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礼装のレオナ〜最弱へと転落した最強の男が、真の強さを知るまで〜  作者: 今井 幻


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第11話「行き倒れ」

 街道は、どこまでも同じだった。


 轍の跡が二本、乾いた土の上を西へ伸びている。道の両脇には丈の低い草が生え、ところどころに名前の知らない灌木が固まっている。それだけだった。人の姿はなく、荷馬車の音もなく、鳥の声すら遠い。


 レオンは歩いていた。


 オランの西門を出てから、何日が経ったのか。三日か、四日か。数えるのをやめたのは、数えても意味がなかったからだ。行き先を決めていない人間にとって、経過した日数は距離ではない。ただの消耗だった。


 足裏が地面に触れるたびに、鈍い痛みが脚の芯まで突き上げてくる。左踵の水膨れはとうに潰れて、剥き出しの肉が砂利を拾っていた。右足の甲は火傷の皮がめくれた箇所がかさぶたになりかけているが、歩くたびにその縁が引っ張られて裂ける。足を引きずるようにしか進めなくなったのは、昨日の昼からだった。


 喉が渇いていた。


 最後に水を飲んだのがいつだったか、正確には覚えていない。昨日の朝、街道脇の小さな水溜まりを見つけて、四つん這いになって口をつけた。泥の味がした。それきりだった。


 腹は、もう痛まなくなっていた。最初の一日は胃が絞られるように鳴っていたが、二日目の夜から鳴ることすらやめた。空腹は体の奥に沈んで、代わりに全身がぼんやりと重くなった。足に力が入らない。腕が持ち上がらない。頭の中に薄い靄がかかっている。


 腰に差した粗悪なナイフの重さだけが、まだ確かだった。


 木柄が右の腰骨に当たって、歩くたびに皮膚を擦る。チュニックの布越しでも痛い。だが、それを差し替える気力もなかった。ナイフを抜いて持ち直す、それだけの動作に使う体力が惜しい。


 日が傾いていた。西の空が赤黒く染まり始めている。街道の先に、集落の影も宿場の灯も見えない。道だけが、同じ色の土の上を、同じように続いている。


  *


 三日間のどこかで、火を起こそうとしたことがあった。


 燧石と鉄片を取り出して、枯れ草を集めて、石を打ち合わせた。あの野犬の夜には、この手順で火を起こせた。道具がある。手順も覚えている。


 だが、石を打つ腕が震えて、火花がまともに飛ばなかった。十回、二十回と繰り返すうちに、右手の打撲が痛みを思い出したように腫れて、指が石を取り落とした。拾い直す。打つ。落とす。三度目に石が草の中に転がったとき、それを探す気力が残っていなかった。


 這うようにして石を探し当て、懐に戻した。火は起きなかった。


 道具があっても、それを使う体が壊れていれば同じことだった。


  *


 風が出てきた。


 日が落ちかけると、街道を横切る風が冷たくなる。チュニックの襟ぐりから風が入り込んで、露出した左肩の肌が粟立った。腕を抱えて風を防ごうとしたが、それだけで歩調が崩れて、右足が石を踏んだ。火傷の縁が裂けた感触があった。


 足を止めた。


 呼吸が浅かった。吸っても吸っても、肺の底まで届かない。喉の奥が乾いて張りつくような感覚がして、唾を飲み込もうとしたが、飲み込む唾がなかった。


 街道の脇に、拳大の石がいくつか転がっていた。少し先に、低い灌木の茂みがある。あそこまで行けば、風を背中で受けずに済むかもしれない。


 足を動かした。左、右。左の踵が地面に触れるたびに、ひりつく痛みが足首を伝って膝まで上がってくる。あと十歩。数える余裕があるうちは、まだ歩ける。七歩。五歩。


 灌木の手前で、足が止まった。


 茂みの向こうに、何かがいた。


  *


 低い影が、灌木の根元でこちらを見ていた。


 犬だった。野犬。痩せている。肋骨の形が毛の下に浮いていて、毛並みは薄汚れた灰色。街道沿いの廃村や牧草地の端に棲みつく、よくいる類の野良だった。


 一匹だけだった。群れではない。


 レオンは動かなかった。動けなかった、というほうが正しい。足を止めた瞬間、膝の力が抜けかけていた。


 首の後ろは、沈黙していた。殺意はない。この犬はレオンを狩りに来たのではなく、同じように腹を空かせて、街道の脇にいただけだった。


 犬が鼻を動かした。


 何かの匂いを嗅いでいる。レオンの足元——血の匂いだろう。足裏の傷から、歩くたびに薄い血が滲んでいた。地面に点々と、レオンが歩いてきた方向へ血の跡が続いている。


 犬が一歩、近づいた。


 レオンの右手が、無意識に腰のナイフに触れた。柄の木が指に当たる。握ろうとした。だが、ナイフを抜いたところで、この手に何ができる。あの夜は枝を使って野犬の群れを追い払えた。あのときは、まだ走る力があった。声を出す気力があった。火を起こせた。


 今は、そのどれも残っていなかった。


 ナイフの柄から手を離した。


 代わりに、足元の石を拾った。拳大の、角の丸い石。右手で握る。握れた。打撲の痛みが手の甲から手首に走ったが、石の重さは感じた。


 犬が、もう一歩近づいた。距離は五歩ほど。灌木の影から出て、街道の乾いた土の上に立っている。尾は下がっている。攻撃の姿勢ではなかった。ただ、弱った獲物の匂いに引き寄せられた飢えた獣が、様子を窺っていた。


 レオンは石を持った右腕を振り上げた。


 ——振り上がらなかった。


 肩の高さまで腕を持っていこうとした瞬間、腕の筋が痙攣するように震えて、止まった。石の重さが、腕を引き戻す。持ち上げようとする。肘が伸びない。肩から先に力が入らない。


 歯を食いしばった。腕を振れ。石を投げろ。たったそれだけのことだ。


 腕が下がった。


 石が、手から滑り落ちた。乾いた土の上で、こつ、と短い音を立てて転がった。それだけの音だった。犬を驚かすには足りない。追い払うには、もっと足りない。


 犬が、首を傾げた。


 それだけだった。片耳を立てて、もう片方を倒して、濁った目でレオンを見た。吠えもしなかった。唸りもしなかった。ただ、首を傾げた。目の前の存在が何なのか、脅威なのかそうでないのか、判断する必要すらないという顔だった。


 ——石一つ、投げられない。


 足元に落ちた石を、レオンは見下ろした。拳大の、角の丸い石。さっきまで握っていたもの。それが今、足元の土の上にある。


 かつて、鉄の大剣を片手で振り回していた。アイアンファングの群れを一人で蹴散らした。戦場で自分の背後を心配したことは、一度もなかった。


 今、痩せた野犬に石ひとつ投げられない。


 犬はしばらくレオンを見ていた。やがて、興味を失ったように鼻を地面に戻し、灌木の向こうへ歩いていった。追い払われたのではなかった。ここにいても得るものがないと判断して、自分から離れただけだった。


 レオンは、その背中を見ていた。


 追いかける力もなかった。追いかける理由もなかった。


  *


 歩き出そうとした。


 左足を前に出した。右足を引きずった。三歩。四歩。灌木を通り過ぎて、また同じ街道に出た。西の空は赤から紫に変わりかけていた。地平線の近くだけが、まだ薄い橙色を残している。


 五歩目で、膝が折れた。


 右膝から落ちた。かさぶたが裂けて、乾いた土に血が散った。両手を突いた。右手の打撲が、地面の衝撃で肘まで響いた。


 顔を上げた。街道は、まだ続いていた。同じ轍の跡が、紫がかった空の下を西へ伸びている。


 起き上がろうとした。


 腕が震えた。肘が伸びない。体を持ち上げようとするたびに、腕の筋がぶるぶると細かく震えて、体重を支えられずに肘が曲がる。三度試みた。三度とも、同じ場所で腕が折れた。


 四度目は、試みなかった。


 左の肘から先に崩れた。右腕がついていけず、体が左へ傾いた。左の頬が、地面に押しつけられた。顎から頬骨にかけて残っていた擦り傷のかさぶたに、砂粒と冷たい土が食い込んで、鈍くひりついた。視界が横倒しになって、街道の轍が目の前を横切っている。草の匂いがした。土の匂いがした。血の匂いは、もう自分のものなのか地面のものなのか分からなかった。


 ナイフが腰の下で押されて、腰骨に食い込んでいた。痛い。だが、体を動かしてナイフの位置をずらす力が残っていなかった。痛みは、ただそこにあった。


  *


 空が暗くなっていく。


 紫から、藍へ。星が一つ、二つ。風が冷たくなった。チュニックの裾が風に持ち上がって、剥き出しの脛に夜気が触れた。


 寒い。


 それだけだった。寒い、という感覚が、体の表面に張りついている。だが、震える力も残っていなかった。鳥肌が立っているのは分かる。だが、それに対して体が何かをする気配がない。手足の先から体温が引いていくのを、他人の体のように感じていた。


 泣こうとした。


 目の奥が熱くなる感覚だけがあった。だが、涙は出なかった。脱水が限界に達していた。搾り出そうにも、体に水分が残っていない。目蓋の裏が乾いて痛い。


 声を出そうとした。


 喉の奥で、掠れた息が漏れた。それだけだった。声にならなかった。喉が張りついて、震わせる力もなくて、掠れた呼気が口元で途切れた。


 ——泣くことすら、できない。


 オランの路地裏で泣いたときは、まだ涙が出た。掠れた息みたいな声でも、嗚咽の形にはなった。あのときは、まだ泣ける体だった。


 今は、それすら残っていない。


 視界がぼやけた。涙ではない。意識が薄くなっているのだと、頭のどこかで分かった。土の匂いが遠くなる。風の冷たさが鈍くなる。痛みが、一枚の膜を挟んだ向こう側に移動していく。


 ——死ぬのか。


 思った。思っただけだった。恐怖はなかった。怒りもなかった。悔しさも、寂しさも、もう残っていなかった。ディルクの言葉が頭をよぎるかと思ったが、よぎらなかった。何も浮かばなかった。感情を動かす燃料が、体の中から全部消えていた。


 ただ、冷たい地面の上に横たわっている。


 右手の指先が、僅かに動いた。土を引っ掻くように、指の腹が地面を擦った。何をしようとしたのか、自分でも分からなかった。立ち上がろうとしたのか。何かを掴もうとしたのか。それとも、自分がまだ生きていることを確かめようとしたのか。


 指が止まった。


 動かなくなった。


  *


 どれくらいの時間が経ったか、分からなかった。


 意識は完全には落ちていなかった。落ちきれなかった。暗い場所で薄い膜に包まれたような状態で、体の感覚だけが断片的に届いている。地面が冷たい。風が吹いている。足の甲が痛い。腰のナイフが硬い。


 その中に、別の何かが混ざった。


 振動だった。


 地面が、微かに震えている。規則的な、重い振動。土を伝わって、地面に押しつけた左の頬骨の奥まで届いてくる。最初はそれが何か分からなかった。地震かと思った。だが、地震にしてはリズムがある。一定の間隔で、重い何かが地面を叩いている。


 ——蹄の音。


 思考が、遅れてそこに追いついた。馬の蹄だ。一頭ではない。複数。その奥に、もうひとつ別の音が重なっている。木と鉄が軋む音。車輪が轍を踏む音。


 馬車だ。


 東の方角から——レオンが歩いてきた方角から、近づいてくる。振動が、少しずつ大きくなっている。


 目を開けようとした。左の頬が地面に張りついたまま、瞼だけを持ち上げる。視界がぼやけていた。暗い。空に星が出ている。街道の土が、目の前にある。その向こうに、微かな光が揺れていた。


 ランタンの灯りだった。


 黄色い光が、街道の闇の中を近づいてくる。蹄の音が、振動が、車輪の軋みが、はっきりと聞こえるようになっていく。


 指一本、動かせなかった。声も出なかった。道の脇に倒れた体を起こすことも、手を上げることも、助けを求めることも、何ひとつできなかった。


 ただ、地面に頬をつけたまま、近づいてくる灯りを見ていた。


 蹄の音が、大きくなっていく。

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