第14話「名前」
光が、瞼の裏を焼いていた。
赤い。朝の光だった。夜のそれではない。薄い幌越しに差し込む陽光が、閉じた目の上にぼんやりと広がっている。
揺れは続いていた。馬車の揺れ。規則正しく、穏やかで、身体の下の柔らかいものが振動を吸い取っている。昨夜感じた揺れと同じだが、何かが違う。
——明るい。
それだけのことが、意識を引き戻す力を持っていた。
瞼を開けようとして、失敗した。目が腫れている。涙で張りついた睫毛が重い。二度、三度まばたきを繰り返し、ようやく薄い隙間から光が差し込んだ。
白い天井。
正確には、白い布を張った馬車の幌だった。上質な亜麻らしい。染みも破れもない。目の前の一枚の布が、レオンがこれまで寝泊まりしてきた場所——路地裏の木箱の隙間、街道脇の草むら、安酒場の床——のどれとも違う世界にいることを、静かに告げていた。
身体が重かった。四肢に力が入らない。腕を持ち上げようとして、肩甲骨の下から鈍い痛みが走り、背中の打ちつけ痛が蘇った。右の脇腹が押されるように疼き、膝の裂傷が乾いた皮膚を引っ張っている。足裏の感覚は、もう痛みというより熱だった。素足のまま剥き出しになった踵の肉が、座席の布地に貼りついている。
——座席。
柔らかいものの正体に、ようやく思考が追いついた。身体の下にあるのは座席だった。クッションが入った、厚みのある座席。背中と腰を包み込むような弾力がある。こんな場所で横になっていた記憶がない。
記憶。
その一語が、閉じていた回路を一気にこじ開けた。
水の味。手の温もり。泣いた。声が出なくて、それでも止まらなくて、縋りついて——
全身の血が、顔に集まるのが分かった。
耳の裏が熱い。顔が熱い。胸の奥が、恥ずかしさとも怒りともつかない感情で締めつけられている。あんなふうに泣いたのはいつ以来か分からない。いや、あんなふうに泣いたことが、そもそもあったのかどうかすら分からない。
——起きろ。
自分に命じた。命じて、右腕を座席に突き、身体を起こそうとした。
腕が震えた。右拳の腫れが座席の縁に当たり、指が滑る。握力が足りない。左腕で補おうとしたが、全身の筋肉がほとんど枯渇している。持ち上げたはずの上半身が、途中で止まった。肘が伸びきらない。胴体を支える腹筋が攣りかけている。
それでも、三度目の試行で、背中を座席の背もたれに預けることに成功した。上半身を起こしたというより、座席の角に引っかかっただけに近い。両腕が膝の上に落ち、指先がだらりと垂れている。呼吸が荒い。たったこれだけの動作で、額に薄い汗が浮いた。
——情けねぇ。
口に出そうとして、喉が鳴らなかった。声帯が乾ききって貼りついている。空気だけが漏れる。掠れた息の音。それすらも喉の粘膜を擦り、鈍い痛みを返した。
視界がようやく安定した。朝の光が幌の縫い目から差し込み、馬車の内部を柔らかく照らしている。向かい合わせの座席。左右の小窓には薄い布が掛けられ、外の景色を遮っている。車輪の音が規則正しく床を震わせ、どこか遠くで鳥が鳴いている。
そして——対面の座席に、あの少女が座っていた。
まっすぐな姿勢で、背を座席に預けることなく、僅かに首を傾けてレオンの方を見ている。朝の光の中で見る顔は、昨夜の闇の中よりも輪郭がはっきりしていた。静かな目。落ち着いた所作。膝の上に組まれた手が動かない。
目が合った。
一瞬——ほんの一瞬、レオンの身体が強張った。反射的に背中を座席に押しつけ、両肩を丸めて前に落とした。顎が引かれ、首が肩の間に沈む。腕が胴の前に寄り、身体全体が一回り小さく縮まる。
戦場の反応だった。視界に「こちらを見ている人間」を捉えたとき、レオンの身体が叩き込まれていた防御の初動。肩を丸めて急所を隠し、身幅を絞って的を小さくする。殺気がないと分かっていても、目覚めた直後の混乱した意識がそれを先に走らせた。
——違う。
思考が追いついて、途中で動きを止めた。が、止めたことそのものが不自然な中断として身体に残り、丸めかけた肩が中途半端な位置で硬直している。
少女は、その一連の動きを見ていた。
見ていたが、何も言わなかった。
代わりに、口元がほんの僅かに動いた。唇の端が持ち上がる。笑みと呼ぶには小さすぎたが、無表情とも違う。何かを見つけたときの、あの——
「おはようございます」
声が聞こえた。柔らかくて、低すぎず、芯がある。昨夜暗闘の中で聞いた声と同じだった。
「よく眠れましたか? ……いえ、それは聞くまでもありませんね。十二時間以上、一度も寝返りを打ちませんでしたから」
十二時間。
その数字が頭の中で転がった。レオンが意識を失ったのは昨夜の、たぶん日没後。今は朝。計算は合う。だが「一度も寝返りを打たなかった」ということは、この少女は——
——ずっと見ていたのか。
顔の熱がぶり返した。寝顔を見られていた。泣きじゃくった後の、腫れた目と砂粒の食い込んだ頬と、泥で固まった髪の、この顔を。
何か言い返さなければならなかった。言い返して、距離を取って、借りの話をして、立場を整理しなければならなかった。レオンは口を開いた。
喉が引き攣った。空気が声帯の隙間を擦り、掠れた音が漏れた。
「……っ——」
声にならなかった。
もう一度。唾を飲もうとしたが、口の中が乾ききっていて唾液がない。喉の粘膜が張りつき、呼吸のたびに薄い痛みが走る。
少女の視線が、レオンの喉元に移った。
「無理に喋らないでください。喉の状態がかなり悪い。声帯の周辺に裂傷がある可能性があります」
断定ではなかった。「可能性がある」という言い方だった。だが声の調子は柔らかいまま、揺るがない。観察から判断を引き出す手際が、医師のそれに近い。
レオンは唇を噛んだ。噛んで、言葉の代わりに首を横に振ろうとした。大丈夫だと。平気だと。世話になるつもりはないと。
その瞬間。
腹が鳴った。
鳴った、という表現では足りなかった。盛大に、馬車の幌が震えるほどの音量で、レオンの腹が鳴り響いた。飢餓状態の胃が絞り上げる、遠慮のかけらもない轟音。馬車の床を伝って外まで届いたのではないかと思うほどの、長く、低く、うねるような一発だった。
静寂が落ちた。
馬車の揺れだけが続いている。車輪が小石を跳ねる音。馬の蹄。鳥の声。そのすべてが、今の音のあとでは妙に遠かった。
レオンの顔が、耳の先まで赤くなった。
対面の少女が、じっとこちらを見ていた。表情が動いていた。口元が——唇の端が——明らかに持ち上がっていた。笑いを堪えているのとも違う。堪える必要がないと判断した上で、面白がっている目だった。観察対象が予想外の行動を取ったときの、あの知的な好奇心が、唇の形として表に出ている。
「……身体は正直ですね」
声に笑いは混じっていなかった。だが、目が笑っていた。正確には、目の奥の何かが——ランタンの芯がちらりと揺れるように——光を帯びていた。
レオンは何も言えなかった。言えるはずがなかった。声が出ないことを差し引いても、あの腹の音のあとに強がりを重ねる勇気は、今のレオンにはなかった。
少女が座席の横に手を伸ばした。そこに布で包まれた何かが置いてあった。レオンの視界には入っていなかったもの。少女は布を開き、中から——
パンだった。黒い、硬そうな丸パン。その隣に薄い干し肉が二切れ。小さな革袋。
「保存食ですけれど。胃が空の状態で重いものは入りませんから、まずこれを少しずつ——」
言いかけて、少女の視線がレオンの手元に落ちた。膝の上に投げ出された両手。指の関節に泥がこびりつき、爪の間には砂利が詰まっている。掌の擦り傷のかさぶたにも、土が食い込んだまま乾いていた。昨夜——いや、もっと前から。地面を這い、岩を掴み、草を引きちぎり、土の上で眠り続けた手だった。
「——その前に」
少女は食事の布包みを脇に置き、別のものを取り出した。小さな水筒と、清潔な白い布。水筒の口を開け、布に水を含ませ、レオンの前に差し出した。
「手を拭いてください。傷口から感染します」
声は穏やかだったが、有無を言わせない響きがあった。足の傷を気にする人間が、泥まみれの手で食事を摂ることを見過ごすはずがなかった。
レオンは一瞬、受け取ることを躊躇った。世話を焼かれている。また借りが増える。だが——腹がさっき盛大に鳴ったばかりで、食事を目の前にして意地を張る余力は残っていなかった。
左手で濡れた布を受け取った。右手は拳の腫れで指が開ききらない。左手で右手の甲を拭い、指の関節の溝をなぞり、爪の間の砂利を布の端でかき出した。不器用な作業だった。右手の掌を開こうとするたびに拳の腫れが抵抗し、指の間まで拭ききれない。それでも、泥の塊と砂利の大半は落ちた。
問題は、そのあとだった。
布を持っているのは左手で、拭き終わったのは右手。汚れたまま残っているのは、布を握っている左手そのものだった。右手に布を持ち替えようにも、腫れた指では布を掴む力が足りない。布が指の間からずり落ちかける。
手が止まった。
少女が、何も言わずに手を伸ばした。
レオンの左手から布を取り上げ、水筒の水で布を湿らせ直し、そのままレオンの左手を取った。掌を上に返し、指の関節を一本ずつ拭いていく。爪の間に詰まった砂利を布の角で丁寧にかき出し、掌の擦り傷のかさぶたの周囲を避けながら、泥を拭っていく。手つきが正確だった。力は入れていないのに、必要な場所だけに布が触れている。
レオンは、されるがままだった。
拒絶の言葉が出なかった。声が出ないからではなく——他人に手を拭かれるという行為が、想像していたより遥かに居心地が悪くて、その居心地の悪さに圧倒されて動けなかった。
十秒もかからなかった。少女は左手の汚れを拭き終えると、布を畳んで脇に置き、何事もなかったように食事の布包みを開き直した。
「どうぞ」
パンを差し出す手が、途中で止まった。
レオンの左手が、先にパンを掴んでいた。
いつ手を伸ばしたのか、レオン自身にも分からなかった。身体が勝手に動いた。飢えた獣の反射だった。思考より先に、痩せた指が黒いパンの表面に食い込んでいる。右手は膝の上に残ったまま——右拳の腫れが邪魔で、持ち上げるのが遅れたのだ。左手一本で奪い取るような形になった。
——待て。
頭の中で制止が掛かった。遅かった。左手はすでにパンを口元に運んでいた。
最初の一口は、噛み千切るというより、歯を立てて引き剥がす動作だった。硬いパンの表皮が顎に抵抗する。乾ききった口の中に唾液が湧いてくるまで数秒かかり、その間レオンは黒パンの欠片を舌の上に載せたまま、ただ待った。唾液がようやく染み出し、パンがふやけ始めた瞬間、飲み込んだ。
喉を通るとき、粘膜の裂傷が擦れて痛みが走った。だが胃に落ちた食物の重みが、痛みを上書きした。空っぽの胃が食物を受け取り、身体のどこかで何かが弛緩した。
二口目は、一口目より速かった。三口目はもっと速かった。
パンの半分を食い破ったところで、手が干し肉に伸びた。左手にパンを握ったまま、干し肉の端を歯で咥え、首を振るようにして噛み切った。硬い繊維が歯と歯の間で裂ける感触。千切れた肉片を舌で奥へ送り、また左手のパンに齧りつく。革袋の口を歯で引き開け、中身を口に注いだ——水だった。少量の蜂蜜が混じった、ぬるい水。喉が焼けるように痛んだが、水が胃に流れ込む感覚が痛みを押し返した。右手が使えない以上、全てが歯と左手の共同作業だった。パンを持ち、齧り、置き、干し肉を掴み、口に運び、歯で引きちぎり、また水を飲む。器用さではなく、飢えの勢いがそうさせていた。
食べている間、レオンの意識はほとんど食物にしか向いていなかった。
だから、対面の少女が座席に深く腰を預け直し、組んだ手を膝の上に置いたまま、一歩引いた距離感でこちらを見つめていることに気づいたのは、パンの最後のひとかけらを飲み込んだあとだった。
少女の目が、レオンの口元と手元を追っていた。じっと。静かに。眉を寄せるでも顔をしかめるでもなく、ただ見ている。学者が未知の標本の挙動を記録するときのような——あるいは、稀少な獣の食餌行動を、息を殺して観察するときのような——そういう目だった。
視線に気づいた瞬間、レオンの左手が止まった。
口の周りにパンの粉がついていた。干し肉の脂が顎に光っている。膝の上にはパンくずが散っている。指先が蜂蜜水で濡れている。
――見られていた。全部。
顔が熱くなった。三度目だった。今朝だけで三度、この少女の前で顔を赤くしている。
少女が口を開いた。
「足りますか?」
声に、まだあの光があった。嘲笑ではなかった。見下しでもなかった。だが、純粋な心配とも違う何かが——好奇心と言い切れない、もう少し底の深い何かが——声の底に沈んでいる。
レオンは掠れた息で答えた。声にはならなかった。だが首を横に振ることはしなかった。
——足りるわけがない。
胃がまだ鳴ろうとしていた。だが、さすがにこれ以上は恥の上塗りだった。レオンは膝の上のパンくずを左手で払い——右手を動かそうとして、拳の痛みに眉を歪め——そのまま不自然に右手を引っ込めた。
少女の視線が、その右手の動きに一瞬止まった。
「——ひとつ、聞いてもいいですか」
少女の声が、穏やかに切り出した。
レオンが顔を上げた。
「さっき目が覚めたとき——私と目が合った瞬間、首を隠しましたよね。肩を丸めて、顎を引いて、身体を小さくした。咄嗟に」
間を置いて、少女は続けた。
「それと、今の食事の間もずっと——背中を座席の角に押しつけて、身体を後ろの幌に寄せていた。食べ物を口に運ぶときも、腕を伸ばさない。全部、自分の身体の幅の中だけで済ませていた。出入口の方に背を向けることも、一度もなかった」
空気が変わった。
指摘されて初めて、レオンは自分の身体の配置を意識した。背中は座席の角——壁と背もたれが交わる最も硬い部分——に押しつけたまま。馬車の後方、幌の垂れ布がある出入口に対して、身体が斜めに向いている。背後を壁に預け、脅威が入ってくるとすればそこからだという方向に、無意識に身体を向けていた。食事の間もそうだった。パンを齧るときも、水を飲むときも、食物は常に胸元に引き寄せ、腕を前方に大きく伸ばすことをしなかった。
戦場の食事だった。いつ襲撃があるか分からない野営地で、壁を背に、出入口を視界に入れ、身体を小さくして食べる。あの習慣が——レオンの身体に染みついた何百回もの食事が——今のこの少女の手にも、座り方にも、そのまま残っていた。
「普通の女の子は、そんな座り方をしません」
少女の声は穏やかだった。だが、その一言が含んでいるものの重さを、レオンは分かっていた。見抜かれた。一つ一つの動作ではなく、身体の置き方そのものに刻まれたものを、この少女は読み取っていた。
レオンの視線が逸れた。窓の布の隙間を見た。林の影が流れている。何か言わなければと思ったが、言い訳の形が浮かばなかった。
「……別に」
掠れた音が漏れた。声というにはあまりに薄い。息の隙間に辛うじて挟まった音。だがそれだけで喉が痛み、次の言葉が続かなかった。
「無理に答えなくていいです」
少女は追及しなかった。声の柔らかさは変わらなかった。だが目は、変わっていた。さっきまでのパンを食べるレオンを見ていたときの好奇心とも違う、もっと——
奥にあるものを確かめるような光。
その光が、一瞬だけ別の色を帯びた。
レオンには分からなかった。分からなかったが、空気が変わったことは感じた。少女の目の奥で何かが計算されている——欲しいものの形を確かめるように、秤に載せているような——そういう気配が、ほんの一瞬だけ滲んだ。
次の瞬間には消えていた。あるいは、最初からなかったのかもしれなかった。朝の光が幌の隙間から差し込む角度が変わり、少女の目元に影が落ちただけかもしれなかった。
「——申し遅れました」
少女が姿勢を正した。背筋は最初から伸びていたが、声の調子が僅かに改まった。
「クラリス・アークライトです。アークライト侯爵家の者です」
侯爵。
その単語が、レオンの中で何かに引っかかった。侯爵家。上位貴族。護衛の数、馬車の質、この座席の柔らかさ。全部が繋がった。
レオンは、自分の名前を返さなければならなかった。
「……レ、オナ」
喉が軋んだ。二文字目で声が途切れかけ、三文字目は空気の震えだけだった。
家名は言わなかった。言えなかった。ローゼンフェルトの名は、今のこの姿には重すぎる。ギルドに登録した名前は「レオン」だったが、それもまた——今の身体には嵌まらない音だった。
クラリスは、家名がないことに触れなかった。ただ頷いて、名前を繰り返した。
「レオナさん」
呼ばれた。名前を。
それだけのことが、妙に胸を圧した。こんな名前だ。借り物のような、半端な、自分で選んだわけでもない名前。だが他人の口から出てくると、その名前がここに座っている自分を指していることが——否応なく確かになった。
「昨日——」クラリスが言葉を選ぶように間を置いた。「街道で倒れていたあなたを、護衛が見つけました。馬車で運んでいます。目的地はアークライト領の本邸です」
説明は簡潔だった。無駄がなかった。だが、そこに挟まれた情報の量を、レオナの頭は処理しきれなかった。
倒れていた。運ばれた。目的地は侯爵家の本邸。
——俺は、この人間の馬車に載せられて、侯爵家に向かっている。
受け入れがたかった。あの慟哭の後、意識を失い、知らないうちに他人の庇護の中に収まっていた。誰かに運ばれ、柔らかい座席に寝かされ、額に手を置かれ——
——借りが、増えている。
胸の中で、何かが身じろぎした。借り。貸し。返す。返さなければならない。返す方法も見当もつかない状態で、借りだけが積み上がっていく。
レオナは背もたれから背中を剥がそうとした。足を床に下ろし、立たなければ。自分の足で立って、この場所が自分の場所ではないことを確認しなければ。
左足を床に下ろした瞬間、踵が焼けた。
剥き出しの肉が馬車の床板に触れた。木の表面に薄皮のない肉が張りつき、踵から足首へ、足首から膝へ、刃物を押し当てられるような痛みが一気に駆け上がった。声が出なかった。出ないことが、かえって痛みを身体の内側に閉じ込め、全身を硬直させた。
左足を引き戻した。右足も下ろせなかった。右足甲の火傷のかさぶた縁が、座席の布に引っかかって軋んでいる。こちらも床に触れれば同じことになる。
「——動かないでください」
クラリスの声だった。命令ではなかった。だが、有無を言わせない確かさがあった。
「足の状態は昨夜のうちに確認しています。両足とも、このまま歩けば感染の危険がある。特に左の踵は——」
言いかけて、止めた。視線がレオナの顔に戻る。レオナが何を言おうとしているか、声が出る前に読んだような間だった。
「……大丈夫、とは言わせません。あなたの足は大丈夫ではありません」
静かだった。怒っていない。呆れてもいない。ただ、事実を事実として差し出している。
レオナは何も言えなかった。声も出ず、反論の材料もなく、足は動かず、腹はさっきまで鳴っていた。強がる余地が、どこにもなかった。
座席に背中を戻した。肩甲骨の打撲が鈍く疼いた。視線を膝に落とした。膝の上の、泥で汚れたチュニックの布地を見た。
「……借りは」
声ではなかった。息だった。喉が音を拒んで、空気だけが唇の間から漏れた。
だがクラリスは聞き取ったらしい。
「借り?」
「……返す」
二文字が限界だった。喉の粘膜が擦れ、咳き込みそうになるのを歯を食いしばって堪えた。
クラリスが、少しだけ目を細めた。
「そうですか」
それだけだった。否定も肯定もしなかった。ただ受け取った。借りは返す。——その言葉を、取引の言語として受け取ったのか、もっと別のものとして受け取ったのか、レオナには分からなかった。
馬車が揺れた。車輪が大きな石を跳ねたらしく、座席が一度浮いて沈んだ。レオナの身体が跳ね、足裏が床に触れかけて——
反射的に両足を持ち上げた。腹筋が悲鳴を上げた。膝を抱えるように丸まり、足裏が何にも触れない体勢を維持した。
クラリスが立ち上がった。馬車の天井に頭がつきそうな高さの中で、腰を屈めて荷物の中から何かを引き出した。薄い布の束だった。
「応急の処置だけさせてください。感染を防ぐためです」
レオナの足に手を伸ばす前に、視線で確認を取った。触れてもいいか、という問い。
レオナは頷いた。頷くしかなかった。
クラリスの手が、レオナの左足首に触れた。指先が冷たかった。乾いていて、力加減が正確だった。足裏の状態を確認するように、踵を持ち上げ、傷口を光に当てた。
表情は変わらなかった。少なくとも、レオナの位置からは見えなかった。クラリスが何を見て何を判断しているかは、その手の動きからしか読み取れなかった。
手が止まった。一拍。
「——治癒魔法を使えますが」
クラリスの声が、注意深く言葉を置いた。
「今すぐ使うこともできます。ただ、あなたの体質を考えると、少し確認してからの方がいいかもしれない」
体質。
その単語に、レオナの意識が引っかかった。何を知っている。何を見ている。昨夜、何を——
「魔力の反応が、ないんです。まったく」
クラリスの声に動揺はなかった。だが——その「まったく」の後に、一拍の間があった。空白を楽しんでいるような、確かめているような、微妙な間。
「普通はあり得ません。生きている以上、微量でも魔力は体内を循環している。それが——あなたには、ない。完全にゼロ。だから治癒魔法を使った場合、抵抗が一切ないので、通常より深く効果が浸透する可能性がある。問題は——」
言いかけて、また止めた。言葉を選んでいる。
「——それが良い方向に出るとは限らないということです。もう少し体力が戻ってから、注意深く使った方が安全だと、私は判断しています」
合理的だった。筋が通っていた。足の傷は感染の危険がある。だが治癒魔法の効果が予測できない以上、まず基礎体力を戻すべきだ。医師が言うなら納得する理屈だった。
だが、レオナの中の何かが——戦場で磨かれた、理屈ではない部分が——この少女の言葉の奥に、説明されていないものを感じ取っていた。
何を考えている。
なぜ、魔力ゼロの身体を「あり得ない」と言いながら、怯えも嫌悪もしていない。なぜ、治癒魔法の効果が「深く浸透する」という話を、脅威ではなく——可能性として語っている。
分からなかった。分からないまま、クラリスは薄い布を足裏に巻きつけ、丁寧に結び終え、元の座席に戻った。
馬車が走り続けている。揺れは穏やかだった。窓の布の隙間から、林の影が流れていくのが見えた。朝の空気が、幌の縫い目から入り込んでいる。
沈黙が流れた。長い沈黙ではなかった。だが、その数秒の間に、クラリスの目がレオナの全身を一度だけ、静かに走査した。泥まみれのチュニック。腫れた右拳。左頬のかさぶた。腰布に差したままの粗悪なナイフ。そして——布で包まれた両足。
視線が最後に止まった場所は、レオナの左手だった。
甲に残る、白い裂傷痕。
クラリスは昨夜もこの傷痕を見ていた。今朝も見ている。二度見て、二度とも何も問わなかった。
代わりに、違うことを訊いた。
「レオナさん」
名前を呼ばれると、胸が詰まる。まだ慣れていなかった。
「ひとつだけ——どうしても気になることがあるんです」
クラリスの声が、ほんの僅かだけ温度を変えた。柔らかさの中に、針の先ほどの鋭さが混じった。好奇心の表面が一枚剥がれて、その下にある切実なものが——ほんの一瞬だけ顔を覗かせた。
「あなたは、どこでその『生き延びる術』を覚えたの?」
敬語が崩れた。一文だけ。崩れたことにクラリス自身が気づいたのかどうか、レオナには分からなかった。
だが——問いの重さは、分かった。
答えは簡単だった。戦場だ。前線だ。何年も。何十回も。殺して殺されかけて、最後には最強と呼ばれるまで。
その答えを、今のこの口で——この声で——この身体で——言えるのか。
言えなかった。
声が出ないからではなかった。声が出たとしても、言えなかった。
レオナは、クラリスの目を見た。見て、視線を逸らした。窓の布の隙間から見える林の影を見た。光が揺れていた。木漏れ日が、馬車の速度に合わせて流れている。
沈黙が、答えの代わりに落ちた。
クラリスは待った。
待って——追及しなかった。
「……ごめんなさい。今でなくていいです」
敬語が戻っていた。声の鋭さは引っ込んでいた。だが、問いを撤回したわけではないことを、レオナは分かっていた。
この問いは、消えない。この少女は——クラリスは——答えを待つ。今日でなくても、明日でなくても。答えが出るまで、隣にいて、待つ。
それが好意なのか、計算なのか、レオナにはまだ見分けがつかなかった。
馬車が揺れた。朝の光が、少しだけ強くなった。




