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第十四話 平家の都落ち

木曽義仲きそよしなか

または源義仲みなもとのよしなか。河内源氏、源義賢みなもとのよしかたの次男。源義賢は源頼朝・義経の父、源義朝の弟。源頼朝・義経とは従兄弟いとこにあたる。

治承4年(1180年)、「以仁王の令旨」の呼びかけに応じ挙兵。倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って入京する。

しかし、頼朝は一切協力しなかった。何故なら義仲は、源義朝が保元の乱の少し前、武蔵国に居た弟・義賢を襲撃し、武蔵国を奪い取ったのだ。つまり、義仲は、父を義朝に殺された。叔父おじに領地を奪われたのです。

当時2歳の義仲に殺害の命が出されるが、乳父である中原兼遠の腕に抱かれ、信濃国木曽谷(現在の長野県木曽郡木曽町)に逃れ、兼遠の庇護下で育った。そう、元々武蔵國の生まれなのだ。つまり「木曽」と云う名は、義仲が育った木曽谷の地名が由来なのである。


つまり、義仲には頼朝は父を殺し武蔵国を奪った義朝の息子。同じ「打倒平家」を掲げてはいるが、両者が協力し合うわけはない。

よって反平家勢力は源頼朝派と木曽義仲派の2つに分かれていた。

しかし、京に至るまで各戦さにおいて、頼朝軍と鉢合わせになる戦さは避けている。


この間、平清盛が亡くなっている。治承5年閏2月4日(1181年3月20日)享年64。

清盛の死後、嫡男の重盛はすでに病死し、次男の基盛も早世していた。平氏の棟梁は三男・宗盛が継いだが、全国各地で相次ぐ反乱に対処できず、後白河法皇の奇謀に翻弄された上、院政方も勢力を盛り返すなど、平氏は次第に追いつめられていった。しかも、折からの飢饉(養和の大飢饉)という悪条件なども重なって、寿永2年(1183年)、倶利伽羅峠の戦いで、義仲軍の攻勢の前に成す術無く都落ちし、義仲軍は京に分け入った。


京では飢饉と荒廃した都の治安回復を期待されたが、治安の回復の遅れと大軍が都に居座ったことにより、更に食糧事情の悪化、皇位継承への介入などにより後白河法皇と不和となる。法住寺合戦に及んで法皇と後鳥羽天皇を幽閉して征東大将軍となる。


そして頼朝に京から秘密裏に伝令が届いたのである。


木曽義仲を討伐して欲しい


「あの馬鹿が・・・調子に乗りおって・・・九郎と範頼を呼べ」


源範頼みなもとののりより

河内源氏の流れを汲む源義朝の六男。源頼朝の異母弟で、源義経の異母兄。


「義仲が京で狼藉ろうぜきをしている。京の治安を納めに行け。義仲軍を壊滅させろ」

「義仲は?如何なさいますか?」

「殺せ」

義経と範頼は軍を従え、京に向かった。


京に着いた義経・範頼軍はまず、情勢を知るため情報を集めた。

義経は変装し、義仲の動向を調べていた、さる夜半である。五条の大橋に無頼漢の大男が立っていた。荒法師のような出で立ちだ。大きな槍を持ち、仁王立ちしていた。

「あれは僧衆(僧兵)ではないか?」

「やあ、やあ、其処を行く冠者!刀を置いていけ!」

治安が乱れて、こんな乱暴者が夜半現れる。

「私は冠者ではない!貴様、何者だ!」

「我こそは大刀を千本集める者。痛い目に会いたく無ければ、刀を置いていけ!」

「名を名乗れ!」

「武蔵坊弁慶よ!」


ちなみに現在の松原通が当時の「五条通り」であり、また旧五条通西洞院に五条天神社が存在し、そこに架かる橋であったとも云われる。また、「五条の大橋」ではなく堀川小路から清水観音での出来事だとも云われている。

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