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三十九話 大姫と千鶴御前

鎌倉幕府を開いた源頼朝と北条政子には5人の子が居た。

長女大姫、次女・三幡、長男頼家、次男実朝である。大姫とは「長女」の通称で、本名は不明。

頼家と実朝は頼朝亡き後、鎌倉の執政者になった。


○大姫の物語

治承2年(1178年)、 頼朝が伊豆の流人だった頃、政子は父・時政に結婚を反対され、幽閉されたがそれを振り切り、大雨の夜を凌いで頼朝の元へ走った。その年、大姫は誕生した。そして治承4年(1180年)8月、大姫が数え3歳の時に父・頼朝が挙兵、東国を制圧して鎌倉殿と称されるようになる。大姫は源平合戦真っ只中で若くして生きた女性である。


寿永2年(1183年)春当時、頼朝と対立していた源義仲は、長男で当時11歳の源義高を人質として鎌倉に送り、当時6歳の大姫の婿とする事で頼朝と和議を結んだ。大姫、6歳、義高、11歳。恋愛感情は存在したのか?は別として、義高が人質とは云え、2人はとても睦まじい仲だったと云う。


しかし頼朝と義仲の関係は破局し、翌年の寿永3年(1184年)正月、義仲は頼朝の送った軍によって都の郊外で敗死する。

同年(改元して元暦元年)4月21日(6月1日)、頼朝は将来の禍根を断つべく義高の殺害を決める。

ところが大姫や義高のことを心配する女らによってこの情報は事前に大姫に漏洩する。大姫は、義高を周囲の人たちと協力して女装させ、鎌倉から脱走させることに計画する。

「義高が脱走した!」すぐさま頼朝に伝わり、頼朝はこれに激怒し誅殺部隊を派遣。義高は、この追っ手に殺されるにである。

義高の死により、大姫はショックで衰弱してしまう。母・政子は頼朝を責め立てた。「娘が不憫すぎる!義高を殺したあなたが悪い!」sると頼朝は義高を討った藤内光澄を殺してしまう。いやはや何とも・・・だ。


義高の死は、幼い大姫の心に永遠に癒えることのない深い傷を残した。その後、十年経っても大姫の心は不安定なままだった。

1194年、一条高能という人物との縁談が持ち上がった。大姫は「嫌です!そんな話を進めるなら自殺します!」と断固拒否した。大姫は17歳になっていた。仕方なく頼朝と政子は次の縁談を強引に進めた。相手は後鳥羽天皇である。

「相手が天皇なら・・・」とでも思ったのか?大姫には無関係に後鳥羽天皇との縁談が進んでいった。単に政略結婚である。大姫は強制的に政争に巻き込まれていった。


平安時代には長い間、天皇の外祖父(母方の祖父)が絶大な権力を誇ってきたという歴史があります。源頼朝は鎌倉幕府を開き、新しい権力の在り方を示した革命的人物だと私は思ってるんですけど、それでも天皇と血縁関係を結ぶというのは権力者にとって魅力的に映るのでしょう。


源頼朝は、朝廷における信頼できる代弁者として九条兼実くじょうかねざねと云う人物を重用していたが、頼朝は九条兼家との関係を突如として絶ってしまう。頼朝は自分を支えてくれていた九条兼実を突き放し、貢物や接待ざんまいで後鳥羽天皇と蜜に親しくなる。その後、九条兼実は一門と共に失脚した。

しかし、頼朝が本気になればなるほど辛い想いをするのは大姫なである。大姫は病から回復する事なく建久8年7月14日(1197年8月28日)に死去した。享年20。死因不明。

自害したのでは?と個人的には思う。

常楽寺に大姫の墓と伝えられる塚が残り、大姫の守り本尊であった地蔵を祭った地蔵堂(岩船地蔵堂)が扇ヶ谷に残っている。


大姫入内運動は、頼朝が通親・丹後局に利用され、結果的に朝廷の反幕府派の台頭を招く重大な結果をもたらした。頼朝は大姫の死後、次女・三幡の入内工作を進めて女御となるも、自身と三幡の相次ぐ病死で頓挫する。中央貴族の末裔としての意識を捨てきれなかった頼朝の限界とも評されている。


○千鶴御前

始めに「鎌倉幕府を開いた源頼朝と北条政子には5人の子が居た」と書いた。

頼朝と政子の間には4人である。では?もう1人とは?


伊豆国へ流罪となり、在地豪族の伊東祐親の監視下で日々を送っていた時の頼朝の話である。

祐親が大番役で上洛している間に祐親の三女・八重姫と頼朝は通じ、やがて男子を一人もうけた。頼朝の初子である。「千鶴御前」と名付けられた。千鶴御前が3歳になった時、大番役を終えて京から戻った祐親は激怒した。「今の世に源氏の流人を婿に取るくらいなら、娘を非人乞食に取らせる方がましだ。平家の咎めを受けたらなんとするのか?!」と平家への恐れから、千鶴を轟ヶ淵に柴漬(柴で包んで縛り上げ、重りをつけて水底に沈める処刑)にして殺害した。

娘を取り返して同国の住人・江間の小四郎に嫁がせた。やがて頼朝は北条時政の長女・政子と結ばれることになる。その後の八重姫については、入水自殺したとも、北条氏や千葉氏と縁を結んだなど、様々に伝えられる。

上記の八重姫と千鶴御前に関する記述は虚構っぽい。

頼朝の流人時代を記した史料はなく、伝承の域を出ない。しかし、祐親が頼朝を殺害しようとした所を、次男・祐清がそのことを告げて、頼朝が走湯権現に逃れたこと、挙兵後の頼朝に捕らえられた祐親が恩赦によって助命される所を「以前の行いを恥として」自害したことが記されており、頼朝と祐親の間に何らかの因縁があったことは事実である。

とは云え、伊豆の国市中条に八重姫を祀った真珠院がある。伊東市音無町には頼朝と八重姫が逢瀬を重ねたという音無の森の音無神社、八重姫が千鶴丸を祀ったとされる最誓寺などがある。

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