バザール
「ちょっと、そこの金色の坊や」
アウスディールの町の市場の中で、いきなり声をかけられた。
ここの市場は近隣でも有名だ。週に三日、早朝から夜遅くまでずっと開いていて、食料をはじめ、衣類、じゅうたん、家具、魔法用の薬草からラクダの心臓の干したものだの、何に使うのかまるでわからぬような物まで実にさまざまな品物が売られている。たくさんのテントの店がところ狭しと並び、活気と元気と明るい売り声と種々雑多な品物といろいろな人種にあふれている。行き交う人は皆それぞれ、買い物と冷やかしを楽しんでいるようだ。
自分のことと気づかぬまま、彼は足を止めずにそのまま行き過ぎようとした。呼び止められたと思われるのは、すらりとした六フィート近い長身にカーキ色のマントと簡素なグレイの上着とズボンをまとった十六、七歳の、青年と呼ぶにはまだ少し早い少年だった。細いベルトを幾重にも巻きつけた柔らかな革のブーツ、大きな背嚢を背負い、腰には剣を帯びていて、どこから見ても旅人といった風情だ。整った顔は、うっすらと日に焼けてはいたが、まだ白いと言えそうな色で、背の中ほどまで伸ばされた淡い金色の少し癖のある髪には、青いリボンがゆるく結ばれている。右目は明るい緑色だが、左目は前髪でさりげなく隠されていて見ることができない。
「金色の目のお前さんのことだよ、坊や」
周りの騒音の中で、彼の耳にそこだけが妙にはっきりと聞こえた。ぎくりと足を止め振り返ると、さっき通り過ぎた小さなテントの中からしなびた腕がおいでおいでしているのが見えた。立ち止まり、しばらくの間黙って彼は目を細めたままその腕を見つめた。呼び止められた理由より何故、声の主が自分の目のことを知っているのか訝しみながら、彼はじっとその場を動かずにいた。腕の主は、彼が立ち止まって見ているのに気づいているかのように、執拗においでおいでを繰り返している。
やがて、根負けしたように彼は軽く息を吐くと、踵を返し、そのテントの方へ戻り始めた。彼がそのテントへたどり着く前に、満足したように腕は中へ引っ込み、見えなくなっている。
その砂色の小さなテントは、衣類と食料品を売っている賑やかなテントに挟まれてひっそりとそこにあった。こんなところに人が二人も入れるかどうか怪しい、というほど小さい。そのテントではいったい何を商っているのか、表にはなんの看板も出ておらず、売るための品物も見当たらない。入り口には日よけの小さな垂れ幕がかかっている。
その垂れ幕を持ち上げ、低い位置に開いた入り口を腰をかがめて覗き込むと、中は薄暗く、小さな人影が一番奥にちんまりと座っているのが見えた。顔は影になり、はっきりと見ることができない。
「お入り、坊や」
その人影のしわがれた声が彼を呼んだ。
「何故、僕を呼んだ?」
彼は中へ入らず、入り口から覗き込んだ姿勢のままで訊ねた。
「そんな不自然な格好してると、腰を痛めるよ。中へお入り、坊や」
彼は腰を伸ばし、坊やね、と小さくつぶやいてから、もう一度屈み込んで戸口をくぐった。テントは小さく低いため、彼の長身では頭がつかえてしまいそうだ。
「真ん中へお寄り。そこへ座ればつっかえずにすむよ」
確かにテントの真ん中の天井は、他よりも少しだけ高くなっている。床には複雑なアラベスク模様の小さな赤い絨毯が敷かれているのが見て取れた。だが、彼は動かない。
「何故、という質問に答えてもらってないな」
人影は、くくっと引きこむような含み笑いをした。
「これから、その理由を教えてあげようというのさ。何故、呼び止めたのか、何故、金色の坊やだと知っているのか」
それを聞くと、彼は盛大に顔をしかめて見せた。
「坊やは勘弁して欲しいな。もうそんな年じゃない」
そのまま、彼は入り口のそばに肩の荷物を下ろすと真ん中へ進み、敷かれていた絨毯に座り込んだ。
「理由は?」
座るなりそう訊ねた彼に、人影が笑った。
「顔のわりに、気の短い御仁だねぇ。育ちのいいおっとりした坊やかと思ったが」
「そいつはおあいにくさま、育ちはあんまりいいほうじゃない」
彼は小さく肩をすくめて見せた。
「そうは言うけどね、案外、人間の本質というものは変えられないものさ。お前さんの口調は意識的に変えてあるようだけど、元々はいいとこの子のもんだよ」
そう言いながら、小さな黒い影はそばにあったランタンに灯りをともした。ぽっと明るくなったテントの中にいたのは、百はとうに越しているのではないかと思われるような枯れた小柄な老女だった。
どこかの民族衣装のような華やかな色合いの細かな柄がついたシルクの上下を身に付けている。皺だらけの額には、大きな青玉が真ん中にはめ込まれた銀の飾り輪がつけられていて、長く伸ばされた白い髪は、四本の三つ編みに丁寧に編まれて、顔の両側と背中に下がっていた。
素性の知れない魔女だな、と彼は心の中でひとりごちた。どこの系列だろう? あの民族衣装は南方のものだろうか? 肌の色も浅黒く、北方系の色ではないように見える。
それに、魔法の気配も独特だった。通常の魔法を使う魔女という感じがしない。だがそれでも普通の人間でないことは、彼女が身に纏うそのオーラが示している。
『占い師なのか。もしくは、巫女に近いのかな』
彼は首をひねった。
「お前さんのその顔もね。どこぞのお貴族様の血筋に見えるねぇ」
彼は、ため息をついた。
「そんなたわごとしか聞かされないんじゃ、ここにいても無駄のようだな」
彼が立ち上がろうとするそぶりを見せると、老女は低く笑った。
「お前さんに好奇心はないのかえ? 金色の坊や」
「好奇心はあるよ。でも、僕は気が短いんだ。あんたの講釈を長々と聞いてる気はないね」
やれやれ、と老女は口をすぼめて再び笑った。
「これはまた、見た目より気性の荒い王子様だこと。では名乗ろうかね。あたしの名前はアニス。占い魔女、ということでいいかね? 坊や」
「王子様じゃない。坊やでもない。貴族などくそくらえだ」
憮然とした顔をしながら、彼が低い声でつぶやく。
「おやおや、すっかり臍を曲げさせてしまったようだね。だが、お前さんが名乗らぬ限り、私はそう呼ぶしかないんだよ、金色の坊や」
「・・・・・・アルヴィン。アルヴィン・ローウェル」
「アルヴィン・・・・・・、そうかえ。どうやら本当の名前は名乗ってもらえないようだねぇ」
老女がにやりと笑い、アルヴィンはむっとした顔をした。そのまま無言で二人はお互いの顔から視線を外さず、睨み合うように見つめあった。
「南へお行き」
いきなり、アニスがそう言い放った。
「なに?」
「そこにお前さんの探す大事なものが見つかるだろう。かなりひどい目に遭うだろうけれど、それに見合うだけのものは得るはずだ」
アルヴィンは、口の端をかすかにまげて笑って見せた。
「僕が探している大事なものなんてないんだけどね。ひどい目に遭ってまで何も欲しくはないな」
「いいや、お前さんがずっと探している大事なものだよ。虎穴に入らずんば、虎子を得ず、さ。ドラゴンレディがお待ちかねだ。南へお行き」
「ドラゴンレディ?」
「さぁ、これで託宣は終わりさ。南へお行きな」
「ひどい託宣だな。人をいきなり呼び止めておいて、ずいぶんと中途半端なものを聞かせてくれるじゃないか」
老女は目を細め、アルヴィンと名乗った少年を見つめた。
「お前さんの本当の名前を知らぬから、これ以上はっきりとしたものは見えぬ。だが、そうまで言うならおまけで、ずんと未来の託宣を聞いてみるかえ?」
「僕の名前はアルヴィンだ」
老女はそれを否定するように頭を振ると、彼の前に細い枯れ木のような指を三本出した。
「お前さんの左目を恐れぬ人間の女は、三人いる。一人は、お前さんの生みの親。もう一人は、生涯の伴侶たる娘。そしてもう一人は、黒い女。その女に気をおつけ。その女は、すべてに災いをもたらすブラックレディ、黒い魔女さ。その女のおかげでお前さんは、大事な伴侶を失うことになるかも知れない」
「おまけと言いながら、ずいぶんとひどい託宣を聞かせてくれるもんだ」
アルヴィンは顔をしかめた。
「お前さんもそれだけの魔力を持つ魔術師ならわかるだろうさ。人はいいことしか信じたがらない。だが、これから起こることはいいことばかりとは限らない。今言ったことは、知っておけば避けられるかも知れないことさ。だが、それは遠い未来のこと。今のお前さんに言えるのは、南へお行き。それだけだよ」
アニスはそこでいったん言葉を切り、じっとアルヴィンの顔を見つめた。彼のほうは何も言わない。ただアニスを、目を細めた不機嫌そうな顔でじっと睨みつけているだけだ。アニスは、ふっと太い息を吐いた。
「これがお前さんを呼び止めた理由だ。何故お前さんの金色の左目を知っているのか、といえば、昨夜の占いに出ていたからさ。ずいぶんと強い星だったよ、お前さんの星は。あたしゃお前さんにこれを伝えるためにだけ、今日、このバザールに出ていたのさ、ドラゴンズアイの坊や」
「ドラゴンズアイとは、これのことか?」
アルヴィンはふいに顔の左側を覆っていた金の髪を、左手で無造作にかき上げた。テントの中に空気がざわめくような金色の光と魔力が満ちる。金色の髪の下に隠されていたのは、明るい緑の右目とは異なる金色の瞳だった。その瞳は強い魔力をあたりに振りまき、威圧していた。
「おやめ、坊や。あたしゃ、じきに二百に手が届こうという年寄りだ。お前さんの伴侶でも黒い魔女でもないんだから、そんなものを間近に見せられた日にゃ、ぽっくり逝っちまうよ」
まんざら嘘でもなさそうに、老女の語尾がかすかに震えた。アルヴィンは、すぐ前髪から手を放した。瞳が隠れると、再び部屋の中に静寂と安穏が戻った。
「これは失礼。あんたを脅そうとした訳じゃない。本当に聞きたかっただけさ」
アルヴィンがそう言うと、アニスがふっと軽く息をつき肩を落とした。
「それはドラゴンズアイだろう? 坊や。自分でよく知っているはずだよ。その魔力は、元々ドラゴンのものさ。竜からもらった魔力の瞳さ。今はもうすっかりお前さんと同化しているようだけれど」
「同化している・・・・・・」
小さな声でアルヴィンが繰り返す。
「とにかく坊や、南へお行き。すべての答えはそこにある。あたしにゃ、これ以上のことは言えないね」
「アルヴィンだというのに」
彼が苦笑を浮かべると、アニスがふんといった顔をした。
「あたしにゃわかる。お前さんの本当の名前は、それじゃあないよ。だが、名乗りたくなければ、名乗らなくてもいい。あたしゃ坊やと呼ぶだけさ」
彼はそのまま何も言わず、肩をすくめただけで立ち上がった。テントの入り口に向かうと荷物を拾い、くぐりぬけようとして足をとめた。
「そういえば、料金はどうすればいい?」
アニスが後ろで低く笑った。
「育ちのいい子だね。あたしが勝手に呼び止めたんだ、踏み倒せばいいものを」
再びむっと口をへの字に曲げたアルヴィンは、やおら懐から革袋を取り出し、中から金貨を一枚抜き出すと振り向きもせず、後ろへ向かってピンと跳ね上げた。
金貨は天井すれすれの低い弧を描き、狙いを過たず老女の目の前にすとんと落ちた。
「多すぎるよ、坊や」
「世話になった」
そのまま彼は、テントの入り口の小さなたれ幕を跳ね上げると、再び陽光あふれるバザールの賑やかな通りへ出て行った。
「ほっほっ。ほんとに顔のわりに気の強い坊やだこと。うまくおやり」
彼が出て行ったあと、老女が静かに笑いながらランタンの灯りを消すと、あたりの闇とともに彼女の気配もかき消えた。
もちろん、アルヴィンとは偽名だった。彼の本名はマリオン・ローセングレーンという。だが、この旅で彼はほとんどアルヴィン・ローウェルで通している。魔術師であることを隠している場合には、マリオンという名を名乗りたくなかったし、名前というものを魔術に利用される可能性が高いと見越して、本名は名乗っていなかったのだ。貴族の名は、二年前に魔法の師匠のところを出た時から捨てていて、本名を名乗るときも彼はローセングレーンと言う名字は名乗っていなかった。
『魔術師のマリオン』、それが今の自分の本当の名だと思っている。名字はない。肩書きの「魔術師」があるだけだ。そう名乗れぬときは、飾り職人の修行をしているアルヴィン・ローウェルで通す、と決めているのだ。口調もアニスの言うとおり、意識的に変えている。
今や彼はそれを楽しんでやっていた。二年近くもそういう生活をしていたおかげで名前も口調もすっかりなじんだような気がしている。理由を何のかんのつけたとしても、実は彼は自分を変えたかったのかもしれない。今の時点で彼の中では、自由に名乗れぬ不自由さより「アルヴィン」と偽名を名乗る気安さが勝っている。
そして、それとは逆に、自分のどこかで『それではいけない』と思う気持ちもあることに気づいていた。名字があるということは、ある意味、家族や家、一族という後ろ盾があるということだ。これからの自分にそれは必要がない、あっても当てにはできないという気持ちから捨てたのだ。
だが、まだ彼はすらりと何のためらいもてらいもなく、『魔術師マリオン』と名乗る勇気を持ち合わせていない。十七歳になった今でも、あらゆることに不安定な自分がその名を名乗ることができるのかどうか決めかねているところがある。
もしかしたら、このままずっとアルヴィン・ローウェルと名乗り続けたほうがいいのだろうか、と時々自問自答してみることも少なくはない。しかし、それは偽者の自分になるということなのだ。現にアニスは、アルヴィンが本当の名前ではないと見抜いたではないか。ついに最後まで彼女は、「坊や」としか彼のことを呼ばなかった。それはアルヴィンが彼の本当の名前にはなりえないと、彼女にそう言われたに等しい。
彼の眉は今日何度目になるのか、またかすかにひそめられた。




