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礼装のレオナ〜最弱へと転落した最強の男が、真の強さを知るまで〜  作者: 今井 幻


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第13話「手のひら」

 動けなかった。


 仰向けのまま、目だけが動いている。夜の空を背にしたその少女の輪郭を、ぼやけた視界で捉えていた。ランタンの灯りが髪の端を金色に染めている。顔の半分は影に沈んで、目だけが静かに光を湛えていた。


 敵意は、ない。


 それだけは分かった。何もかもが遠くなっていく意識の中で、殺気を嗅ぐ勘だけが最後まで動いている。この少女の気配には、殺意がない。害意もない。少なくとも——今は。


 少女の手が動いた。


 腰に下げていた革袋を外し、栓を抜く。水筒だった。小ぶりで、丁寧に縫われた革の表面が灯りに鈍く光る。少女はそれをレオンの口元ではなく、胸の横に静かに置いた。


「飲めますか」


 穏やかだった。命令でも、施しの言い方でもなかった。ただ事実を確認する声。返事を待っている。


 飲める。飲みたい。喉の奥がひび割れた地面のように乾いて、舌が上顎に貼りついている。水の匂いがする。革袋の口から立ち上る、かすかな湿り気。鼻腔の粘膜が、それだけで痛みに近い反応を返した。


 右腕を動かそうとした。


 肩から先が、重い。泥の中に沈んでいるような鈍さが腕全体を覆っている。指先に意識を集中する。動け。動け。親指が震えた。人差し指が曲がった。中指が追った。掌が開き、閉じかけ、もう一度開いた。


 水筒に手を伸ばした。


 届くまでが長かった。胸の横に置かれているだけなのに、指先が革の表面に触れるまでに何度も腕が止まった。たどり着いて、握る。右拳の打撲が脈拍に合わせて痛んだ。腫れた指の関節が水筒の曲面を捉えきれない。


 持ち上がらなかった。


 水筒の重さは、片手で扱えるほどのものだった。それが分かっている。分かっているのに、手首から先に力が入らない。腕が途中で折れるように下がって、水筒が傾いた。


 掌から滑りかけた瞬間——下から、手が差し込まれた。


 小さな手だった。レオンの手よりも少しだけ細く、少しだけ冷たい。爪が短く整えられている。手入れの行き届いた指先が、水筒の底とレオンの手の甲をまとめて包むように支えた。力は強くない。だが正確だった。水筒が傾く角度を読んで、落下の方向を塞いでいる。


 レオンの手が、反射的に引こうとした。


 意思ではなかった。身体が勝手に動いた。掴まれた手を振りほどく——何年もかけて染みついた動作が、枯れきった筋肉の奥から這い出してきた。手首を捻り、接触面を削ぎ、相手の握りの隙間を突いて抜く。その初動だけが、震える指先の中で発火した。


 少女の手が、止まった。


 引かなかった。押し返しもしなかった。レオンの手首が僅かに捻れるのを感じて、その力の方向だけを正確に受け止めた。そしてそのまま——何事もなかったかのように、水筒を支え続けた。


 レオンは動けなくなった。引こうとした力も、握ろうとした力も、同時に失われた。手だけが、少女の掌と水筒の間に挟まれたまま震えている。


 少女の目が、動いた。


 レオンの右手を見ている。水筒を握り込んだ指の形を、追っている。腫れて変色した拳と、それでもなお水筒を離すまいとする握りの深さ。少女の視線がそこで止まり、僅かに細められた。何かの判断を下すような——あるいは、判断を保留するような、短い停止だった。


 少女は何も問わなかった。


 水筒の握り方について。少女には不釣り合いな、あの防御反応について。何一つ。口を開かず、ただ右手の力を少しだけ強くした。水筒を支える手が、レオンの手ごと、持ち上げた。


「ゆっくりで構いません」


 水筒の口がレオンの唇に触れた。


 水が流れ込んできた。


 ぬるかった。生温い、ただの水。味も香りもない。それが、裂けた喉の粘膜を滑り落ちていく。痛かった。嚥下するたびに喉の奥が燃えるように軋んだ。だが止められなかった。一口が二口になり、三口目で咽せた。肺に入りかけた水が気管を刺激して、身体が跳ねるように震えた。


 少女の手が、水筒を離した。もう片方の手が、レオンの肩甲骨の下に差し入れられた。上体を僅かに起こす。角度にして十度もないだろう。それだけで気管から水が抜けて、呼吸が戻った。


 咳が止まるのを、少女は待った。


 手は離さなかった。肩甲骨の下に差し入れた手も、レオンの右手を支える手も、どちらも。じっとしていた。レオンの呼吸が整うまで、微動だにしなかった。


 レオンの視界が、少しだけ透明になった。


 水のおかげだった。脱水で霞んでいた視神経に、わずかな潤いが戻っている。ぼやけていた輪郭が、輪郭として結ばれる。少女の顔が——初めて、見えた。


 若かった。レオンと同じか、少し下。整った顔立ちの中に、少女らしい柔らかさと、それを裏切るような落ち着きが同居している。感情は静かだった。しかし冷たくはなかった。炎ではなく、深い水に似ている。底が見えない。その水の表面に、レオンの姿がひどく小さく映っている。


 少女の手が、肩甲骨の下から引き抜かれた。


 その手が、下へ降りた。レオンの身体の脇を通り、草の上に投げ出されたままの——左手に、触れた。


 指先が甲の上を滑った。泥と砂利にまみれた皮膚の上を、少女の指がゆっくりとなぞっていく。そして——止まった。


 甲の中央。一本の白い線。


 周囲の汚れや擦り傷とは質の違う、古い裂傷の痕。刃物で刻まれた、直線に近い傷跡。治癒してなお皮膚に刻まれたまま消えなかった、白い溝。


 少女の瞳が、その線の上で静止した。


 呼吸のリズムが、一拍だけ変わったように見えた。吸う息が深くなり、吐く息が遅くなった。瞬きの間隔が伸びた。目が細められたのではない。見開かれたのでもない。ただ、焦点が絞り込まれた。レオンの顔でも身体でもなく、左手の甲の白い線だけを見ている。


 何を考えているのか、分からなかった。


 同情でも嫌悪でもない。恐怖でもない。レオンが知っている感情のどれとも違う何かが、少女の目の奥で動いている。それは——何かを測る目だった。値段でも戦力でもない。もっと別の尺度で、何かを量っている。


 少女は、白い傷痕の上で止まっていた指先を、そっと持ち上げた。触れる直前で浮かせていたのか、触れていたのか——レオンには分からなかった。ただ、指先が傷痕の輪郭を確かめるように宙をなぞって、離れた。


 そして——その手が、レオンの左手を包んだ。


 傷痕ごと。泥ごと。砂利ごと。何も拭わず、何も避けず、汚れた手のひらをそのまま、自分の両手の間に納めた。


 温かかった。


 ただ、それだけだった。手の温度。人の体温。冷たい夜気の中で、指先から伝わってくる、三十六度の熱。何の力もない。何の意味もない。ただの温度だった。


 それが——壊した。


 何を壊したのか、レオン自身にも分からなかった。胸の奥で何かが軋んだ。積み上げていたものが、根元から崩れ始めた。声を殺す筋肉。歯を食いしばる習慣。泣かないと決めた意志。俺は強い。俺はまだ終わっていない。俺は誰にも頼らない。その全部が、一気に剥がれた。


 小さく温かい手が、ぼろぼろの左手を包んでいる。


 それだけのことが、レオン・ローゼンフェルトが二十余年かけて築き上げてきた全ての壁を、嘘のように貫通した。


 喉から音が出た。


 声ではなかった。喉の粘膜は裂けている。声帯はまともに振動しない。それでも、肺の底から押し上げられた空気が、壊れた喉を無理やり通り抜けた。擦れた、引きちぎられたような音。呼吸と嗚咽の区別がつかない、ひどい音だった。


 身体が震えた。


 制御できなかった。腹筋が痙攣するように収縮して、肩が跳ねて、首が反った。目が熱い。鼻腔の奥が灼けるように痛む。涙が出ているのか、出ていないのか——脱水でろくに涙も出ないはずの目から、それでも何かが頬を伝った。


 止められなかった。


 泣いている。分かっている。分かっていて止められない。男だった頃から、泣いたことなどほとんどなかった。泣くのは負けだ。弱さだ。必要ないものだ。そう信じてきた。その信仰が、今、手のひらの温度一つで粉々にされている。


 左手が、少女の手を握り返していた。


 いつからか分からなかった。気がついたときには、砂利の食い込んだ指で細い手に縋りついていた。包まれた手が、逆に握り込んでいる。泥だらけの指が白い手を掴み、離すまいとしている。みっともなかった。惨めだった。最強の男が——元最強の男が——見知らぬ少女の手を握って、声にもならない声で泣いている。


 少女は、動かなかった。


 振りほどかなかった。声もかけなかった。「大丈夫」も「泣いていい」も言わなかった。ただ、握り返した。レオンが掴む力と同じだけの力で、静かに、握り返した。


 それが——もう一度、壊した。


 今度は声すら出なかった。喉が完全に閉じた。空気が通らない。口が開いたまま、音のない叫びだけが夜の中に消えていった。身体が丸まろうとして、背中の打撲が拒んだ。仰向けのまま、膝だけが曲がって、胎児のようにはなれない中途半端な姿勢で、レオンは泣き続けた。


 少女は——その間、一度だけ瞬きをした。


 長い瞬きだった。まつ毛が下がり、上がるまでに、普通よりも長い時間がかかった。目が開いたとき、そこには先ほどまでの静かな光に加えて、もう一つ——別の光があった。


 涙ではなかった。同情でもなかった。


 レオンの丸まろうとする身体を見ている。握り込む指の力を測っている。喉から出る壊れた音の周波数に、耳を傾けている。泣き方を——見ている。この少女は、泣き方そのものを、見ている。


 少女が泣いていないことに、レオンは気づいていなかった。少女の呼吸が乱れていないことにも。少女の手が震えていないことにも。寄り添いながら、その瞳の奥のどこかで、この少女が何か別のことを考えていることにも。


 レオンは何にも気づかなかった。


 ただ、温かかった。


 手のひらが温かくて、それ以外の全てが遠かった。夜の冷気も。身体の痛みも。護衛たちが何かを話している声も。馬車の馬が鼻を鳴らす音も。何もかもが水の底に沈むように遠のいて、手の温度だけが残った。


 どれだけそうしていたか、分からなかった。


 震えが収まった頃には、掴む力すら残っていなかった。指が緩んだ。少女の手から、自分の手が滑り落ちていく。それを惜しむ意志だけがあって、身体がもう応えなかった。


 視界が暗くなった。


 最後に見えたのは、少女が——こちらを見下ろしている、その目だった。静かで、温かくて、どこか遠い目。レオンのために流す涙を持たない代わりに、レオンの全部を見逃すまいとする、あの目。


 意識が落ちた。


  *


  *


 揺れていた。


 規則的な振動。木の軋む音。車輪が地面の凹凸を拾うたびに、身体の下の何かが僅かに跳ねる。柔らかい。布の匂い。薬草と、油と、革の混じった匂い。外から漏れてくる虫の声。馬の蹄が地面を叩く、一定の間隔。


 馬車の中にいた。


 いつ運ばれたのか分からない。目を開ける力もなかった。身体の感覚が遠い。痛みすらぼやけている。ただ——額に、何かが触れていた。


 手だった。


 冷たくて、心地よかった。熱を持った額の上に、ひんやりとした指先が載っている。押さえつけるのではなく、確かめるように。体温を測るように。あるいは——そこにいることを、教えるように。


 指先が、額に貼りついた髪をそっと避けた。仕草が丁寧だった。爪が肌に触れないよう、指の腹だけを使っている。乾ききった肌の上を一往復して、また元の位置に戻った。額の真ん中。その手は、レオンが意識を失ってからずっとそこにあったのかもしれなかった。


 あるいは、そうではないのかもしれなかった。


 分からなかった。分からないまま、レオンは再び暗がりの底に沈んでいった。温度だけを——冷たくて優しい温度だけを、手放さないまま。

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