第二十四話 水軍を持たぬ源氏の苛立ち
破竹の勢いで勝ち進んだ鎌倉軍。歴史に残る「屋島の戦い」までにはこの後、時が空く。一番の理由に源氏は水軍を持っていなかったことによるであろう。
平氏は弱ったこの間、屋島を本拠として、内裏を置き、長門国彦島には平知盛(平清盛の四男)を大将に拠点を置いた。そして水軍を擁して瀬戸内海の制海権を握り、諸国からの貢納を押さえ力を蓄えていた。一方の鎌倉軍は船が無く、彦島・四国攻めに踏み切れず、休戦が続いた。
範頼は鎌倉へ帰還し、義経は京にそのまま留まった。九郎は畿内の軍事と治安維持をすることとなる。九郎の指揮の元、梶原景時を摂津・美作、土肥実平を備前・備中・備後の惣追捕使とし、その地域の武士達の統制に乗り出した。
しかし、屋島の平家の勢力が再び山陽道に及び始め、平家に度々襲撃されるようになった。そのため西国への大規模な出兵が必要となり、山陽道遠征軍の指揮をとるのは当初、九郎が予定されていたが・・・。
元暦元年(1184年)7月、「三日平氏の乱(伊賀・伊勢に潜伏していた平氏残党が蜂起した事件)」勃発。その反乱を鎮圧するため九郎が専念せざるを得なくなる。そのため頼朝は山陽道への出兵の総指揮者を範頼に変更した。8月7日、範頼率いる和田義盛、足利義兼、北条義時ら1000騎が鎌倉を出立した。
「三日平氏の乱」では鎌倉方御家人・佐々木秀義が戦死。鎮圧された後も、都の治安維持に九郎が必要不可欠であると判断した後白河法皇は九郎を検非違使尉に任じた。
範頼が入京して追討使に任じられ、9月1日に3万余騎をもって、京から九州へ向かった。
範頼軍は10月には安芸国に達し、12月には「備中国藤戸の戦い」で平行盛((たいらのゆきもり)(平清盛の次男、平基盛の長男。)の軍を撃破する。だが、範頼の遠征軍は長く伸びた戦線を平氏軍に脅かされ兵糧の調達に窮し、関門海峡を知盛に押さえられ、船も無いため九州にも渡れず頓挫。
一方、京に留まっていた九郎は後白河法皇に引き立てられ、9月には従五位下に昇り、10月には昇殿を許されている。九郎との関係に後白河法皇の策略が見え始める。後に頼朝は後白河法皇を「日本国一の大天狗」と揶揄した。
元暦2年(1185年)1月、範頼は豊後国と周防国の豪族から兵糧と兵船を調達して、ようやく豊後国へ渡ることに成功する。2月1日、範頼は筑前国芦屋浦で平氏方の原田種直を破る。範頼は背後から彦島の知盛を衝くことを企図するが兵船が不足し、またまた頓挫。
この状況に頼朝は苛立った。
この苦境を知った九郎は後白河法皇に西国出陣を奏上して許可を得る。そして、摂津国の水軍渡辺党と熊野水軍、伊予水軍を味方にし、水軍を得、摂津国渡邊津に兵を集めた。
「屋島を叩くぞ」
2月18日午前2時、暴風雨のために、船頭らが暴風を恐れて出港を拒んだが、九郎は郎党に命じて弓で船頭を脅し、5艘150騎で出航を強行する。1日と4時間で阿波国勝浦に到着した。
屋島の平家は、田口成直(田口成良の子)が3000騎を率いて伊予国の河野通信討伐へ向かっており、1000騎程しか残っておらず、それも阿波国、讃岐国各地の津(港)に100騎、50騎と配しており「屋島は手薄」との情報を手に入れた。
「あの屋敷を襲おう」まず、九郎は平家の豪族・桜庭良遠(田口成良の弟)の舘を襲撃。その後、徹夜で讃岐国へ進撃して20日に屋島の対岸に至った。
九郎の戦さとは奇襲に次ぐ奇襲の連続である。「敵の裏をかく」それが九郎義経の戦法だ。




