第二十五話 屋島の戦い
屋島の戦い。元暦2年/寿永4年 2月19日(1185年3月22日)。
この頃の屋島は独立した島だった。干潮時には騎馬で島へ渡れることを知った九郎は強襲を決意した。大軍の襲来と思わせるため(九郎軍は150騎)、周辺の民家に火をかけて、一気に屋島の内裏へと攻め込んだ。海上からの攻撃を予想していた平家軍は慌てふためき、内裏を捨てて、屋島と檀ノ浦浜付近の海上へ逃げ出した。いとも簡単に内裏を奪った。
しかしその後、平家軍は源氏軍が少数だとわかった。「騙しよった!」。
平家軍は船を屋島・庵治半島の岸に寄せて激しい矢戦を仕掛けてきた。平家の猛攻に流石に源氏軍も押され気味だ。
一本の矢が九郎に飛んできた。「避けられない!これまでか・・・」
その時、「九郎殿!」1人の男が九郎の盾となり、身を呈した。佐藤継信だ。継信は射られて討ち死にした。
「継信ーーー!!」
「兄者!!」咄嗟に弟の忠信も駆け寄った。
「継信!死ぬな!死ぬな!」九郎は継信の身体を起こしたが絶命していた。矢を喉に受けていた。
奥州平泉から九郎と行動を共にした忠臣・佐藤継信は死んだ。
私は個人的に佐藤兄弟が好きなのである。義経と行動を共にしなければ、この見事な武士達が世に出ることはなかったであろう。
夕刻になり休戦状態となった。
平氏軍から美女の乗った小舟が現れ、竿の先に扇をつけている。「源氏、この扇の的を射よ」と挑発するではないか。外せば源氏の名折れになる。
「お遊びのつもりか?」義経は那須与一を呼んだ。「与一、お前を私につけた理由は知っているな?」
「はい、拙者の弓でございます」
「あれを射て見てくれ」与一はやむなくこれを引き受けた。
与一は海に騎馬で乗り入れると、弓を構え、「南無八幡大菩薩!」と神仏の加護を唱えた。
扇までの距離は現代のメートル法で云えば、76〜87mと云う見解がある。しかも扇は揺れる船上だ。「もしも射損じれば、腹を切って自害せしり!」と覚悟し、鏑矢を放った。
ヒューーーーン・・・。
矢は見事に扇の柄を射抜き、矢は海に落ち、扇は空に舞い上がった。
平家物語にある「扇の的」である。
因みに和弓は元々長距離が撃てる強力なものである。源平時代の弓の製法も同じで
技術的に全く変わりはない。
夕日を後方に、赤い日輪の扇はヒラヒラと海に舞い落ちた。
沖の平氏は船端を叩いて感嘆し、陸の源氏は箙(矢を入れて右腰につける武具)を叩いてどよめいた。
見事な弓の腕前を称えようと平家の武者が、興に乗って扇のあった下で舞い始めた。
「あの油断し切った平家軍に矢を放て!」
九郎はこの武士を伊勢三郎と与一に命じて射殺させた。
「なんという奴らだ!」「卑劣な!」「武士の風上にも置けぬ下郎!」平家の船上から、そんな声が聞こえてきた。
九郎は「戦さ時だ。何を浮かれておるか」と思ったに違いない。
怒り狂った平家は再び攻めかかって来た。合戦最中に九郎が海に落とした弓を拾い上げ「こんな弱い弓を敵に拾われたら、源氏の大将の弓かと嘲られては末代までの恥辱」と語ったエピソードが残っている。「弓流し」である。
2月21日、平家軍は志度浦から上陸を試みるが、九郎は80騎を率いてこれを撃退。やがて、渡邊津から出航した梶原景時の鎌倉方大軍が迫り、平氏は皆、彦島へ退いた。
屋島の陥落により、平家は四国を失った。既に九州は範頼の大軍によって押さえられており、平氏は彦島に孤立する。源平合戦となると源九郎義経ばかりが覇者の如く戦ったように見えるが、源範頼の九州制圧は源平合戦の戦局に大きな影響を与えた。つまり挟み撃ちである。平家の逃げ道は海上しか無くなった。そして義経は水軍を編成して、最後の決戦である壇ノ浦の戦いに臨む。
「我らは平家を追い詰めた。しかし、次は水軍での海上合戦になる。あの水軍に手慣れた平家に勝つには・・・・」
九郎にとって初めての海上合戦であり、親の仇、平家滅亡の最後の戦さになることを模索していた。
「勝てるか?・・・」
一抹の不安をぬぐい切れなかった。




