夜なのだ。殺気がない。霧がない。何も襲ってこない。
それなのに、身体が弛まない。戦場にいたときと同じ緊張が、筋肉の奥に張り付いている。
長い時間をかけて、ようやく意識が薄れ始めた。
*
翌朝、使用人がレオナの部屋に入ったとき、ベッドは空だった。
毛布が一枚、床に敷かれていた。その上に、壁際に背中を寄せる形で、レオナが丸まっていた。
使用人は数秒間、その光景を見つめた。
それから静かに扉を閉め、盆を机の上に置き、声をかけた。
「おはようございます。お食事をお持ちしました」
レオナは目を開けた。一瞬で使用人の位置を確認し、扉との距離を測り、それから——ゆっくりと身体を起こした。
「……ああ」
昨日より、「ああ」の音が少しだけ長かった。
朝食は昨日と似た構成だった。皿が三枚、食器が四本。レオナは昨日と同じ手順で——パンを千切り、中身を巻き、手で食べた。使用人は今日は何も言わなかった。
食後、採寸の再挑戦が告げられた。
「昨日は申し訳ございませんでした。本日は——巻き尺をお渡しいたしますので、ご自分で当てていただく形でもよろしいでしょうか」
レオナは使用人を見た。使用人の顔には、職業的な穏やかさの下に、昨日の手首を掴まれた記憶が薄く残っている。それでもここに来ている。仕事だからだ。
「……やり方を言え。自分でやる」
使用人が巻き尺を差し出した。レオナは右手で受け取った。
「まず、胸の周りを——」
「ここか」
「はい。脇の下を通して、一番広い部分をぐるりと——」
右手で巻き尺の端を胸の右側に当てた。ここが始点だ。ここから背中を回して一周させればいい。
右手で巻き尺を右の脇腹から背中の方へ送った。巻き尺が背中に垂れ、左の脇を通って前に戻ってくるはずだった。
戻ってこない。
左腕が上がらない。背中側から左脇の下に回ってきた巻き尺を拾うには、左手を脇の高さまで持ち上げる必要がある。肩の筋が途切れたように動かない。左の肘を曲げてみた。肘から先は動く。だが、肘の高さが上限だった。左手は肋骨の下あたりで止まったまま、そこから上には上がらない。脇の下を通る巻き尺は、その遥か上を素通りしている。
右手を放して背中に回そうとした。だが右手が背中を回っている間、胸の始点を固定する手がない。巻き尺が身体から滑り落ちた。
拾い上げた。もう一度。
今度は巻き尺の始点の端を顎と鎖骨の間に挟んで固定しようとした。首を傾けて布帯を顎で押さえ、右手を背中に回す。右手は右半身の背面までは届く。だが身体の中心を越えて左半身の脇まで——腕の長さが足りない。指先が必死に伸びて、背骨の少し左に触れたところで、それ以上は関節が許さなかった。
顎から巻き尺が滑り落ちた。
壁を使うことを考えた。巻き尺の端を壁に押しつけ、壁と背中の間に挟んで固定する。そうすれば右手が自由になる——だが、胸囲を測るのだ。胸の前にある始点を背中の壁で固定することはできない。
三度目の失敗で、巻き尺を床に叩きつけたい衝動が指先まで来た。こらえた。紐一本だ。紐一本に負けている。レオンなら両腕を回して一息で済む作業を、この身体では完遂できない。
使用人が、ずっと黙って見ていた。口を挟む気配はない。昨日の手首を掴まれた経験が、適切な距離を教えたのだろう。
レオナは巻き尺を見下ろした。
問題は明確だった。胸囲は脇の下の高さで巻き尺を一周させる。その高さに、左手は届かない。右手一本では背中の左側まで届かない。始点を固定する手段もない。これは工夫の問題ではなかった。腕が二本ある人間の身体を前提にした作業だった。
長い沈黙があった。
「……胸は、測れ」
声が低く、硬かった。使用人の目が、一瞬だけ動いた。
「手早くやれ。一回で終わらせろ」
「……かしこまりました」
使用人が一歩、近づいた。慎重に。動物を驚かせないような歩幅で。
レオナは右手だけで巻き尺の端を胸の右側に押さえた。それが、自分にできる唯一のことだった。始点を固定する。それ以外の全部——巻き尺を背中に回し、左脇の下を通し、始点まで戻す作業は、使用人の手に委ねるしかない。
使用人が巻き尺の中ほどを受け取り、レオナの右側から背中へ回した。寝巻きの上からだった。指は布帯にだけ触れていた。背中の肌には、触れていない。
それでも、背後に他人の手がある感覚で、肩の筋肉が硬くなった。首の後ろが粟立った。
——紐を回しているだけだ。
使用人の手が背中から左脇の下を通り、胸の左側まで巻き尺を運んだ。レオナが右手で押さえている始点の端まで、一直線に帯が戻ってくる。使用人が帯の合わせ目を確認し、素早く目盛りを読んだ。
「七十六でございます」
使用人がすぐに半歩退いた。判断が早い。必要な距離を戻すまでの時間を最短にした。昨日の一件を、この女は正確に学んでいた。
「……次はどこだ」
「腰回りでございます」
腰だ。臍の高さだ。ここなら——左手が届く。
右手で巻き尺の端を右の腰骨に当てた。巻き尺を背中に回す。使用人が背中を通す部分だけを補助し、左脇腹側に送り出した。巻き尺の端が腰の高さに下りてくる。左手の指が、それを掴んだ。力は弱いが、この高さなら握れる。左手で引いて、右手の端と合わせた。
「……六十一でございます」
自分の手で、合わせた。それだけのことだ。だが胸の計測で何もできなかった直後だから、紐の端を左手で握れたことに、不似合いな安堵があった。
肩幅は右手で巻き尺を肩の端に当て、使用人が反対側の端で読み取った。腕の長さは右腕だけ測り、左は同じとして記録した。首回りは右手一本で足りた。
一つ一つ、時間がかかった。通常の三倍はかかっただろう。使用人の額にうっすら汗が滲んでいた。忍耐の汗だ。
最後の数値を控え終えたとき、使用人は深く息を吐いた。仕事を終えた安堵と、何かを乗り越えた疲労が混ざった呼吸だった。
「ありがとうございます。三日ほどでお仕立てが——」
「銅貨一枚しかない」
使用人が、途中で止まった。
「……費用のことは、クラリス嬢様が——」
「わかっている」
借りが、また一つ増えた。
*
その日の午後遅く、クラリスが来た。
扉を叩く音が、使用人のそれと違った。使用人は控えめに三回。クラリスは二回、短く。間隔が均等で、迷いがない。
「入っていいかしら」
声で誰だかわかった。あの夜、暗闇の中で名前を呼んでいた声だ。今は落ち着いている。制御されている。だが、あの夜に聞いた剥き出しの響きを知ってしまった今、制御の下に何があるかが——透けて見えるような気がした。
「……ああ」
クラリスが入ってきた。
この数日で初めて、まともに顔を見た。髪は整えられている。頬の土はない。あの夜の乱れた姿はどこにもない。涼しい色の目が、部屋の中を一巡りした。床に敷かれた毛布を見た。机の端に置かれた巻き尺を見た。皿は空だが、食器が四本とも未使用のまま並んでいるのを見た。
クラリスの目が、一瞬だけ細くなった。
笑ったのか。呆れたのか。表情の変化が小さすぎて、読めなかった。
「身体の具合は」
「動ける」
「左肩は」
「……上がらない。だが、肘から先は使える」
クラリスが頷いた。椅子を引いて座った。レオナはベッドの端に腰を下ろしたが——ベッドが沈んで姿勢が安定しないので、すぐに立ち上がって壁際に寄った。
クラリスの目が、またわずかに動いた。
「高位の治癒師に診ていただいたわ。筋肉の深部まで裂けていたけれど、生命に関わる損傷は塞がっている。ただ、完全に治癒するまでにはもう少し時間がかかる。左肩が上がらないのは、筋の再接合が途中だから」
「あんたが呼んだのか。治癒師を」
「ええ」
「金がかかっただろう」
「それは——」
「高位の治癒師を夜中に叩き起こして、数日泊まり込みで施術させたんだ。安くはない」
クラリスが一拍、間を置いた。
「費用のことを気にする必要はないわ」
「気にしてるんじゃない」
レオナは壁に背を預けた。左肩が壁に触れないよう、右肩だけで体重を支えている。
「踏み倒す気がないと言ってる」
クラリスが、レオナを見た。あの涼しい色の目が——少しだけ、温度を持った。以前の「冷徹に測る」目とは違う。何かを見つけて、手放すまいとしているような——そういう光だった。
「あなたは三日間、意識がなかったのよ。目が覚めて最初に言うことが、借金の話なの」
「最初じゃない。飯を食ってから言ってる」
クラリスの口元が、ほんのわずかに——持ち上がった。抑えたのだろう。すぐに元の表情に戻った。
「使用人から報告を受けたわ」
「……何をだ」
「パンでお肉を包んで手で召し上がった、と。採寸では巻き尺を顎で挟んだり壁に押しつけたりして粘った末に、胸だけはどうにもならなくて——」
クラリスの声が、わずかに間を含んだ。
「測ってもらったそうね。お腰は自力でなさったとも聞いているけれど」
事実だった。紛れもない事実だった。だが、こうやって他人の口で整理されると、別の形に聞こえる。
「……腕が上がらないんだ。仕方ないだろう」
「ええ、物理的にそうでしょうね。それと、ベッドではなく床でお休みになった、と」
声の調子は平坦だった。責めてはいない。呆れてもいない。事実を並べている。だが——その事実を並べる声の奥に、何かが滲んでいた。面白がっている、とは違う。困っているとも違う。もっと柔らかい何かだった。
レオナには、それが何なのかわからなかった。
「……迷惑をかけている自覚はある」
「迷惑だとは思っていないわ。ただ、使用人たちが少し——消耗しているのは事実ね」
「あいつらには謝った」
「聞いたわ。手首を掴んだ後に、床に膝をついたまま謝ったそうね」
その言い方。事実なのだが、並べ方が意地悪い。レオナは顔を背けた。
「……あのな」
「フォークの使い方は、明日から少しずつ覚えましょう。ここにいる間は、最低限の作法が要るから」
「俺は——」
「私。侯爵家では、『私』と」
レオナの口が閉じた。
レオンとして生きていた頃、「俺」以外の一人称を使ったことがなかった。戦場で、酒場で、ギルドで——常に「俺」だった。
だが今、この身体で、この家で、この女の前にいる。
「……私は」
声に出すと、口の中で転がる感触が奇妙だった。他人の言葉を借りているような違和感。
「私は、ここに長居するつもりはない」
「知っているわ」
クラリスが立ち上がった。椅子を元の位置に戻した。
「それでも、いる間は最低限のことを覚えてちょうだい。あなたが恥をかくのは構わないけれど、給仕の子たちが泣くのは困るの」
扉に向かいながら、クラリスが振り返った。
「それと——借りを返す気があるなら、まず身体を治しなさい。壊れたままでは、返すものも返せないでしょう」
扉が閉まった。
レオナは壁に背を預けたまま、閉じた扉を見ていた。
——合理的な言い方をする女だ。
だが、あの夜の声を知っている。暗闘の中で名前を叫んでいた声を知っている。あの声と今の声が、同じ人間から出ている。
合理的。そう見せたいのだろう。あの夜に崩れた何かを、理屈で塗り直そうとしている。
レオナには、その構造がわかった。自分もまた、借りという言葉で別のものを包んでいるのだから。
*
夕暮れが近づいていた。
窓際に立って、外を見ていた。中庭の向こう——生け垣を挟んだ先に、開けた空間がある。朝は気づかなかった。午後の光の角度が変わって、初めて見えた。
石畳の平らな区画。周囲に柵。柵の内側に、木製の打ち込み台が三つ。壁際に武器立て。木剣が数本、立てかけられている。
剣術の練習場だった。
誰もいない。夕暮れ前の静かな時間帯なのだろう。だが使い込まれた痕跡がある。打ち込み台の表面は無数の傷で白くなっている。石畳の継ぎ目に足の踏み込みで削れた跡が残っている。
レオナの右手が、無意識に握り込まれていた。
レオンの時代、型は必要なかった。どんな相手でも、膂力で叩き潰せた。技術がなくても、速度と質量で圧倒できた。だから学ばなかった。学ぶ必要がなかった。
今は——何もない。
膂力がない。速度がない。質量がない。武器もない。あの粗悪なナイフすら、亜種の爪に触れた瞬間に三つに折れて砕けた。
残っているのは、殺気を嗅ぐ勘だけだ。危険が読める。殺気が読める。間合いが読める。だが、読めたところで——この身体では何もできない。野犬の前で松明を振った。亜種の前に飛び出した。どちらも、読めたから動けた。だが、読めただけでは足りなかった。
技術が、要る。
型が要る。腕力に頼らない、身体の使い方が。
練習場を見つめるレオナの目に、炎が灯っていた。渇望。それ以外に名前をつけられない、焦げるような熱さだった。
——まだ終わっていない。
身体が変わった。力を失った。武器を失った。だが、まだ終わっていない。戦う方法があるなら、学べばいい。この身体で振れる剣があるなら、振ればいい。
左肩が痛んだ。上がらない腕が、その「まだ」に条件をつけている。今は無理だ。今すぐには、立てない。振れない。走れない。
だが——。
窓の向こうの練習場が、夕焼けに染まっていた。打ち込み台の影が長く伸びている。木剣が武器立ての中で、使われるのを待っている。
レオナは長い間、その光景を見ていた。
*
夜。
使用人が退室した後、レオナは部屋に一人だった。
昨夜と同じように、毛布を床に敷こうとした。掛け布を引き剥がし、毛布を引き抜いた。床に広げた。
だが、しゃがみ込む前に——足が止まった。
ベッドを見た。
クラリスの声が蘇った。「まず身体を治しなさい」。
床で寝れば、背中の傷が圧迫される。右脇腹も硬い面に当たる。三日間昏睡していた身体を、さらに痛めつけることになる。それは——借りを返すための身体を壊すことだ。合理的ではない。
合理的。あの女の口癖のような言葉を、自分が使っている。
レオナは毛布を拾い上げた。ベッドの上に戻した。
それから、ベッドの端に腰を下ろした。沈む。身体が傾く。両手でシーツを掴んで姿勢を保った。
ゆっくりと、横になった。右側を下にした。左肩を上に。背中の傷が、何にも触れない体勢。
ベッドが、身体を包んだ。
柔らかかった。あり得ないほど、柔らかかった。肩も、腰も、膝も——どこにも硬い突起がない。全部受け止められている。身体の重さを、ベッドが引き受けている。
こんなものの上で、人は毎晩眠るのか。
枕に頭を沈めた。頬に当たる布が滑らかで、冷たくて、しかしすぐに体温で温まった。暖炉の火が遠くで爆ぜている。虫の声は昨夜より小さい。
疲労が来た。
三日間の昏睡で回復しきっていない身体の深部から、泥のような眠気がせり上がってきた。目を開けていることが、途方もなく重い作業になった。
練習場の光景が、まぶたの裏に浮かんだ。木剣。打ち込み台。夕焼けの石畳。
——明日から、だ。
身体を治す。最低限の作法を覚える。フォークの使い方でも何でもいい。借りは返す。そのためにまず、この身体を動かせるようにする。
練習場に立てる日まで。
意識が落ちた。今度は、痛みでも恐怖でもなく——柔らかさの中に。
レオナは眠った。侯爵家に来て初めて、ベッドの上で。




