第12話「届かない手」
灯りが、大きくなっていた。
ぼやけた視界の端で、黄色い光が揺れている。蹄の音が、地面を通して左の頬骨に響いている。一定の間隔。複数の馬。車輪が轍を噛む低い軋み。近い。もう、すぐそこまで来ている。
指が、動かなかった。声も出なかった。瞼を持ち上げているだけで、全身の力を使い果たしているような気がした。
——通り過ぎてくれ。
思考ですらない。祈りに近い何かが、干からびた頭の底を這った。こんな暗がりの道端に転がっている女に、誰が気づく。気づいたとして、誰が止まる。それでいい。構わない。もう、何も——
来た。
内臓が、縮んだ。
思考が追いつく前だった。胃の奥が冷たく握り潰されるような感覚が、腹の底から背骨を駆け上がった。枯れ切っていたはずの全身に、電流のような痺れが走る。意識混濁の霧が、一瞬だけ裂けた。
殺気だ。
馬車の方ではない。背中の向こう——北の藪の、さらに奥。暗がりの中に、何かが蹲っている。息を殺して、じっと待っている。待ち伏せだ。獲物が射程に入るのを、一秒ずつ測っている。
その殺意が、馬車に向いていた。
身体が動いた。
考えるより先だった。脳が命令を出す前に、左手が地面を掴んでいた。指の関節が軋む。爪の間に砂利が食い込む。腕が震えている。肘をつき、上体を起こそうとした。肋骨の下で何かが引き攣れて、息が詰まった。
構わなかった。
右手を前についた。打撲で腫れた拳が地面を押す重さに悲鳴を上げたが、痛覚を処理する余裕が脳になかった。両腕で身体を持ち上げる。膝を引きずった。右膝のかさぶたが地面に擦れて裂けた。温かいものが脛を伝い落ちるのが、どこか遠い感覚として届いた。
立てない。
膝が伸びなかった。太ももに力が入らない。何日も歩き続け、何日も食べず、何日も眠れなかった身体が、最後の命令を拒否していた。四つん這いのまま、地面を見つめた。馬車のランタンの灯りが、街道の土を黄色く染めている。もうすぐそこだ。
蹄の音が、止まらない。気づいていない。馬車の中の人間は、藪に潜んでいるものに気づいていない。
殺気が膨れ上がった。
背後の藪の中の何かが、跳ぶ直前の姿勢に移った。地面を蹴る力が溜まっていくのが、空気の振動として背中に届いた。レオンの全身が知っている感覚だった。戦場で、何百回と嗅いできた。獣が獲物を仕留める、最後の一呼吸前。
喉が動いた。
声は出なかった。出るはずがなかった。乾ききった粘膜が擦れて、引き裂かれたような痛みが喉の奥を走った。それでも横隔膜が痙攣し、肺が空気を絞り出し、声帯が無理やりに振動した。
出てきたのは、声とは呼べないものだった。
掠れた、細い、途切れ途切れの音。叫びの形をした呼気。蹄の音と車輪の軋みの中に、溶けて消えた。
「——ぁ、」
届いていない。分かっていた。あの音の壁の向こうに、この掠れた息が届くわけがない。
それでも四つん這いのまま、街道へ向かって這った。路肩の草地から、踏み固められた街道の土の上へ。両手が交互に地面を掻く。膝が引きずられる。足裏の水膨れの残骸が剥き出しの肉ごと土に擦れた。知覚が追いつかないほどの痛みが、しかし四肢を止めなかった。
止められなかった。
身体が、勝手に動いていた。頭が命じたのではない。筋肉が覚えている。骨が覚えている。戦場で培った反射が、枯れた身体の底から這い出してきて、四肢を操っていた。殺気の方角と馬車の位置を、崩れかけた意識の中で測っている。間に入れ。遮れ。それだけが、身体中を駆け巡っている。
「——っ、」
もう一度、喉が震えた。喉の粘膜がさらに裂けた感触があった。高い、細い、空気の擦過音が漏れて——蹄の音に踏み潰された。誰の耳にも届かないまま、夜の街道に散った。
それでも這った。街道の土の上に、身体の半分が乗り出していた。ランタンの灯りが、地面を這う小さな影を照らしていた。
殺気が、弾けた。
背後で藪が裂けた。
枝が折れる音。地面を蹴り砕く衝撃。レオンの背中の上を、風が抜けた。圧倒的な質量が、空気を押し退けて頭上を越えていく。
四つ足の獣だった。
長い跳躍だった。北の藪を突き破り、路肩を飛び越え、街道の土の上へ。馬車のランタンの灯りが、宙にある巨体を一瞬だけ照らした。裂けた口。ぎらつく目。剥き出しの牙。熊と狼の間にいるような、歪に太い体躯。首から上が不自然に大きく、顎の骨格が左右に裂けるように広がっていた。
着地が来た。
獣の前脚が、レオンのすぐ傍の路面を叩いた。地面が揺れた。四つん這いの両手に衝撃が走った。そして着地した後脚が、駆け出す勢いのまま地面を蹴った——その脚が、路上に這いつくばっている小さな身体を横薙ぎに払った。
獣は、見てすらいなかった。
馬車だけを見ていた。路上に何かがいることに、最初から気づいていなかった。ただ踏み砕くべき地面の一部として、足元を通り過ぎただけだった。
レオンの身体が横に弾かれた。
四つん這いの姿勢には、踏ん張れるだけの筋力も残っていなかった。硬い後脚に腰と脇腹を払われ、両手が地面から剥がされた。街道の土の上を転がった。一度、二度、三度。踏み固められた路面から、反対側の路肩を越え、南側の草地に投げ出された。
背中が地面に叩きつけられて、止まった。
衝撃で肺の空気が全部抜けた。後頭部が草地の土に打ちつけられ、視界に白い光が散った。
——動け。
命じた。身体は応えなかった。仰向けのまま、空を見ていた。星が出ていた。それだけが、はっきりと見えた。
音が遠い。
街道の方で、何かが起きていた。蹄が暴れる音。馬の嘶き。そしてそれらを切り裂くように、短く鋭い声が飛んだ。
「——二番、回り込め。三番は馬を抑えろ」
男の声だった。命令。簡潔で、淀みがない。恐怖の色が、一切なかった。
金属が鳴った。
抜刀の音ではなかった。刃が肉を断つ音だった。一閃。間を置かず、もう一撃。獣の唸りが途切れた。短い悲鳴のようなものが上がって、重い塊が地面に落ちる振動が伝わってきた。
それだけだった。
始まりから終わりまで、十秒とかかっていなかった。
レオンは仰向けのまま、動けずにいた。背中の下の草が冷たかった。呼吸が戻らない。肺が痙攣して、浅い息を繰り返している。視界の端で、ランタンの灯りが揺れていた。
護衛だ、と思った。
馬車に護衛がいた。あの声は指揮官のものだ。命令の出し方、反応の速さ、間の取り方。すべてが訓練された動きだった。獣が飛び出した瞬間に対応が始まり、獣が地面に転がる前に処理が終わっていた。
レオンが何かをする前に。
レオンが這い出す前に。
レオンが声を絞り出す前に——いや、声は出した。あの掠れた音を。あの、何の力もない、蹄の音にかき消されて誰にも届かなかった音を。
それが何を変えた。
何も変わらなかった。
護衛たちは自分たちだけで対処し、獣は倒れ、馬は落ち着きを取り戻しつつある。街道の反対側に転がっている小柄な少女が何をしたか——何もしていない。何も、できなかった。殺気を嗅ぎ取った。間に入ろうとした。喉が裂けるほど叫んだ。それだけだ。
それだけのことが、何ひとつ状況に影響を与えなかった。
払い飛ばされた。獣の後脚が通り過ぎただけだ。狙われたのではない。攻撃されたのでもない。足元にいた石ころと同じだった。地面を蹴る脚が、たまたま触れた小さなものを弾いた。踏み潰されなかっただけましだ。障害物ですらなかった。
——守ろうとした。
誰を。何から。この身体で。この手で。
仰向けのまま、左手を持ち上げようとした。指が震えている。力が入らない。半ば開いた手のひらが、星に向かって伸びた。
届かなかった。
腕は途中で止まり、力を失って落ちた。手のひらが、自分の胸の上に落ちた。鎧下のチュニックの布越しに、心臓の拍動が指先に届いた。速い。まだ動いている。こんなに壊れた身体でも、心臓だけは動き続けている。それが、ひどく滑稽に思えた。
足音が聞こえた。
複数。街道の上を、こちらに向かって歩いてくる。速くはない。警戒しながら近づいている足音だった。
「——生きているのか」
男の声。さっき命令を出した声と、別の声だった。低く、抑制された響き。職務的な確認の口調。
「街道の反対側に倒れていた女です。灯りの中で動いているのが見えました——獣が出る前から、這い出していました」
別の男の声が応じた。もう少し近い。靴底が草を踏む音が、耳元に迫っている。
「……獣の気配に、先に気づいていた?」
「分かりません。ですが、獣が飛び出す前に——もう街道に出ていました」
間があった。二人の男の気配が、レオンの頭上で交差した。品定めではない。だが、警戒を完全には解いていない。当然だ。夜の街道で、魔獣の直前に倒れていた身元不明の少女。怪しくないわけがない。
レオンは何も言えなかった。声は出ない。身体は動かない。仰向けのまま、知らない男たちの影を見上げていた。
足音が、もうひとつ増えた。
軽い。先の二人とは違う。靴底の音が柔らかい。歩幅が小さい。だが、迷いのない歩調だった。草を踏む音が近づいて、二人の護衛の間を通り抜けて、レオンのすぐ傍で止まった。
「お嬢様、危険です。まだ周囲の安全を——」
「確認は任せます。この方を放置することはできません」
女の声だった。
若い。凛として、落ち着いている。だが冷たくはなかった。声の芯に、静かな熱がある。護衛の制止を遮った口調は穏やかだったが、その穏やかさの底に、退かないという意志が据わっていた。
衣擦れの音がした。誰かがしゃがみ込む気配。膝が草を押す。布が風に触れて鳴る。すぐ傍に、人の体温が降りてきた。
「聞こえますか」
声が、近かった。
すぐ上から降ってくる。手を伸ばせば届くほど——いや、手は伸ばせない。伸ばす力が残っていない。ただ、声の主の気配だけが、ぼやけた意識の中で確かに感じられた。
清潔な布の匂い。微かな薬草の残り香。冷たい夜の空気とは違う、人の体温が近くにある感覚。
「大丈夫。もう安全ですから」
レオンは目だけを動かした。仰向けのまま。
そこに、一人の少女がいた。
レオンの傍にしゃがみ込み、こちらを見下ろしている。背後のランタンの灯りが輪郭だけを金色に縁取って、顔は半ば夜の影に沈んでいた。その中で——こちらを見つめている目だけが、静かに光を湛えていた。




