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罠

 バザールが途切れている。テントの店はここでおしまいで、人波もだいぶ引いてきている。一番端っこの店は、表にたくさんのテーブルと椅子を並べて軽食とお茶を振舞う店で、歩き疲れた人々はそこで休憩を取り、喉を潤すと、また中央へ向かって引き返していた。このまま、もうしばらく歩けば、町も終わってしまう。そこから先は、街道が3つに分かれていて、アウスディールから南、南西、東へそれぞれへ向かって長く伸びている。元々、彼はこの町を抜けて東の町、ストーンフォードへ行くはずだった。そこに特に目的があったわけではないが、ストーンフォードにある有名な大聖堂の綺麗な壁画でも見られたらいいか、と思っていたのだ。

 だが今、彼は、その三又の分かれ道を前にして立ち止まっていた。

「だいたい南に行ったところで、しばらくは何にもないじゃないか」

 街道の分かれ道の前に立てられている石に彫られた案内地図を見て、彼は首をひねった。南には延々と荒地が続き、やがて、カデカミナ山脈へ出る。山脈を抜ければ、沿海州グラウフルゼン方面へ抜けられるが、それにはあと何十日もかかるだろう。下手をすると、カデカミナ山脈で時間を食ってしまい、何ヶ月も放浪しなければならない羽目に陥るかもしれない。あのあたりはそろそろ秋も終わり、すでに冬支度が始まっている可能性もある。

 カデカミナの一番高い山は、万年雪を頂いている。夏でも白い帽子を被ったような姿は変わることがない。冬ともなれば、帽子とお揃いのマントを長く引きずるだろう。決して暮らし易い場所とは言えない。地図によると、そのあたりにあるものといえば、岩だらけの荒地と小さな湖と高い山々だけだった。集落はない、ということになっている。人が住んでいるかどうかは、極めて怪しい。

「妖魔とか魔族でもいるのかな? あるいは魔術師か。僕をかなりひどい目に遭わせられるとしたら、そのあたりだよな」

 驕りでもなんでもない。普通の人間には、肉体的に彼を傷つけることは、よほど策を弄さねば難しいだろうと思う。

 彼はさきほどの託宣を、頭に思い浮かべてみた。

『ドラゴンレディがお待ちかねさ』

「あるいは、竜がいたりするのか? それとも女傑、どっちだろう」

 本来のドラゴンレディとは、暴君的な女性あるいは、魅力的で神秘的な女性という意味あいだ。ならば、竜というより誰か女性がいるのだろうと思う。近頃は竜も人里に姿を現すことは滅多にない。いまやほとんど伝説に近い生物になりつつあった。とはいえ、全然いないわけでは、もちろんない。強大な魔力を持った竜は、いまもこの世界のどこかに潜んでいる。

「本当の竜なら見てみたいけど、ドラゴンレディはごめんだな。でも、占いだからな。あいまいな言い方は、どうとでも取れるわけだし」

 しばらく、地図の前でうーんと唸りながら彼は考え込んだ。ひどい目に遭うとまで言われながら、わざわざそちらへ行かなくてはいけないだろうか。

『お前さんに好奇心はないのかえ?』

 占い魔女アニスの声が聞こえてくる。

「ちぇっ!南へ行くしかないのか。逃げた、と思われるのも癪だしな」

 口をへの字に結んだまま、アルヴィンことマリオンは、南へ向かって街道を歩き始めた。


 木々のかたまりがあちこちに離れ小島のように散らばった雑草の海を両側に見ながら、しばらくは退屈な行程が続いた。風は秋の気配を含んで少し冷たい。木の葉はもうだいぶ黄色や赤に染まり、遠目には巨大な花束のようにも見える。時々、街道を冬支度にいそしむリスやいたちが横切っていくのが目に付いたくらいで、ほとんど動くものも大きな生き物の気配もない。地を渡る風の音と自分が踏みしだく街道の枯れ草のかさつく音しかしない。

「もしかしたら夜のほうが綺麗かなぁ。夜に歩けばよかったかな」

 と、普通の人間なら考えそうもないことをつぶやきながら高い秋空を見上げ、マリオンはゆっくりと歩いていく。彼が見上げた先には、昼の白い半月が中空に浮かんでいる。このような場所で夜に歩くのは夜行動物くらいで、普通の旅人は安全な場所で野宿を決め込むことだろう。昼間でも街中より気温がだいぶ下がっており、夜ともなれば火を起こして暖をとりたくなりそうだ。

「退屈そうなところだなぁ。これで何にも事が起きなかったら、どうしてくれるんだ?」

 同じような風景が延々と続き、それなりに整った道は歩きやすく、それだけに飽きてきそうだった。だからといって、文句をいうためにアウスディールの町へ戻る気にもならない。第一、あそこへ戻ってもあの占いテントは見つからないだろう。アニスは自分にお告げを伝えるためにだけバザールに店を出した、と言ったのだ。目的を果たしたからにはすでに、いずこかへ去っているだろう。

「どう見ても普通の占い魔女ではなかったな。魔法の系列がつかめなかった」

 と、マリオンはひとりごちた。


 魔法には基本的に白と黒があるといわれている。白は、癒しと慈悲を与える魔法で、人を傷つけるためにあるのではない。それは光とともにあり、その力は善神、妖精や精霊によるところが多い。穢(けが)れを嫌う。黒は、それとは逆に血の生贄を求め、力による征服や闘争を行う。その力は魔神、悪霊、魔族による。血と混乱、穢れと欲望からできているといってもよい。

 魔術が使われだしたそもそもの初め、白と黒は分かれていなかった。途中で二つに分岐し、白魔術師と黒魔術師は相対するものとして存在した。そして現在、再び白と黒の区別はあいまいになりつつある。今の魔術師たちは、白黒どちらかにきっちりと分類されるというわけではない。白だけの「白魔術師」、黒だけの「黒魔術師」、そして両方使える「魔術師」という三つの分類になっているのだ。

 また、その力をどこから得るかという属性というものがある。水・風・火・土の四つの創始の精霊たちの、どこからその力の源を得ているかによって属性が決まる。どの精霊との相性がいいかということについては、人間の遺伝子の記憶なのか、魂(スピリット)の記憶なのかは定かではないが、この属性は魔術師自身には選べない。これは生まれつきのものといえる。

 さらに、流派というものがある。元になる魔術を創り出した流派がそれぞれあるのだ。おおもとの系列は、四つの大陸ごとに分かれたもので、それぞれカジム派、ディオニジア派、アティア派、ソリアーノ派と呼ばれる。これは創始の魔法とも呼ばれている。魔術師たちは創始の魔法を基に研鑚を積み、試行錯誤を繰り返し、それぞれの魔術を完成させたのだ。そしてもちろん、魔法の効果をより高めようとする魔術師たちの努力は今も続いている。

 あとは地方に根付いた土着魔術というものがあるが、それはもちろん星の数ほどあってすべてを把握することは難しい。それでも根っこの部分では、同じ流れを汲んでいるため、魔法の気配は四つの系列のどれかに似たものとなる。そう、たとえば「Magica」「MAGIC」「magia」「魔法」というように、字体やつづりが違っていても結果として現れる内容は一緒なのだ。

 魔法の型自体は、それぞれの流派によって微妙に異なっていて、流派独自のものも少なくない。だが、魔術師はある程度のレベルに達すると、流派にこだわらずいろいろなものを試したくなるものらしい。そうやってどんどん新しいものを取り入れたあげく、もとの流派が何だったのかわからなくなる者ももちろんいる。それは混沌(カオス)と呼ばれるのだが、それでも基本が四大創始魔法であることだけはわかる。マリオンは、師がディオニジア派であったので、基本としてはその流れを汲んでいるが、今はほとんどこの混沌(カオス)だった。

 だが、あのアニスの放つ気配には、そのどれも読み取れなかった。混沌(カオス)でもなかった。おおもとが何なのか、まるで読めなかったのだ。

「でもあの感じ、どこかで見たような気がするんだよなぁ」

 マリオンは首をひねった。どこだったかなぁ、とつぶやきながら彼は、緩やかな上り坂になり始めた街道を歩き続けた。

 歩くにしたがって、荒地の木のかたまりは次第に低木になり数も少なくなっていき、風も心なしか冷たさを増している。足元も柔らかな黒土から固い粘土へと変化し、やがて白い石の板に変わった。街道は山と山の間を縫うように白く続いている。街道の両脇は、黄色っぽい土のうえに白いごつごつした岩が無造作に転がされているような状態で、高山性の植物がその間にしょぼしょぼと生えていた。

「こんな平らな石を一体誰が敷き詰めたんだろう?」

 マリオンは立ち止まると、膝をついてしゃがみこんだ。形は不定形だが、ほぼ三フィート四方の大きさの白い石がびっしりと街道に敷き詰められ、行く手にまっすぐ伸びている。手袋を外して表面をなでてみると、磨かれたように滑らかなわけではないが、歩いていて充分に平らだといえる程度の研磨はされているようだ。石は石灰岩ではなく、石英のように見えた。

「豪華な街道だな。踏んで歩くのが悪いみたいだ」

 マリオンは再び立ち上がりながら、遠く伸びている白い街道を見つめた。自然の産物とは到底思えない、だが、人間の手によって作られたとも思えない不思議な街道だ。

「妖魔の街道かな?」

 そうつぶやく彼の口元は、うっすらとほころんでいる。歩き出した足取りは、明らかに先ほどよりも軽くなっているようだった。

 今まで緩やかな上り坂だったものが、少し勾配がきつくなり、本格的な山道といった感じになってきた。だが、石英の白い道はまだ続く。斜面に刻まれた段の低い階段になったような感じで、歩幅を大きくすると少し歩きにくい。とはいえ、ごつごつした岩だらけの山道を歩く事に比べたら格段に歩きやすいだろう。

「つまりはあれか、これ以外のところを歩くんじゃないってことだな」

 確かに普通の旅人なら、これ以外のところを歩く気は起きないだろう。せっかくこんないい街道があるのだ。雨が降ってもぬかるんだりもしないし、山中に入っても道に迷うこともない。たぶん、雪が積もったら埋もれてしまうのだろうが、どうせ冬には、この街道自体が自然封鎖されてしまうだろう。冬に沿海州からアウスディールへ抜けたい、あるいはその逆へ向かう旅人は、迂回するしかないはずだ。もっともすでにこの時季ですら、マリオンは一人の旅人とも出会っていない。同方向へ行く者もいなければ、すれ違う旅人もいない。この道は、あまり一般には使われていないのかもしれなかった。

「落石が起きた跡もないし、ずいぶん整備されてる。魔法がかかっている風もないのに」

 人が歩いていない割には、綺麗なもんだ、とマリオンは感心したようにつぶやいた。街道自体に魔法がかかっていないのなら、誰かが整備しているのだろう。

「さて、素直にこの道を歩くべきか、それともちょっとよそにそれてみるか。どっちがいいかな?」

 相変わらず、少し楽しげな笑みを口元に浮かべたまま、マリオンはつぶやく。

「このまままっすぐ素直に歩いていたら、何にも起きないまま無事に沿海州に抜けていた、なんてしゃれにもならないよな」

 彼は肩の背嚢をゆすり上げると、身軽く街道脇の白い大きな岩の上に飛んだ。もちろん街道から大きくそれるつもりはない。

「こっちのほうが見晴らしがいいや」

 大岩の上が街道より六、七フィートほど高いだけに、下を歩くより少し先まで見渡すことができる。マリオンはさらに上まで飛んだ。行く手には同じような岩がごろごろと並んでいる。

 澄んだ青い空から吹き付ける冷たい切れるような風が、彼の髪と頬をなぶっていく。その中にかすかに人間の声が含まれているのを、マリオンは聞き逃さなかった。

 マリオンは声を頼りに軽やかに大岩を飛び移りながら、声のするほうへ近づいてみた。

「いやよ! ニコーレ。放してちょうだい」

 少女のよく通る、少し甲高い声が大気を渡ってくる。それに対するニコーレというらしい相手の声は、くぐもってよく聞き取れない。

「旅人同士のけんかかな?」

 さきほどマリオンがいた街道よりやや東へ寄ったほうに、岩と岩の間に自然に作られた広場がぽっかりと開いている。声はどうやらそこからしているのだが、声の主はまだ見ることができない。マリオンは視線をさえぎる一番高い岩の上に、音を立てないように静かに上った。

「やめてっていってるじゃない。あなたなんて好きじゃないわ。お母様に言いつけるから」

 おやおや、とマリオンの眉が上がる。そういう話か。

 浅黒い肌と鋭い目をした若い男が、小柄な少女の腕をつかんで自分のほうへ引き寄せようとしている。少女は自由なほうの腕で男を叩いているが、男のほうはまるで気にも留めていないらしい。

「子供じゃないんだ、お母様に言いつけるはないだろう、ラヴィーニア」

 少し笑いを含んだ低い若い男の声が、ようやく聞き取れた。どうやら着ている物から見て旅人のようではない。男のほうは深緑のチュニックとズボン、腰に短剣をさしただけの軽装で、少女のほうも生成りの上着と赤いスカートという街着のいでたちだ。

「このあたりに人が住んでいるのかな」

 と、マリオンは首をひねった。


 ついに少女の腰を捕らえた男が、嫌がる彼女にいまにも口付けをしようとした時、

「無理強いはみっともないよなぁ」 

 と、マリオンは声をかけた。男はぎくりと動作を止めた。

「もてないって言ってるようなもんじゃない? 余裕がないってつらいね」

 笑いを含んだ声の主を見上げて、男は目を吊り上げると思い切り睨みつけてきた。

「誰だ、お前!」

「そういうのって、あんまり魅力的とはいえないんじゃない? ニコーレ」

 いきなり名前を呼ばれ、一瞬動揺したニコーレの手から、するりとラヴィーニアという少女が逃れた。少女はそのまま走り去ろうとしたが、気を取り直したニコーレに再びがっしりと腕をつかまれてしまう。小さな悲鳴があがったが、ニコーレはかまわずそのまま少女を自分のほうへ引き寄せた。

「よそ者が勝手なことをほざくな。お前にゃ関係のないことだ。口を出すな」

「無粋なマネはしたくないんだけどさ。嫌よ嫌よも好きのうちっていう感じじゃあなかったし?」

 声の主、マリオンは口の端にかすかに笑いを浮かべている。

「何でお前なんかにそんなことがわかるんだよ!」

 苛立ったニコーレが吐き捨てると、マリオンがさらに笑みを大きくした。

「女の子がお母様を持ち出したら、本気で嫌って事さ。覚えておきなよ」

「その通りだわ。放して! ニコーレ!」

 再び強い口調でラヴィーニアが言いながら腕を振り切ろうとするが、ニコーレは食いつきそうな眼でマリオンを睨みつけながらも放す気配はまるでない。

「やれやれ。痛い目みないとわからないのかな」

 マリオンが軽く肩をすくめた。

「痛い目だと? 女みたいな顔しやがって。笑わせんな」

 言いながら、本当にニコーレは声をあげて嘲笑(わら)ってみせた。

 女みたいと言われたことに幾分むっとしながら、マリオンはすっくと立ち上がり、そのまま岩の下へ身を躍らせた。ラヴィーニアの短い悲鳴があがり、さすがのニコーレも目をむいた。人が飛び降りるにしては、その岩はあまりにも高いところにあり、二人ともまさかそこから彼が直接飛び降りるとは思ってもいなかったのだ。

 だが、マリオンは白い石英の敷き詰められた広場に足音すら立てずにごく軽く着地するや、すぐに肩から荷物を下ろし、

「人が気にしてることをさらっと言ってくれるじゃないか。後悔するよ」

 と、言いながらにっこり笑った。

「へっ!気にしてんのか、やっぱり。俺がお前みたいなご面相してたら、ドレス着て歩かしてもらうぜ」

 ニコーレが、口元に凶悪な笑みを浮かべ、ラヴィーニアの身体をどんと乱暴に突き飛ばした。

「あっち行って見物してな。すぐにすむ」

 ラヴィーニアは逃げることもならず、突き飛ばされた先でへたりと座り込んだきり、おびえた視線を二人へ等分に投げている。

「乱暴だな。やっぱりもてないよ、あんた」

 マリオンが肩からおろした背嚢を邪魔にならないよう脇へ蹴り飛ばした後、おびえるラヴィーニアを見て顔をしかめてみせた。

「ほざいてな、優男」

 ニコーレは腰の短剣をすらりと抜いて逆手に握ると、目の高さにかまえてみせた。

「その女顔を、ちっとは男らしく見られるようにしてやるぜ」

 彼は口の端からちろりと舌を出し、上唇をなめた。どうやらその言葉は伊達ではなく、彼の構えは短剣をいかにも普段から扱いなれているような持ち方だった。マリオンも剣ではなく、ベルトの後ろ側に差し込んであった短剣を抜いて、無造作に構えた。あまりやる気も殺気も見えないが、何処にも隙はない。ニコーレは心の中で舌打ちした。こいつの軽口は、はったりではないのか? 

「あいにく僕は、あんたをもてるようにはしてあげられないなぁ。斬ったところで直りそうにないもんね? その顔じゃ」

 口にしている内容とは裏腹に、マリオンはにやにやというよりは、にこにこという形容のほうが似合いそうな無邪気な笑みを浮かべていて、それがよけいニコーレの癪にさわった。

 彼が無言のまま、いきなり低い姿勢でマリオンの方へ突っ込んでいくと、きーんと澄んだ金属の触れ合う音がした。マリオンは、ニコーレの最初の一撃を左へ回り込みながら右手の短剣ではじいてかわしている。

「今のうちにお母さんのところへお戻りよ」

 ニコーレと激しく刃を打ちつけ合いながら、マリオンが座り込んでいるラヴィーニアのほうへ声をかけたが、彼女は目を大きく見開いてぼうっとしたまま動く様子がない。

「てめぇ、よそ見してんじゃねぇよ!」

 ニコーレの短剣が鋭い音を立てて風を切り、一瞬前までマリオンの顔があったあたりをなぎ払った。後ろへのけぞるように身体を倒しながらそれをよけたマリオンは、ニコーレにその体勢から足払いをかけた。

 向うずねをしたたか打ったニコーレが、短いうめき声をあげてバランスを崩し、後ろへよろけた。だが、体勢の崩れた状態のまま、マリオンに向かって短剣で横に払う。踏み込もうとしたマリオンが上体をそらし、かろうじてそれを避けると、本体の代わりに一房の金髪が宙に舞った。

「なかなかやるね」

 今度は無邪気な笑みではなく、にやっと不敵に笑いながら、マリオンが言うと、

「やかましい」

 ニコーレが険悪な顔で怒鳴り返した。

 同時に踏み込んだ両者の刃はがきっと組み合って、火花が出そうなほど強い力でこすり合わされ、折れんばかりにぎしぎしと音を立てている。ほんの数インチのところで顔を突合せ、睨みあいながら二人ともが力で相手を制そうとしていた。

 ニコーレはマリオンより一回りほど背も高く、体型も幾分がっしりしている。しかし、力と言う点ではほぼ互角か、もしくはマリオンのほうがやや余裕があるように見える。見た目よりもずっと、腕力と持久力があるのは、血筋と言えるのかもしれない。父方の魔族の血は、マリオンのこういうところにも現れている。脚力、跳躍力、瞬発力なども普通の人間より優れている。身の軽さにおいてもニコーレよりだいぶ勝(まさ)っているだろう。今はまだ様子を見ながら手加減をしている状態だった。

 この勝負は、じきにつくかと思われた、その時だった。大人しく座り込んでいたはずのラヴィーニアの悲鳴が、二人の動作を止めた。

「砂竜(サンドドラゴン)だわっ!」

 ラヴィーニアの必死で叫ぶ声に二人は驚き、お互いを押しやるようにしながら身を離した。

 彼女の指差す方向には、確かに体長七フィート程もある砂竜(サンドドラゴン)が、頭の半分まで大きく裂けた赤い口を開けて威嚇している。その灰色のごつごつした頭には砂竜(サンドドラゴン)特有の角が三本、たてがみのように頭頂部から背中に向かって生えている。砂竜(サンドドラゴン)は厳密に言うと、竜ではなく、爬虫類でオオトカゲの仲間だ。岩場や砂漠に生息していて、そういうところをよく歩く旅人なら、一度は見かけたことがあるだろう。その性格は極めて凶暴で、しかも毒を持っている。小さいからと言ってなめてかかると、口から吐き飛ばされる強烈な神経毒にやられて命を落とすことになる。その毒は皮膚組織からも浸透し、毒にさわっただけで影響を受ける。服に毒液がついたことに気がつかず、命を落とした者も少なくない。腕によほど覚えがあるのでなければ、全速力で走って逃げたほうが賢明なのだ。

 いま、その砂竜(サンドドラゴン)は明らかにラヴィーニアに威嚇をしながら向かってきている。ラヴィーニアはやっと立ち上がったものの、足が震えて動けずにいるのが遠目にもわかった。

「休戦だ!砂竜(サンドドラゴン)は」

 僕がやる、とマリオンが言い終わらぬうちにニコーレがその言葉をさえぎった。

「あれは俺がやる。お前、ラヴィをどっか上へあげろ!」

 一瞬ふっと、不審な感じが頭をよぎったが、もう何も考えている暇はない。ニコーレが砂竜(サンドドラゴン)に向かうのと同時に、マリオンはラヴィーニアのほうへ向かって走りだしていた。

 砂竜(サンドドラゴン)に吐き飛ばされた緑色の毒液がラヴィーニアに命中する寸前に、マリオンは彼女に飛びつき、抱きかかえて近くの岩の上に跳躍した。間一髪、たった今までラヴィーニアがいた場所へ、大量の毒液がぼとぼとと撒き散らされている。念のため、さらにもう一段高い岩棚へあがる。ここまでは砂竜(サンドドラゴン)の毒も届かない。下ではニコーレがうまく砂竜(サンドドラゴン)を挑発しながら、二人のいる岩棚から遠ざけていくところだった。

 マリオンの腕の中で、ラヴィーニアの華奢な身体が細かく震えていた。

「大丈夫かい? 怪我はない?」

 ニコーレから目を離さず、マリオンがラヴィーニアに小声で話し掛けた。ラヴィーニアの細い指がしっかりと彼の袖を握りしめている。うなずく彼女のふわふわした砂色の髪が、風に吹かれてマリオンのあごをくすぐった。

「大丈夫。ありがとう」

 小さな震える声でラヴィーニアが礼を述べ、マリオンがニコーレから彼女へ視線を移した。彼女の大きな青い瞳が今にも泣きそうにうるんで、彼の腕の中から見あげていた。

「どういたしまして」

 マリオンはにこっと安心させるように微笑んで見せると、震えを帯びたラヴィーニアの腕がいっそう強く彼の身体に巻きついた。

 マリオンはちょっと困ったように、視線をニコーレに戻した。下ではニコーレが砂竜(サンドドラゴン)を相手にまだ立ち回りを演じている。彼がやられたら、すぐにでも魔法で解毒しなければならない。本当は彼女を置いてすぐにでも加勢に駆けつけたいところだが、彼女はしっかりと彼に抱きついていて突き放すことができない。無理に放して恐慌をきたされたら、この狭い岩棚でどうにもならなくなりそうだった。

 だが、マリオンの心配をよそに、ニコーレはうまく立ち回っている。すばやい動作で砂竜(サンドドラゴン)の後ろへ回り込み、その首に鋭い一撃を与えた。それはどうやら砂竜(サンドドラゴン)に致命傷を負わせたようでひくひくと長い尻尾が痙攣し、ニコーレは勝ち誇ったような笑みを浮かべている。

「やるじゃないか、あいつ」

 マリオンがそれを見届けて、ほっと安堵の息をつくと、腕の中でラヴィーニアが身じろぎした。

「・・・・・・」

 ラヴィーニアの聞き取れないほどの小さな声に、

「ん? どうかしたの?」

 マリオンが顎の下にある彼女の顔を覗き込もうとすると、いきなり両手が彼の頬にあてられ、彼女のほうへ引き寄せられた。彼女の唇がマリオンのそれに深く重ねられる。突然の彼女の大胆な行動に、何? と思う暇(いとま)もない。その時にはすでに、彼の口の中にたとえようもない苦味と甘味を伴った冷たい液体が注ぎ込まれていた。

「アルラウネかっ!」

 その味が、魔法薬アルラウネ、別名「魔女の眠り薬」と呼ばれる幻覚剤だと気づいた時にはすでに遅かった。アルラウネは、口の粘膜からもすぐに吸収されるのだ。しかもこれは、男にしか効かない。そのために口移しで飲ませるのは魔女の常套手段で、護身用に使う女性もいる。

 貼りつくような彼女の両手と顔を引き剥がし、口の中のそれを岩の上に吐き出したが、すでに幻覚は始まっていた。目の前のラヴィーニアの顔がだぶって見える。

「罠・・・・・・か・・・・・・」

 かろうじて、ラヴィーニアの顔を睨みつけたが、すでに彼の視線は不安定に揺れている。

「ごめんなさい、許してね」

 謝る彼女の小さな声すらも、ゆらめく幻影のように感じながら、マリオンの身体は岩棚の上に崩れ落ち、彼の意識はそのまま、幻の集う闇の中へ静かに沈みこんでいった。


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