第三十八話 源範頼
頼朝は右大将家政所を司る四等官として政所別当・大江広元、令に主計允・二階堂行政、案主・藤井俊長、知家事・中原光家、問注所執事・三善善信、侍所源範頼別当・和田義盛、侍所所司・梶原景時、公事奉行人・藤原親能他6名。京都守護・一条能保、鎮西奉行人・天野遠景を任じ、鎌倉幕府の陣容を固めた。
さて、九郎義経と共に源平合戦を戦った源範頼の事である。
源義朝の六男。源頼朝の異母弟で、源義経の異母兄。
遠江国蒲御厨(現静岡県浜松市)で生まれ育ったため蒲冠者、蒲殿とも呼ばれた。その後、藤原範季に養育され、その一字を取り「範頼」と名乗る。治承・寿永の乱において、頼朝の代官として大軍を率いて源義仲・平氏追討に赴き、義経と共に討ち滅ぼした。その後も源氏一門として、鎌倉幕府において重きをなした。
建久4年(1193年)5月28日。曾我兄弟の仇討ち(源頼朝が行った富士の巻狩りの際に、曾我祐成と曾我時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経を討った事件。赤穂浪士の討ち入りと伊賀越えの仇討ちに並ぶ、日本三大仇討ちの一つである。)が起こり、頼朝が討たれたとの報が入った。
嘆く政子に範頼は「後にはそれがしが控えておりまする」と述べた。この発言が頼朝に謀反の疑いを招いた。
「お前が控えている?だと・・・」政子は謀反の疑いを範頼にかけた。
頼朝が討たれたとは誤報であったことがその後、わかる。
8月2日、範頼は頼朝への忠誠を誓う起請文を頼朝に送るが、頼朝はその状中で範頼が「源範頼」と源姓を名乗った事を過分として責めた。
10日夜、範頼の家人である当麻太郎が、頼朝の寝所の下に潜む。気配を感じた頼朝は、結城朝光らに当麻を捕らえさせた。詰問を行うと当麻は「起請文の後に沙汰が無く、しきりに嘆き悲しむ参州(範頼)の為に、形勢を伺うべく参った。全く陰謀にあらず」と述べた。次いで範頼に問うと、範頼は覚悟の旨を述べた。頼朝は、疑いを確信した。
17日、範頼を伊豆国修禅寺に幽閉し、誅殺した。
18日、範頼の家人らが館に籠もって不審な動きを見せたとして討伐された。
20日、曾我兄弟の同腹の兄弟である原小次郎なる人物が範頼の縁座として処刑される。
菱沼一憲は処刑された原小次郎が範頼の郎党であったと推測し、曾我兄弟の仇討ちのきっかけとなった兄弟と工藤氏の所領争いに範頼が何らかの関与をしていたと推定したと思われる。
その結果、頼朝が範頼に対して何らかの嫌疑を生じさせたのではないか?ただし、嫌疑の範囲でからか、範頼やその近臣は処分されても範頼の子の処分には至らなかった。
さて、頼朝の身内殺しは10数名ほどになる。その家臣やらを含めると幾人になるのか?疑い深い頼朝ではあったが、少し異常とも云える。明日は命も知れぬ戦国の世ではあるが。こんなことの繰り返しからその後、源氏は3代で滅びてしまうのである。
範頼には伝説が残っている。よくある生存説である。
範頼は修禅寺では死なず、越前へ落ち延びてそこで生涯を終えた説。
武蔵国横見郡吉見(現埼玉県比企郡吉見町)の吉見観音に隠れ住んだという説などがある。
吉見観音周辺は現在、吉見町大字御所という地名であり、吉見御所と尊称された範頼にちなむと伝えられる。範頼の妻の祖母で、頼朝の乳母でもある比企尼の嘆願により、子の範圓・源昭は助命され、その子孫が吉見氏として続いたとされる。
このほかに武蔵国足立郡石戸宿(現埼玉県北本市石戸宿)には範頼は殺されずに石戸に逃れたという伝説がある。範頼の伝説に由来する「石戸蒲ザクラ」は日本五大桜の天然記念物に指定された。




