第二十九話 壇ノ浦その後、伝説
話から少し外れる。
○草薙剣の謎
壇ノ浦の決戦は三種の神器を取り返すことにあった。
八尺瓊勾玉は取り返した。もう1つは草薙剣である。
三種の神器のうちの1つ、草薙剣は、二位尼(安徳天皇の祖母、平清盛の妻)が腰に差し、安徳天皇を抱きかかえて共に海中に没した・・・とされる。
後鳥羽天皇は、帝の証が無いのを気にして、長きに渡り草薙剣を探した。壇ノ浦海底をである。
海女を集め、更に高僧まで集めて神仏に祈願させた。
しかし、剣は出てこない。
また更に高名な陰陽師まで呼び、卜占で占わせた。
陰陽師はこう述べた。
「龍神・八岐大蛇が八歳(数え)の安徳天皇に化身して剣を取り返しに来たのだ。そして海底に帰った」
つまり、安徳天皇は八岐大蛇なのだから、もう見つからないと云うのである。
三種の神器は二種の神器になるのか?
いや、草薙剣は熱田神宮に祀られている。これはどういうことなのか?
「熱田神宮にある草薙剣は本物だ」と云われる。無くしたものが何故あるのか?
「壇ノ浦に没した剣は形代である」と云う。では後鳥羽天皇はその形代を何故?必死に探させたのか?三種揃わず、即位したと云われ続けるのか?
異和な話である。
三種の神器は皇族でも実見は未だにされていない。が、実は崇神天皇時、鏡と剣は宮中から出され、外で祭られたことがあり、この時に形代が作られたと云う。「古語拾遺」より
つまり、現在の熱田神宮に奉斎されている草薙剣は形代であると云えないか?
大体、「二位尼が草薙剣を腰に差し、水中に没した」と云う。ならば平安時代に多くの人が三種の神器を目撃したことになる。
実に不可思議ではないか?
○平家その後
二位尼の弟である平時忠は捕虜となり、娘を源九郎義経に嫁がせ、流刑となった後も善き待遇で生涯を全うした。
総大将・平宗盛は源氏軍に捕理、鎌倉に連行された後、京都に送還されて斬首となった。息子・清宗、他の男子も殺された。
一方、清盛の異母弟である平頼盛は、兄弟の中で唯一生き残った。頼盛は後白河法皇や頼朝とも深い繋がりがあり、平家の中枢から距離を置かれていた。頼盛は、壇ノ浦の戦いの翌年に死去。
では、その他、平家及び郎党はどうなったのだろう?
平家落人伝説が全国に残っている。
○平家落人伝説
●栃木県湯西川温泉では6月に平家大祭が催される。平重盛の六男・忠房の息子らが落ち延びた地とされていからである。安徳天皇を祀る下関・赤間神宮が唯一分祀されている場所だ。
そして、不思議な風習が残っている。
・たき火をしない(煙を立てない)
・鶏や犬を飼わない
人に知られないよう生きていたように見える。
●沖縄県うるま市・平安座島にも平家落人伝説がある。その名の通り「平安の座島」である。平家落人が島に安徳天皇を祀ったという伝説にちなむとされるが、「干潮」を意味する沖縄方言だとも云う。
●奄美大島には、平行盛は行盛神社(龍郷町戸口)。平有盛は有盛神社(奄美市浦上)として祀られている。有盛が源氏軍船の遠見番(見張り)を配置した跡地が今井権現神社。行盛が源氏軍船の遠見番を配置した跡地が蒲生権現神社として残っている。
●平家蟹
俗称ではなく、正式な学名である。「鬼面蟹」と云う別名でも呼ばれる。甲羅に憤怒の表情を浮かべるヘイケガニ。「平家の怨みが蟹に宿ったもの」と紹介される事からも、大昔から「ヘイケガニは怨霊による呪いの化身
と言い伝えられている。
○安徳天皇潜幸説
安徳天皇は壇ノ浦で死なず、逃げ延びたと云う伝説である。数々残っている。
●鹿児島県硫黄島には詳しい史料が残されている。
平資盛(重盛の次男)。壇ノ浦では、弟の有盛、従弟の行盛と共に、碇を背負って海に沈んだとされているが、逃避組として安徳帝を擁護し、この3将は共に逃避したと云う。
70余艘・1300人で釣り船に紛れ、出立。
細島~志布志~種子島~硫黄島着と、九州日向灘から南下し、鹿児島の先、奄美に至る。途中、逃亡・離散した者も多く、1300人が、300人に減った。硫黄島に黒木御所を造る。
硫黄島でも、壇ノ浦の戦い後、平家追討による残党が多く集まり、資盛は各島に分散させる。竹島、屋久島、トカラ列島、黒島、加計呂麻島、大島琉球などなど。
1243年、安徳帝崩御、66歳。硫黄島には、平家神社内に安徳帝とされる墓が残っている。
平資盛、没年不明。奄美加計呂麻島の大屯神社に祀られている。重要無形民族文化財。
●徳島県東祖谷山村。壇ノ浦の戦いの年の大晦日夕方、平国盛一族が安徳天皇と共に、此の地に逃れて来た。
途中、一つの洞窟を見つけ、其処に潜んだ。折しも翌日は正月だったので、槍の枝を門松代わりにし、入り口に飾り、一夜を過ごしたと云う。其の洞窟は現存し「平家の窟」と呼ばれている。
現在でも東祖谷山村の平家所縁の家柄では、正月、門松に槍の枝を代用する。国盛の子孫方も現続している。
此処には、「平家の馬場」「鉾神社」「国盛杉」など、平家所縁のものが多々ある。国盛が植えたとされる「国盛杉」は樹齢1000年と云われ、県の天然記念物になっている。
其の当時、近辺には源氏所縁の武士たちが、少人数住んでいた。平氏が来た!と、襲撃した。人数は7人。忽ち、返り討ちに合い、斬殺された。「七人塚」として、現在も在る。
●扨、此処から2kmほど遡ると、栗枝度と云う地区に八幡神社がある。
此の神社には鳥居が無い。安徳帝の遺骨があると謂われる場所だからである。
拝殿横に聖地とされる場所があり、此処は安徳帝を火葬にした場所とされている。杉の木に囲まれ、石積みがなされてあり、注連縄が張られている。
誰も足を踏み入れてはいけない場所で、此処にはどんなに大雪が降っても、雪が積もらないのだと云う。安徳帝、崩御17歳。平家落人たちは、名を隠し、代え、墓石にも銘を刻まず、子孫にも禁じた。
●徳島県越知町横倉山には、宮内庁が皇族の墓と認めた「陵墓参考地」があり、これが安徳天皇の墓とされている。安徳天皇は壇ノ浦では死んでおらず、ここに逃げてきて23歳まで生きのびた伝説がある。安徳天皇の死後、横倉山に横倉宮という神殿を建てて祀ったとされており、近くには入水した平知盛、経盛の墓もある。
●青森県木造町には天皇山と云う小山が在り、安徳天皇が此処まで逃げて来たとされている。
●安徳天皇は大きな海蛇になって、今も生きている・・・などと云う神話めいた伝説まである。
さて、荒唐無稽な伝説も数々あるが、今も残る墓や神社などは何を意味しているのか?確証と呼べるものは無い。




