第三十七話 鎌倉幕府
九郎位一行は更に北を目指した。
「大草原だ・・・」
春先である。蝦夷地は最も華やいだ季節だ。
「九郎様、熊なども多いと聞いとりますぞ」
「うむ、気をつけよう」
数日、徒歩の敢行だ。
「広いな、どこまでも草原だ」
騎馬に乗った数名がやってきた。蝦夷達だ。
「〆〓ゞーーー∈∃?」
「何を云ってるんだ?」
「蝦夷の言葉だ」
「►✣✯☒✸✕」
「九郎殿!蝦夷の言葉が判るんですか?」
「片言ならな。何者だ?と云っている。東北から来たと云った」
「✭✺※❀✘▹◘」
「✪✧△❑✗﹆⚙︎」
「理解したようだ。歓迎すると云っている」
皆、つくづく思った。「九郎殿が居て良かった・・・」
そして蝦夷の村に共に向かった。
さて、鎌倉である。
頼朝の圧迫を受けた泰衡は義経を襲撃して自害に追い込む。後白河法皇は問題は解決したと判断した。しかし、頼朝の目的は背後を脅かし続けていた奥州藤原氏の殲滅にあり、泰衡追討の宣旨を求めた。奥州への対応を巡って朝廷と幕府の見解は分かれたが、頼朝は宣旨を無視し、自ら軍を率いて奥州に発向し、奥州藤原氏を滅ぼした。これは朝廷の命によらない私戦だったが、後白河は泰衡追討宣旨を下して頼朝の軍事行動を追認したのである。
これにて鎌倉に対抗しうる武家勢力はいなくなった。
建久元年(1190年)11月7日、頼朝は1000余騎の軍勢を率いて上洛し、平氏の本拠地・六波羅に新造された邸宅に入った。東国の兵を見るために多くの人々が集まり、後白河法皇も車を出して密かに見物した。
9日、後白河法皇と頼朝は院御所・六条殿で初めての対面を果たす。両者は他者を交えず、日暮れまで会談した。詳しい内容は明らかでないが、この日、後白河法皇は頼朝を権大納言に任じた。
14日、頼朝は京都を去り鎌倉に戻る。後白河法皇との会談は8回を数え、双方のわだかまりを払拭して朝幕関係に新たな局面を切り開いた。
建久2年(1191年)3月22日。頼朝の諸国守護権が公式に認められた。ここに武家が朝廷を守護する鎌倉時代の政治体制が確立することとなった。
当時、武家政権を「幕府」と呼んでいたわけではなく、朝廷・公家は関東と呼び、武士からは鎌倉殿、一般からは武家と称されていた。「吾妻鏡」に征夷大将軍の館を「幕府」と称している例が見られるように、もともと幕府とは将軍の陣所、居館を指す。武家政権を幕府と称したのは江戸時代後半、幕末になってからのことである。
建久3年(1192年)2月18日。後白河法皇は病に伏した。後鳥羽天皇が見舞いのため六条殿に行幸した。大いに喜んで、後鳥羽の笛に合わせて今様を歌っている。後鳥羽帝が還御すると、後白河院は丹後局を使者として遺詔(天皇への遺言)を伝えた。そして3月13日。六条殿において66歳で崩御した。
同年、頼朝は征夷大将軍に任命される。これにより、鎌倉幕府が形成した。




