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礼装のレオナ〜最弱へと転落した最強の男が、真の強さを知るまで〜  作者: 今井 幻


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第16話「盾」

 確信だけが、身体の奥に釘のように刺さっている。


 虫の声は戻った。梟が一声、遠くで鳴いた。焚き火はまだ微かに赤い熾を保っていて、その残照が地面の草を鈍く染めている。


 何も起きていない。


 何も起きていないはずなのに——座ったままのレオナの両手が、膝の上で強張っていた。


 右手は拳を作ろうとして、途中で止まる。腫れの引き始めた指が、握り込む前に痛みを返してくる。左手の指先だけが、無意識に腰布のナイフの柄に触れていた。


 北東の林を背にしている。さっき自分で向きを変えた。焚き火の方へ。闇を見るのをやめてみると、そう決めたはずだった。


 ——馬鹿か。


 向きを変えただけで、背中が安全になるわけがない。前線では、敵に背を向けた瞬間が最も危険だった。それを知っているくせに、向きを変えた。「見張らなくていい」という一言に、ほんの少しだけ——


 焚き火の熾が、ふっと暗くなった。


 風はない。


 暗くなったのではない。何かが——焚き火と自分の間に、薄い膜のように割り込んできた。


 霧だ。


 地面を這うように、足首の高さで白いものが滲み出していた。背後——北東の林の根元から、じわりと広がってくる。さっき木々が震えていた方角だ。霧はレオナの脇を通り過ぎ、焚き火の方へ流れ、熾の光を覆い始めている。


 レオナの呼吸が止まった。


 霧。夜の野営で霧が出ること自体は、珍しくない。川が近ければ。湿地が近ければ。ここは街道沿いの林の縁で、地面は乾いた硬い土だった。


 水気のない土から、霧は出ない。


 ——知っている。


 戦場で一度だけ見た。名も知らぬ辺境の森で、夜営していた傭兵団が壊滅した跡地。翌朝、レオンが通りかかったときには、地面に乾いた血痕と、折れた武器と、不自然に濃い霧だけが残っていた。あのとき誰かが言った。「霧変異の獣が出た土地は、しばらく霧が消えない」と。


 あの獣が——通った場所に、霧が残る。


 左手がナイフの柄を握った。痛みが掌に走ったが、構わなかった。


 首を回す。北東——林の方角。


 闇の中に、木々の輪郭がある。焚き火の残照を背にしている分、暗がりへの目の順応が遅れている。眩しいものを見た後の、あの数秒の盲目。


 だが——見えなくても、わかる。


 空気が、重い。


 肌の産毛が逆立っていた。鎧下チュニックの下、両腕の細い毛が一本ずつ持ち上がるような——理屈ではない、皮膚が直接感じ取る圧。


 林の奥で、枝が折れた。


 乾いた音ではない。生木が、圧し折られる——湿った、嫌な音。


 リュートが動いた。


 東方向の巡回を担当していた護衛が、足を止め、腰の剣に手をかけた。レオナの位置からは、馬車の端越しに焚き火の向こう側に立つリュートの横顔が見える。顎が引き締まり、視線が北東へ固定された。


 ——気づいている。


 リュートが左手を上げた。二本指を立て、素早く振る。信号だ。他の護衛二人に向けたもの。


 林の縁から十歩ほどの暗がりで、低い唸り声が聞こえた。


 一つではない。


 二つ。三つ——重なっている。喉の奥を掻くような、獣の低い振動。


 スプリットジョウ。


 レオナの身体が強張った。あの、狼と熊の間のような——裂ける顎を持つ四足獣。あのとき護衛たちが一頭を仕留めるのに要した連携。あのときレオナは、風圧に吹き飛ばされただけで何もできなかった。


 護衛の一人——頬に古い刀傷のある四十手前の男——が、音もなく焚き火の前に移動していた。剣を抜き、腰を低く落としている。もう一人が馬車の反対側から回り込む。三人が、音のした方角に対して扇形に展開していく。


 プロだ。声を出さず、視線と手信号だけで配置を決めている。


 レオナは馬車の脇から動けなかった。立ち上がれば——包帯の巻かれた足裏が地面を踏む。走れるか。走れない。歩くことはできる。だが、あの獣の速度に追いつける足ではない。


 左手のナイフを握り直した。刃渡りは掌を少し超える程度。粗悪な鉄。オランで全財産を叩いて買った、安物。


 林の縁の暗がりが——動いた。


 影が地面を滑るように飛び出してきた。スプリットジョウ。体高は腰の高さほど。筋肉の塊のような前肢が地面を蹴り、裂けた顎を開いて、焚き火の光の中に突っ込んでくる。


 一頭目に続いて、二頭目。さらに左側の茂みから三頭目。


 護衛たちが動いた。


 刀傷の護衛が一頭目の突進を斜め前に踏み出して躱し、すれ違いざまに剣を横に薙ぐ。刃が首の付け根に食い込み、獣が体勢を崩して転がった。リュートが二頭目に正面から踏み込み、盾で顎を受け止めて押し返す。三人目の護衛が三頭目の側面を取り、脚を狙った低い斬撃を放つ。


 三対三。護衛は互いの間合いを潰さず、一頭ずつを受け持っている。


 レオナは馬車の脇に座ったまま、その動きを見ていた。


 ——強い。


 当たり前だ。侯爵家の精鋭だ。B級のスプリットジョウを三頭同時に受けて、一人も崩れていない。リュートが盾を突いて獣の顎を跳ね上げ、返す刀で喉を裂いた。血が飛沫になって焚き火の熾に落ち、小さな音を立てた。


 レオナの視線が、護衛の動きから外れた。


 馬車の——反対側。


 クラリスは馬車の中にいたはずだ。さっき、「おやすみなさい」と言って幌の中に入っていった。獣の唸りで目を覚ましたなら、馬車の中から出てくる。出てくるなら——


 幌の隙間から、白い手が見えた。


 クラリスが幌を持ち上げ、馬車の南西側——焚き火の近い方——に降り立った。獣が来ている北東ではなく、焚き火のある方角。一見、戦闘から遠い側。状況を把握しようとして、目を細めている。


 霧が、濃くなっていた。


 北東の林から流れ込んだ白い靄が、いつの間にか膝の高さまで上がっている。焚き火の光を吸い込むように、白い壁が視界の端を削り始めていた。焚き火の熾そのものが、霧に飲まれて光量を失いつつある。


 ——おかしい。


 スプリットジョウは霧を出さない。あれは在来の魔獣だ。霧を出すのは——


 だが、北東にいたはずだ。さっき木々を震わせたあの気配は、北東の林にいた。それなのに霧は野営地の全体に拡がり、南西の方角——焚き火の向こう側の闇が、最も濃く白んでいる。


 まるで——何かが、北東から来て、この場所を通り過ぎて——


 首の後ろが、灼けた。


 言葉にならない。頭で理解する前に、首の後ろが灼けるように熱くなった。背骨の上を、何かが爪の先で引っ掻いたような——殺意だ。明確な、混じりけのない殺意が、空気の中に溶けている。


 方角を——


 クラリスの方だ。


 南西。クラリスの背後——焚き火の明かりさえ届かなくなった闇の奥から、殺意が這い出してきている。


 ——回り込まれた。


 北東にいたものが、いない。林で木を震わせ、霧を引きずりながら野営地を迂回し——南西に回り込んでいる。通常種のスプリットジョウが北東から突っ込んできたのは、あの獣が通過したせいで縄張りを荒らされたからだ。陽動ですらない。ただ通っただけで、在来の魔獣が暴れ出した。


 護衛は全員が北東方向のスプリットジョウに向いている。


 護衛の誰も、南西を見ていない。


 レオナの身体が動いた。


 地面に両手をついて膝を立て、包帯の巻かれた足裏が地面を踏んだ瞬間に——痛みが脛を貫いた。左踵の薄い再生皮膚が引き攣れ、右足甲の火傷のかさぶたが地面の凹凸に圧迫された。


 構わなかった。


 走った。


 馬車の北東側から南西側へ——馬車の長さ分を、車体に沿って回り込む。四歩、五歩。足裏が踏み込むたびに、包帯越しに石が食い込む。視界の端で、護衛たちがスプリットジョウと組み合っているのが見える。リュートの剣が獣の脇腹に突き刺さり、獣が痙攣した。


 クラリスは馬車の南西側に立っていた。護衛の戦闘を見ようとして、わずかに北東——林の方へ視線を向けている。


 その向こう——クラリスの背後の闇が、膨れ上がった。


 クラリスは気づいていない。レオナの方を見た——走ってくるレオナの顔を見て、何かを言おうと口を開いた。


 その暇はなかった。


 レオナはクラリスとすれ違いざま、右手でクラリスの肩を掴み、横へ突き飛ばした。握力が足りない。指が滑る。だが——肩甲骨の端に掌底が当たり、小柄な身体を一歩分、横にずらすことはできた。


 クラリスが倒れ込む気配が視界の隅で揺れた。声が聞こえた——何か短い、鋭い音。


 もう見ていなかった。レオナはクラリスがいた場所を踏み越え、南西の闇に向き直っていた。


 霧の中から、輪郭が浮かび上がる。


 スプリットジョウだ。だが——大きい。通常の個体より一回り以上大きい。前肢の筋肉が不自然に膨張し、体表の毛が所々で抜け落ち、露出した皮膚が赤黒く爛れている。裂ける顎——上下ではなく、左右に開く異形の口腔。


 そして——額に、眼があった。


 通常の二つの目の上、頭蓋の正中線上に、第三の眼球が埋まっている。黄色い虹彩が、霧の中で濁った光を放っていた。


 霧喰い亜種。


 名前は知らない。だが前線で、形が崩れた魔獣を見たことがある。生態系の合理から外れた、壊れた獣。あれは——通常の魔獣ではない。


 亜種が後肢を沈めた。跳躍の予備動作。


 レオナは左手のナイフを突き出した。亜種の突進の軸線上に、自分の身体を立たせたまま。刃先が、亜種の前肢の爪に触れた。


 鉄が、砕けた。


 衝撃ではなかった。粗悪な鉄の刃が、亜種の爪の表面に触れた瞬間——鋼を打つ音すらなく、ナイフの刃が根元から三つに折れ、欠片が霧の中に散った。柄だけが左手に残った。


 ——やはり。


 知っていた。こんなもので、傷一つつかないことは。


 亜種の前肢が振り上がった。爪が、霧の中で弧を描く。


 武器はない。躱す足もない。この身体では受け止められない。


 なら——


 レオナは身体を翻した。


 南西を向いていた身体を——北東へ。クラリスが倒れた方角へ。背中を、亜種に晒した。


 腕を広げたのではない。覆いかぶさるように、背を丸めた。自分の身体を壁にして、一歩分でも——クラリスとあの爪の間に、厚みを作る。


 盾に、なる。


 亜種の爪が、レオナの左肩に食い込んだ。


 痛みではなかった。最初の一拍は。


 衝撃だった。身体の左半分を、巨大な杭で殴りつけられたような——背中を晒した肩から、鎧下チュニックの布ごと肉が裂かれる感触。爪が肩甲骨の上を滑り、背中の中央付近まで三本の溝を引いた。


 地面が消えた。


 吹き飛ばされている。亜種の突進の勢いと前肢の一振りが、レオナの身体を北東方向——馬車の方へ弾き返した。背中から飛び、視界に一瞬だけ夜空が映った。


 馬車の車輪の脇——さっきまで座っていた場所の近くに、右の脇腹から落ちた。打撲が残っていた箇所に、新しい衝撃が重なった。転がった。一回転、二回転——背中が地面を擦り、裂傷の断面に土が入った。


 息ができなかった。


 横隔膜が痙攣している。口が開いているのに、空気が入ってこない。視界が白く飛び、次に赤く染まり、次に暗くなった。


 地面に伏せたまま、右手で身体を起こそうとした。肘が震えた。左腕が動かない。肩から背中にかけての筋肉が——断裂している。裂傷の深さが、腕を持ち上げる筋の経路を遮断していた。


 チュニックが濡れている。背中から左脇にかけて、温かい液体が布を浸していく。速い。流れる速度が、速い。


 ——まだだ。


 右肘を軸にして、半身を起こした。視界が揺れる。霧が膝の高さまで満ちていて、地面に伏せたレオナの顔の前を白い靄が流れていく。


 南西——亜種の位置を探した。


 いた。馬車の向こう、焚き火があった辺り。レオナを弾き飛ばした後、亜種は前肢を地面に戻して——クラリスの方を向き直していた。第三の眼が、霧の中で鈍く光っている。


 クラリスは——倒れた場所から膝をついて起き上がろうとしている。突き飛ばされた衝撃で、数歩分横に転がったらしい。髪が乱れ、右の掌が地面についている。視線が亜種を捉えていた。


 護衛たちの声が聞こえた。怒号。足音。北東方向から——レオナの背後から近づいてくる。通常のスプリットジョウを処理した後、こちらに向かっている。間に合うか——間に合わないかもしれない。


 亜種が、再び後肢を沈めた。


 レオナの右手が地面を掴んだ。石が掌に食い込んだ。


 立てない。左肩の裂傷が深すぎる。立ち上がれば出血が加速する。そもそも、この身体で立ったところで——


 ナイフはもうない。砕けた。武器がない。左腕が動かない。足裏は包帯越しに地面の凹凸を踏んでいて、踏み込むたびに痛みが脛を刺す。右手の握力では石すらまともに投げられない。


 ——何もない。何も持っていない。何もできない。


 でも。


 レオナの身体が、地面を蹴った。


 立ち上がったのではない。四つ這いから、右膝と右手で地面を押して——前に倒れ込むような形で、南西へ。一歩。もう一歩。引きずるように、亜種とクラリスの間に向かって進んだ。


 声が出た。掠れた喉から、形にならない叫びが漏れた。


 亜種の第三の眼が、レオナに向いた。


 ——こっちを見ろ。


 声にならない。だが視線は送れる。前線で学んだ。殺気は目で飛ばせる。たとえ身体が少女でも——目だけは、目だけは——


 亜種が一瞬、跳躍を躊躇った。


 殺意の対象が二つに分かれたからだ。本来の獲物であるクラリスと、血を流しながら這い寄ってくる小さな人間。


 その一瞬で——足音が、レオナの脇を駆け抜けた。


 リュートの剣が、亜種の右前肢を斬った。


 鋼が肉に食い込む重い手応えが、地面の振動として伝わってきた。亜種が咆哮した。三つの眼が一斉に見開かれ、裂ける顎が左右に大きく開いた。霧がその口腔から噴き出すように膨れ上がり、焚き火の最後の熾が完全に消えた。


 闇。


 全てが闇に沈んだ。


 見えない。何も見えない。だが——音は聞こえていた。


 鋼が肉を断つ、重い音。一度ではない。二度、三度——異なる方角から。護衛たちが闇の中で同時に斬りかかっている。獣が咆哮した。その咆哮が——途中で潰れるように途切れた。何か巨大なものが地面に崩れ落ちる振動が、伏せたレオナの腹に響いた。


 それきり、獣の声は聞こえなくなった。


 レオナは地面に伏せたまま、闇の中で息をしていた。左肩から背中の裂傷が、鼓動に合わせて脈打つように血を押し出している。チュニックの背中は完全に裂け、布の切れ端が傷口に貼り付いていた。右脇腹の打撲の上に落下の衝撃が重なり、呼吸のたびに肋骨が軋む。


 視界が狭くなっていた。闇だけのせいではない。意識そのものの縁が、黒く侵食されていく。


 足音が近づいてきた。


 護衛のものではない。もっと軽い。もっと——不規則な。走っているのに、途中で躓いたような足取り。


 地面に膝をつく音がした。レオナの左側、すぐ近くに。


 手が伸びてきた。


 暗闇の中、指先がレオナの左手を探り当てた。ナイフの柄を取り落とした——地面に投げ出されたままの左手を、両手で掴んだ。


 温かかった。そして——震えていた。骨に響くほど強く握りしめているのに、指そのものが小刻みに揺れていた。


 「——レオナ」


 闇の中で、声だけが降ってきた。


 震えていた。いつもの穏やかな声ではない。高く、薄く、引き伸ばされたようにひび割れている。


 クラリスだ。


 右頬を地面に押し当てたまま、レオナは声の方——左を見ようとした。だが見えない。焚き火は消えている。霧の隙間から僅かに届く星明りでは、すぐ傍にいるはずのクラリスの輪郭すら、暗がりに溶けていた。


 見えないまま——手の震えだけが、指を通して伝わってくる。


 クラリス・アークライトは、いつも静かだった。レオナの傷を手当てするときも、食事を差し出すときも——常に余裕があった。観察し、分析し、自分の感情を合理の器に注いで、溢れないように管理していた。


 その管理が——壊れている。声と、手の震えだけで、わかった。


 「——動かないで」


 声が裏返っていた。


 左手を握っていた両手のうち、片方が離れた。背中の裂傷に近づく気配がした。裂かれた肌の表面に、僅かに温かい空気が触れた——指先がすぐ傍まで来ている。だが触れない。迷っている。傷の上をさまよっている。


 どこに触れればいいか、わからないのだ。


 治癒魔法使い。侯爵家の令嬢。冷静で、知的で、常に判断が先に来る人。


 その人が——手の置き場を、失っていた。


 「治す。今——治すから」


 指先が、レオナの左肩甲骨の脇——裂傷の最も浅い端——に触れた。


 光が灯った。


 温かい光が、掌から滲み出した。柔らかい、しかし密度の高い光。治癒魔法の光が——闇を裂いて、野営地の一角を照らした。


 その光の中に——クラリスの顔があった。


 初めて見えた。


 髪が乱れている。いつも整えられていた前髪が額に貼り付き、頬に土がついている。突き飛ばされたときについたものだろう。唇が——開いたまま、何かを言おうとして、言葉が喉の手前で詰まっている。


 目が。


 いつもの、あの涼しい目が——潤んでいた。


 レオナは、その目を見たことがなかった。


 ——ああ。


 こんな顔をするのか、この人は。


 いつも涼しい顔で、「合理的ですから」と言っていた人が。「念のため」と「都合がいいから」で善意を包んでいた人が。


 泣きそうな顔をして、レオナの手を握っている。


 治癒魔法が——レオナの裂傷に流れ込んだ。


 痛みが、変わった。


 刃物で切り裂かれるような痛みが——深い場所を押し広げられるような、別の種類の圧に変わった。魔力が傷口から身体の内側へ浸透していく。深い。異常に深い。皮膚の下、筋膜の下、筋繊維の一本一本に——


 レオナの身体は魔力を持たない。抵抗がない。治癒魔法が、何の障壁もなく——素通りするように、身体の奥まで届いていく。


 クラリスの呼吸が乱れていた。治癒魔法を維持しながら、肩で息をしている。額に汗が浮いている。普段の落ち着いた所作からは想像もつかない——全力で、何かにしがみつくような形相。


 レオナの視界がさらに狭くなった。治癒の光に照らされたクラリスの顔だけが残っている。他の全て——護衛の足音、霧が薄れていく気配——が遠くなっていく。


 左手に残った僅かな力で——クラリスの指を、握り返そうとした。力が入らなかった。肩の筋が断たれているせいで、指を動かす信号すら、途中で途切れる。動いたかどうかも、わからなかった。


 「——レオナ、目を開けて」


 クラリスの声が、遠くなった。


 「開けて——目を、閉じないで——」


 閉じていない。まだ、見えている。見えているのに——視界の黒い縁取りが、中央に向かって閉じていく。


 最後に見えたのは、クラリスの目だった。


 あの涼しい色が——剥き出しの、何の鎧もない光を湛えていた。


 ——誰かが、こんな顔で自分の名前を呼んでいる。


 それは、初めてのことだった。


 レオンとして生きた二十数年。最強と呼ばれた男。誰にも必要とされず、誰の隣にも立てなかった男。死んでも、惜しまれなかった男。


 その男の——なれの果ての、無力な少女のために。


 誰かが、名前を呼んでいる。


 不思議と——それだけで、十分だった。


 意識が沈んだ。

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