第10話「誰も悲しまない」
四日目の正午に、オランの城壁が見えた。
霞んだ視界の向こうに、灰色の石壁が横たわっている。リムルの木柵とは違う、交易都市の厚い防壁。門の前には荷馬車が二台並んでいて、積み荷を検めている兵の声が風に乗って聞こえた。
レオンは足を止めなかった。止まったら、もう動けなくなる気がした。
足裏の水膨れはとうに潰れていた。左の踵は三日前に破れたまま、乾いた血が砂と混ざって固まっている。右足の甲は火傷の皮が剥がれかけて、歩くたびに地面の小石が直に刺さった。両足の感覚はとっくに鈍麻していて、痛いというより、熱い。じくじくと、足の裏全体が煮えているような鈍い熱。
最後に何かを口にしたのがいつだったか、はっきりしない。街道沿いの茂みで見つけた小さな実をいくつか齧ったのが昨日の昼だったか、一昨日だったか。水は今朝、道の脇の細い流れに顔を突っ込んで飲んだ。手で掬う力が惜しくて、四つん這いになって犬のように口をつけた。
チュニックは汗と泥と草の汁で、元の色が分からなくなっていた。裾を裂いた布で腰を縛っているが、結び目が緩んで何度も直した。片方の肩から襟ぐりがずり落ちて、鎖骨が剥き出しになっている。直す気力がなかった。
門番は一瞥をくれただけだった。
ボロをまとった素足の少女。武器もなく、荷物もなく、所持金は腰布の結び目に挟んだ銅貨が数枚。身元を聞かれることすらなかった。荷馬車の通行税を徴収する方がよほど重要な仕事だ。
門をくぐった。
リムルとは空気が違った。道幅が広い。石畳が敷かれている。建物の壁が高く、二階建て三階建てが並ぶ通りの奥に、さらに高い塔のような構造物が見える。人が多い。商人、旅人、馬の蹄の音、荷車の軋み、声、声、声。
交易都市。人とモノと金が集まる場所。
レオンの足は石畳の上を滑るように進んだ。素足で踏む石は街道の土より硬く、足裏の傷に直に響いた。それでも歩いた。目的がある。ここまで歩いてきた理由がある。
傭兵の溜まり場。
オランは傭兵の流入が多い。ギルドとは別に、非公式の仲介所や情報交換の場が酒場に併設されている——それはレオン時代に何度か耳にした話だった。どの酒場かまでは覚えていない。ただ、傭兵が集まる場所は大抵、門の近くか市場の裏手にある。安い酒と、広い座席と、揉め事を仲裁できる用心棒が揃っている場所。
市場の方角を示す看板を見つけて、そちらへ歩いた。
*
三軒目の酒場で、その名前を出した。
一軒目は傭兵ではなく商人の溜まり場だった。二軒目は日雇いの労働者が屯していて、傭兵の気配はなかった。三軒目は、入り口の脇に使い込まれた盾が立てかけてあり、中から革と鉄と安酒の匂いが漏れていた。
扉を押して入った。昼だが薄暗い。窓が小さく、天井が低い。奥のカウンターに太った店主が立っていて、壁際のテーブルに数人の男が座っていた。鎧を着た者、剣を帯びた者、腕に古い傷がある者。
視線が集まった。
ボロ布のような服を着た、素足の、汚れた少女。場違いにもほどがある。
「ディルク・ヴァレイン」
レオンは入り口に立ったまま、その名前を口にした。声が掠れていた。喉が乾ききっていて、最初の音が出なかった。咳払いをして、もう一度。
「ディルク・ヴァレインって傭兵を探してる。ここにいるか」
壁際の男たちが顔を見合わせた。何人かが首を傾げ、何人かが鼻で笑った。
「誰だ、そのガキは」
カウンターの方から声が飛んだ。店主ではない。カウンターに肘をついていた、革の胸当てを着けた男だった。
「客じゃねぇなら出な。ここは子どもの来る場所じゃない」
「客でもなんでもいい。ディルクを知ってるか、知らないか。それだけだ」
男は面倒そうに目を細めた。レオンの足元を見た。素足。血の滲んだ足裏。泥だらけのチュニック。視線が上がって、顔で止まった。左頬に薄いかさぶた。髪は乱れて頬に張りついている。
「……ディルクなら裏にいる。だが、あいつに何の用だ」
「それは本人に言う」
男は数秒、レオンを見ていた。それから面倒そうに顎で奥を示した。
「裏口から出て左。井戸の手前に納屋がある。大抵そこで昼寝してる」
レオンは礼も言わずに踵を返した。酒場の中でくすくすと笑い声が漏れたのが聞こえた。
*
裏口を出ると、狭い路地の先に古い井戸が見えた。その手前に、板壁の納屋がある。扉は開け放たれていて、中に干し草の匂いがした。
足を踏み入れる前に、中から声がした。
「入んな。寝てる」
低い声。ぶっきらぼうで、熱くはない。聞き覚えのある声の質だった——もっとも、記憶の中では自分の耳の位置が今より高かったし、声を聞く角度も違った。
「ディルク・ヴァレイン」
「……誰だ」
干し草の上に寝転がっていた男が、片目を開けた。
戦場慣れした荒っぽさのある顔。レオンほどの圧はない。体格は中肉で、生き残ることに特化した実戦の痕跡が、腕や首筋の古傷に残っている。年齢はレオンには分からないが、若くはない。
男は起き上がらなかった。干し草に肘をついたまま、レオンを見上げた。
「見ない顔だな。何の用だ、嬢ちゃん」
「レオンを知ってるか」
ディルクの目が、わずかに動いた。
「レオン」
「レオン・ローゼンフェルト。前にあんたと組んだことがある傭兵——いや、戦士だ。知ってるだろう」
ディルクは干し草の上で身を起こした。ゆっくりと。胡座をかいて、レオンの顔を見た。
「知ってるよ。で?」
「で、じゃない。私はレオンの——」
言葉が詰まった。
何と言えばいい。知り合い。関係者。自分自身だとは言えない。この身体で、この声で、この姿で。
「……知り合いだ。レオンの知り合い」
ディルクは眉を上げた。
「あの男の知り合い」
繰り返す声に、感情はなかった。確認しているだけの、乾いた口調。
「珍しいな。あいつに知り合いなんかいたのか」
その一言が、刺さった。
レオンは奥歯を噛んだ。反射的に言い返そうとして——何を言い返すのかが、出てこなかった。
「……で、その知り合いが俺に何の用だ」
「レオンが今どうしてるか、知りたくて来た」
嘘だった。正確には、嘘ではないが、本当の理由でもなかった。知りたいのではない。知っている人間に会いたかった。それだけだった。
ディルクは顎を掻いた。
「レオンがどうしてるか、ね。あんた、あの男と最後に会ったのはいつだ」
「……しばらく前だ」
「しばらくね。——悪いが、俺も知らねぇよ。あの男がどうなったかなんて」
「聞いてない。噂にもなってないのか」
「噂?」ディルクは短く息を吐いた。「嬢ちゃん。あの男のことを噂する奴がいると思ってるのか」
レオンは黙った。
ディルクは立ち上がった。干し草から埃を払って、納屋の壁に背をもたれた。腕を組んで、レオンを見下ろした。背丈の差が大きい。レオンの目線は、ディルクの胸の高さにしか届かなかった。
「レオン・ローゼンフェルト。確かに組んだことがある。一回きりだ。二度と組む気にならなかった」
「——何でだ」
「何でだと思う」
レオンは答えなかった。分かっていた。分かっていたが、聞きたくなかった。
ディルクは構わず続けた。
「強かったよ、あの男は。それは認める。化け物じみた腕力で、前にいるもんを片っ端から叩き潰す。魔獣の群れを一人で蹴散らして、報酬は独り占め。まあ、そこまではいい。傭兵ってのはそういう世界だ」
壁に背を預けたまま、ディルクは視線をレオンから外した。天井の隙間から差す細い光を見ている。
「だが、あの男は——何て言やいいかな。人間として、駄目だった」
声は淡々としていた。怒りもなければ、恨みもない。ただ事実を述べている。それが余計に、重かった。
「共闘中に指示は聞かない。連携は取らない。味方の位置なんか気にもしない。自分の前にいる敵を自分の力で潰す。それ以外のことは全部、他人の仕事だと思ってる。後ろで死にかけてる仲間がいても、振り返りもしなかった」
「それは——」
「で、終わった後に説教を垂れるんだ。『俺がいなきゃ全滅だった』って顔でな。実際そうだったかもしれねぇ。だが、だからどうした。あの男に助けられたって、礼を言いたくなる奴は一人もいなかった。恩を着せられた方は、全員がっ——」
ディルクは言葉を切った。
「……借りを作らされた、って感じるんだよ。あの男の近くにいると」
空気が、止まった。
レオンの喉が締まっていた。息が浅くなっている。胸の奥で何かが軋んでいた。反論しようとした。声が出なかった。
「知り合いだって言うなら聞くが」ディルクは視線を戻した。「あんた、あの男に借りでも作らされたクチか」
「違う」
「じゃあ何だ」
「——違う。そうじゃない」
何が違うのか、自分でも分からなかった。ただ「借り」と言われたことが、喉の奥に引っかかって取れなかった。
ディルクは小さく首を振った。
「まあ、いい。で、あんたが聞きたいのはレオンの居場所か。それとも、あの男がどう思われてたかか」
「——どう、思われてたか」
聞くべきではなかった。分かっていた。分かっていて、口が勝手に動いた。
ディルクは壁から背を離した。一歩、レオンに近づいた。見下ろす角度が急になった。
「正直に言っていいか」
レオンは頷いた。頷くしかなかった。
「あの男が消えたって話は、一応流れてきたよ。霊峰に一人で突っ込んで、戻ってこなかったってな。——で、それを聞いた傭兵が何人かいた。俺もその中の一人だ」
間が空いた。
「誰も、悲しまなかった」
ディルクの声は、変わらなかった。低く、乾いて、熱を持たない。
「『ああ、あいつか』って、それだけだ。酒を注ぐ手も止まらなかった。話題が変わるのに十秒もかからなかったよ。あの男が一人でどっかの山に突っ込んで死んだ。——驚く奴もいなかった。『いつかそうなると思ってた』って声が出たくらいだ」
レオンの視界が揺れた。
足元の干し草の茎が、ぼやけて見えた。目の前のディルクの顔が遠くなった。耳鳴りがしていた。いや、耳鳴りではない。自分の血が脈打つ音が、頭の中で反響しているだけだった。
「悪いけどな、嬢ちゃん。あんたがあの男の何なのかは知らねぇが——あの男のために泣く奴を探してるなら、ここにはいねぇよ。オランにも、リムルにも、多分どこにもいねぇ」
ディルクは一度だけ、レオンの足元を見た。裸足の、血が滲んだ足。泥と汗で汚れたチュニック。骨が浮いた肩。
「……あんた、随分歩いてきたみたいだな」
声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。ほんの少しだけ。
「あの男を探してるなら、やめとけ。死んだ男を追いかけて、あんたまで潰れることはねぇ」
レオンは口を開いた。何か言おうとした。声が、出なかった。
喉が詰まっていた。舌の根が動かなかった。目の奥が熱くて、それを押し戻そうとして、顔の筋肉が強張った。
ディルクは黙って見ていた。
「……水くらいなら出してやる。座れ」
「いらない」
掠れた声で、それだけ言った。
踵を返した。一歩目で足裏の傷が石に当たって、膝が折れかけた。歯を食いしばって立て直した。二歩目。三歩目。納屋の入り口を出て、路地に戻った。
背後から、ディルクの声は追ってこなかった。
*
路地を曲がった。もう一度曲がった。人通りのない、建物の裏手の細い道に入った。
壁と壁の間。日が差さない。石畳の隙間から雑草が伸びていて、排水の匂いがした。
壁に手をついた。
膝が、崩れた。
石畳の上に膝をついた。両手が壁を掴んでいた。指が石の凹凸に食い込んで、爪の間が痛かった。
——誰も、悲しまなかった。
ディルクの声が、頭の中で回っていた。
十秒もかからなかった。話題が変わるのに。
知っていた。
知っていたはずだった。レオン・ローゼンフェルトがどういう男だったか。味方の位置を気にしなかった。連携を取らなかった。恩を売っているつもりで、借りを作らせていた。
だが——それでも、どこかで思っていた。
あれだけ戦った。あれだけ勝った。あれだけの敵を倒した。その中で、一人くらいは。一人くらいは、自分の強さを認めて、自分と共にいることを——。
壁を掴む指が震えていた。
いなかった。
一人も、いなかった。
焚き火の傍で少し離れた場所に座っていた記憶が蘇った。身体の感覚として。あの距離。あの温度。火の音と、遠くから聞こえる笑い声。自分だけが、輪の外にいた。
あの頃はそれでいいと思っていた。強ければいい。勝てばいい。群れる必要などない。足手まといがいなくて清々する。
——清々する。
かつて自分が吐いたあの台詞が、今になって喉を灼いた。
足手まといがいなくて清々する。そう言い切った男。自分から人を遠ざけて、孤独を誇りだと信じた男。
そのツケが、今、この路地裏の石畳の上に膝をついている。
レオンは歯を食いしばった。顎が痛いほど噛み締めて、それでも口の中から何かが漏れそうだった。声ではない。声にならない、喉の奥の震え。
壁から手を離した。両膝を抱えた。額を膝に押しつけた。
泣いていた。
涙が出ていた。目を閉じているのに、瞼の裏が熱くて、頬を伝う水の感触があった。声は出なかった。出そうとしても、掠れた息のような音しか喉から漏れなかった。嗚咽すらまともにできない。高く細い声帯が、泣き声を許さなかった。
——寂しい。
その言葉が、頭の中に浮かんだ。
レオン・ローゼンフェルトが一度も使ったことのない言葉。考えたことすらなかった感情。強さだけを信じて生きてきた男が、一度も認めなかった空洞。
それが今、胸の中に、底なしの穴のように開いていた。
誰もいない。どこにも。
強かった頃も、誰もいなかった。今も、誰もいない。違いは——違いは、今はそれが分かるということだけだった。
膝に押しつけた額が濡れていた。涙が顎を伝って、チュニックの襟に染みた。
どのくらいそうしていたか分からなかった。影が伸びて、路地の奥まで暗くなった頃、レオンはようやく顔を上げた。
目が腫れていた。鼻が詰まっていた。頬に涙の痕が乾きかけている。
何も、変わっていなかった。
路地裏の壁は同じ色で、排水の匂いは同じで、足裏の傷は同じように熱を持っていた。泣いたところで、何も戻らない。何も変わらない。
立ち上がった。膝が軋んだ。壁に手をついて、身体を起こした。
*
市場の端を通った。
露店が並んでいる。布、果物、革紐、安い装身具。日が傾いて、片付け始めている店がいくつかあった。
腰布の結び目に手を入れた。銅貨が指に触れた。残りを数えた。
三枚。
三枚の銅貨で買えるものは、パンなら半切れ。水なら一杯。
レオンの目が、露店の端に止まった。
木箱の上に、雑多な金属製品が並んでいた。古い金具、曲がった釘、使い古しの工具。その隅に、短いナイフが一本、刺さるように立てかけてあった。
粗悪な品だった。刃渡りは手のひらほど。柄は木で、握りが太い。刃は研ぎが甘く、鉄の色がくすんでいる。鍛冶屋の端材で作ったような、売れ残りの安物。
店主が声をかけてきた。
「嬢ちゃん、それ見てんのか。銅貨二枚だ。値切るなよ」
レオンは銅貨を二枚、木箱の上に置いた。
ナイフを手に取った。
重さは——軽い。当たり前だ。大剣と比べるまでもない。片手で握れる。右手の拳に打撲が残っていて握力は落ちているが、この程度の重さなら問題ない。
刃の状態を見た。欠けはないが、鈍い。まともに切れるかどうか怪しい。柄の嵌め込みも甘く、力を入れれば緩むかもしれない。
——これが、今の自分が持てる武器。
かつて大剣を片手で振るった手が、今はこの粗悪なナイフしか握れない。
店主は銅貨を拾い上げて、もう興味を失っていた。次の客に声をかけている。
レオンはナイフをチュニックの腰布に差した。残った銅貨は一枚。一枚では、パンも買えなかった。
市場を抜けた。
*
オランの西門に向かって歩いた。
どこへ行くのか、決めていなかった。オランに来たのはディルクに会うためだった。会った。聞いた。聞きたくなかったことを聞いた。
もう、この町にいる理由がなかった。
門をくぐった。門番はやはり、一瞥もくれなかった。
街道が、西へ延びていた。夕陽が低い位置にあって、道の先が橙色に染まっていた。
金はない。食料もない。武器は腰に差した粗悪なナイフが一本。
背中を、誰も見ていなかった。
振り返る理由もなかった。
レオンは歩き出した。
足裏が痛んだ。右足の甲の皮が、また剥がれた感触があった。構わなかった。歩くしかなかった。
西の空が、赤く燃えていた。




