第三十六話 衣川の戦いその後
九郎と共に逃げたのは
・武蔵坊弁慶
・依田源八兵衛弘綱
・亀井六郎重清
・鈴木三郎重家
・片岡八郎
・伊勢三郎義盛
・駿河次郎清重
・黒井次郎景次
・熊井太郎忠元
・鷲尾三郎義久
・備前平四郎成房
・佐藤三郎義信
・佐藤四郎経忠
・民部卿頼然
・下部鬼三太
と云う15名である。
九郎は北路を取る途中で知らせを聞いた。
「私が討ち取られた?」
文治五年(1189年)5月:泰衡、義経誅滅を報告する。
同年6月:義経の首が腰越に到着する。
首は腐らぬ様、酒につけて衣川から運ばれた。遠路であり、真夏である。
頼朝の前に差し出された時、首は腐って顔が判断できぬほどだった。「九郎義経殿の首にてございます」
「・・・・誠か?」頼朝は少々疑ったのである。
生き延びていれば何らかの行動を示すはず・・・頼朝はそう思って時を待った。が、皆目何の連絡も入らなかった。「やはり、あの首は九郎のものだろう」そう解決づけた。
同年7月:頼朝、泰衡討伐を命令。出発。
泰衡は「私は関係ない」と頼朝に書状した。が、受け入られなかった。
同年8月:泰衡、鎌倉軍に敗北し、逃亡。その後補まった。
同年9月:泰衡、梟首となる。藤原氏絶滅。
実は秀衡は生前、九郎の影武者を雇った。名を「杉目太郎行信」と云った。九郎の母方の従兄弟で、年齢・背格好が、九郎激似だった。討ち取られたのは彼である。後、杉目太郎行信の「首なし」遺体が、沼倉小次郎高次の手で宮城県金成町・信楽寺に葬られた。
常陸坊海尊のその後である。
「源平盛衰記 巻四十二」「義経記」「平家物語 第六末」に登場する、源義経の家臣の一人。園城寺もしくは比叡山の僧であったとされる。
栃木県真岡市 遍照寺には、「秀衡の命を受け、源義経の子・千歳丸を懐にして中村の地に赴き、中村常陸入道念西(伊達朝宗)に届け、託した」と云う記録がある。
つまり、海尊は「頼朝軍が攻めて来た時、もしもの時は此の子だけでも生き延ばせろ」と、生前秀衡から密命を受けていた。大軍の頼朝軍が攻めて来たら、平泉勢は一溜まりも無いことは誰もが解っていたであろう。
中村氏は藤原氏とは親戚関係にあたり、伊達家の祖名である。
文治5年(1189年)念西が、源頼朝に従い奥州合戦に従軍し戦功を得る。これにより伊達郡と信夫郡を賜わり、伊達氏を称した。中村城(栃木県真岡市 中村氏の鎌倉、室町期の居城)は中村常陸入道念西三男資綱が跡を継ぎ、次に朝定(源義経の遺児)が継いだ。※栃木県真岡市史案内・中村城
常陸坊海尊はそのまま、近隣山中で千歳丸を見守り、世捨て人となった。麓では何時しか「あの山には仙人が住んでいる・・・」と噂された。生死年表不明。
中村城跡に中村朝定を祀る社中村大明神が在る。中村大明神は中村城落城の後、最後の城主となった中村小太郎時長を祀る小太郎明神として伝わり、現在は遍照寺境内に伊達氏初代中村朝宗を祭神とし歴代中村氏を祀る社として移築された。
さて、九郎である。
吉次とは早々別れて九郎一行は北へと向かった。街道筋は避けた。吉次の声のかかった村を転々とし、傷を癒し、農民や漁民の手を借り、竜飛から船で蝦夷地(北海道の古名)に向かった。
ベテランの漁師が舵を取った。
「津軽海峡は荒海です。素人では無理です」
九郎はこの両氏の船捌きを惚れ惚れと見ていた。
「こんな水夫がわが水軍にいたら、壇ノ浦の状況も大分変わっただろうに・・・」
「九郎様、陸が見えてきました。蝦夷地ですぞ!」
この時代の地図を見れば、北海道はいい加減な形をしている。それほど未開の土地だったのである。
九郎一行は陸地に着いた。
「親父、ありがとう」
「九郎様、お元気で!」
さらに北に向かった。
近年、函館で鎌倉時代の兜が土中から出た。
鎌倉時代の何者かの兵がここを訪れていた証拠である。




