第十八話 義仲と巴御前
入洛時には数万騎だった義仲軍は、水島の戦いの敗北で脱落者が続出して約千騎と激減していた。義仲は平氏との和睦工作、後白河法皇を伴っての北国への下向を模索する。が、鎌倉軍が目前に迫り開戦を余儀なくされた。更に法皇幽閉などの事で人望を失い、義仲には近臣の者以外、従う兵は無くなっていたのだ。と、云うより「鎌倉軍には勝てない・・・」と判断した兵たちは義仲を見限った。
鎌倉軍が怒涛の如くめ入ってきた。義仲には四天王が居る。
○今井兼平
義仲と幼少の頃からの仲。義兄弟のような関係。琵琶湖畔・栗津にて闘死した義仲の後を追って自害する。
○樋口兼光
今井兼平と有名な巴御前の兄。
義仲の死後、義経軍に生け捕りにされ、斬首。
○根井光親
宇治川の戦いにて戦死。
○楯親忠
根井光親の子息。六条河原にて戦死。
である。
今井兼平に500余騎を与えて瀬田の唐橋を、根井行親、楯親忠には300余騎で宇治を守らせ、義仲自身は100余騎で院御所を守護した。これに範頼は3万騎で瀬田を、義経は2万5千騎で宇治を攻撃した。鎌倉軍の圧倒的な兵力である。
寿永3年(1184年)1月。宇治川の戦い。「治承・寿永の乱(源平の乱)」の合戦の一つである。
根井行親・楯親忠軍は宇治橋の橋板を外し、川底に乱杭を立て、その杭に太い網を張り、綱には棘のある木の枝を結びつけて待ち構えていた。義経はこの激流では危険だと判断し、思案した。が、武者二騎が争うように駆け出てきた。
その名は、梶原源太景季、佐々木四郎高綱。
高綱は宇治川の急流に馬を乗り入れた。馬の足に引っかかった大網を重代の太刀で切りながら進み、一直線に流れを渡り切った。
「佐々木三郎秀義の四男、佐々木四郎高綱。宇治川の先陣ぞや!」と名乗り上げ、敵陣に突撃した。
これが世に云う「宇治川の先陣争い」である。
根井行親・楯親忠は必死の防戦をするが、義経軍に宇治川を突破され、京洛へ突入する。京の義仲が出陣し、激戦となるが、義仲は敗れ、後白河法皇を連れて逃走すべく院御所へ向かったが義経は自ら数騎を率いて追撃し院御所門前で義仲を追い払い、後白河法皇の確保に成功する。義仲は更に逃げて、今井兼平と合流すべく瀬田へ向かった。
瀬田で範頼軍と戦っていた今井兼平は宇治方面での敗報を知り退却、粟津で義仲との合流する。ここに範頼軍が挑みかかった。義仲軍は次々に討たれ、数騎となり、義仲が顔面に矢を受けて討ち取られた。今井兼平も義仲を追って自害。これが「粟津の戦い」である。
九条兼実は「義仲天下を執る後、六十日を経たり。信頼の前蹤と比するに、猶その晩きを思ふ」と評した。享年31。
義仲が戦死したとき嫡男・義高は頼朝の娘・大姫の婿として鎌倉にいたが、逃亡を図り殺された。
さて、義仲と云えば、「巴御前」の話をしなければならないが、諸説有り過ぎて善くわからなかった。創作じみた伝説が多々勃興しているのだと思う。
○巴御前
義仲に仕えた女女武者。義仲の妾。今井兼平、樋口兼光の妹。
「平家物語・覚一本」の中、「木曾最期」に登場し、木曾四天王とともに源義仲の平氏討伐に従軍したと記されている。
「木曾殿は信濃より、巴・山吹とて、二人の便女(美女)を具せられたり。山吹はいたはりあって、都にとどまりぬ。中にも巴は色白く髪長く、容顔まことに優れたり。強弓精兵、一人当千の兵者なり」
宇治川の戦いで敗れ、落ち延びる義仲に従い、最後の5騎になって、義仲は「お前は女だから逃げろ。自分は討ち死にする覚悟だが、女を連れていたなどと云われるのはよろしくない」と巴を落ち延びさせようとした。巴は落ちようとせず、敵将・御田八郎師重が現れると、馬を引き落とし、御田の首を切った。その後、鎧・甲を脱ぎ捨てて東国の方へ落ち延びたとされている。
「長門本」では、落ち延びた後、越後国友杉に住んで尼となったとされる。
「延慶本」の中では、粟津に着いたときには義仲勢は5騎になっていたが、既にその中に巴の姿はなく、討ち死にしたのか落ちのびたのか?その消息はわからなくなったと記されている。
「源平盛衰記」には、宇治川の戦いでは畠山重忠との戦いも描かれ、重忠に「巴とは何者か?」問えば、半沢六郎は「今井・樋口と兄弟にて、怖ろしき者にて候」と答えている。そして、落ち延びた後に頼朝から鎌倉へ召され、和田義盛の妻となり朝比奈義秀を生んだ。和田合戦後、越中国礪波郡福光・石黒氏に身を寄せ、出家して菩提を弔う日々を送り、91歳で生涯を終えたと云う。
文献では内容は似ているが、バラバラなのだ。しかし、容姿端麗な女戦士が義仲軍に居たことは史実であるらしい。義経話には美女が多々、登場する。




