分かり合えない
「クソガキって誰だ?」
空から振って来たような聞き覚えの無い声にザックとグルバがぎくりと後ろを振り返る。すると、そこに思ってもみないものがいた。丹色というより煉瓦色に近い色合いの大きな狼。おまけにそいつの背中には大きな翼がある。
――と、なればザックには思いあたる節が大いにあった。
「お、おまえクロードの……」
「我はクロードの眷属だ」
相手は思った通りの答えを返す。従者が隼になっているのだ、狼が喋るのも有りなんだろう。まったく魔導師連中ときたらやることなすこと滅茶苦茶だとザックは足元の石をけ飛ばした。
「うわあ……」
たじろぐグルバにわざとなのだろう。アウントゥエンは背後にぴったり引っ付いた。おかげでログーの羽毛がぶわりと逆立つ。彼らにとって、狼はどう見ても捕食者だ。ザックも浮き足立ってびくつく自分のログーの首を優しく撫でてなんとか宥める。
しかし、平常心でいられないのは何もログーだけじゃない。人の言葉を喋る魔獣などザックらにとっては物語の中でしか生きていない生き物なのだ。サラマンダーだって他の地域に住む人たちにとっては魔獣並みに珍獣なのだが大きさはともかくあれは獣の理からは外れていない。
魔獣に対する恐れというものはそれとは一線を画す。人とは違う外見の生き物に人と同じ知性の片りんを見つけた時、人は根源を揺るがせるような恐怖を覚えるものだ。
そんな人間の動揺が手に取るように分かるのか、表情の硬いグルバを見てアウントゥエンの鼻に皺が寄った。一見機嫌が悪いのかと思えるそれは『楽しくて仕方ない』というものなのだが、生憎それを分かる人間はこの場にはいない。
「遅くなった。加勢するぞ」
アウントゥエンは歯を剥きだしてそう言った後、翼を大きく広げてから気がついたように首を傾げてザックを見た。
「おまえら何か数が少なくなってないか?」
「なってるよ」
半ばやけくそ気味にザックが答えると狼は「おまえら弱っちいからな」と嬉しそうに笑った。
「何でおまえが喜ぶんだよ」
「我がひっくり返してやる楽しみができる」
大活躍してクロードに褒められると始まる前から大喜びしているアウントゥエンは小さく炎を吐いた。
「げっ、何しやがるっ。ここが今火気厳禁って知らないのかよ、おいっ」
ザックとグルバは大慌てで自分のログーの手綱を引いた。サラマンダーは温度で人を感知して襲う。ここでサラマンダーの関心を引くわけにはいかない。
「おい、こいつ大丈夫なのか?」
「……さあ」
疑うグルバにザックだって太鼓判は押せない。こいつが何かは知ってはいるが信用できるほどの馴染でもない。人と同じように話すだけで思考回路や知能まで人と同じかどうかは未知数だ。だが、魔獣が味方に付けば百人力なのは断言できる。追い込まれている身には猫の手だって魔獣の足だって借りたいというのが本音だ。
「敵に回るよりゃいいに決まっているさ。おい、乾清門まで先導してくれ」
ザックのずいぶんな物言いも魔獣は全く動じない。そこが人とは違うと言えばそうなのだろう。ザックの言葉にアウントゥエンは目をぐるりと回し、ふいと体の向きを変えた。
「乾清門だな。よし、追いて来い」
アウントゥエンはあっさり二人を追い越し、目の前に現れた禁軍の兵士を何と言うことも無くなぎ倒して行く。鬼人の集まりとも言われ、他国から恐れられているハオタイの禁軍兵士が、まるで雑草のように蹴散らされる様にザックもグルバも言葉無くお互いに顔を見合わせた。
例えば、子供の頃の遊びにある決め事。それを守って遊んでいたところを勝手に入って来た大人に易々と破られてぺしゃんと潰されたような理不尽さとでも言おうか。
自分たちが右往左往してもどうにもならない存在への思いというか――つまり。
「ずるいよな。こういうのさ」
グルバの言葉にザックも頷く。
ずるいと言えばこいつの飼い主の魔導師なんて最たるものだとザックは呟く。魔術なんかでいとも容易くとんでもないことをしでかすなんて地道にコツコツやってる奴らにとっては迷惑千万な存在だ。
以前なら相手をしないという手段を取れば良かった輩。それが自分だけのことを考える立場で無くなった今、面と向かうしかない。
「何か腹立つ」
正直それがザックの本心だ。
二人の前を行く狼の大きく逞しい四肢が大地を蹴る。体の大きさに似合わず驚くほどの速さで狼は真っ直ぐに道を進む。赤いつむじ風が目の前にいるもの全てをなぎ倒し、跳ね飛ばす。
後れを取らないように追うのが速さに定評のあるログーにも精一杯だった。
一方ベオークに戻ったラドビアスは蝶に姿を変えてある部屋に入り込んだ。天井の高い豪奢な部屋はなぜかカーテンを閉め切ってある。一見無人に思えるその先に、確かに何かがいる気配をラドビアスは感じ、ベオークに乗り込む前に主人と交わした会話とその情景を思い出した。
「これから俺はおまえに酷い命を下す」
重々しいクロードの口調に悲愴な決意を感じてラドビアスは心配そうに目の前の少年を見下ろした。
眉根を寄せ、唇を引き結んだ表情にはっと胸を突かれる。クロードの笑い声を長いこと聞いていないことに突然気付いたからだ。
この旅を、というかラドビアスが従者になってからクロードが心から笑うことなど数えるほどしかない。それだって相手は自分ではなく、使役している魔獣の相手をしている時だ。
十七歳の少年には重すぎる荷物を背負わされている。だからそれを全うしようともがく彼の言う命を受けない理由などラドビアスにはない。
――いつだってもっと頼って欲しい。
「私はあなたの命に従います」
「……簡単に言うなよ、まったく」
内容を聞く前に応えた相手にクロードは目を伏せた。自分が思うほどラドビアスは肉親への情に拘りはないかもしれない。だが、今自分がラドビアスにやらせようとするのは人として許されざることだ。
それでも誰かがやらなければならないなら、まさしくこれは自分の仕事だ。
壊し屋として自覚している自分の。
でも、何もかも自分一人でできるなどと思うことは慢心でしかない。
自分に従うラドビアスもアウントゥエンも、サウンティトゥーダにも済まないと思う。
――巻き込んでしまって……ごめんなさい。
「ビカラを殺せ。ベオーク教皇を。おまえの父親を」
「承知しました」
即答するラドビアスにクロードが今度は苦笑いを浮かべた。迷っているのは自分だけなのかと思う。自分一つの言葉で人が死ぬということにいつまでも慣れない。人の命を奪うということに覚悟が定まらない。
ビカラが死ねば龍印を受けているしもべの大半は死ぬ。ベオークやハオタイを強力に守っている結界は消える。レイモンドールがハオタイを模したのなら同じことがハオタイを襲うだろう。
引き起こされる混乱。困窮したり、親しい者を亡くすこともあるだろう。大事なものを失う者だってきっと大勢でる。
改革への犠牲と簡単に言うのは簡単でも、その犠牲は数字だけの存在じゃない。旧来の世界に望んで生まれてきたわけじゃない彼らをまたもや関係の無い理念で翻弄することへの恐れをクロードは振り切ることなどできないのだ。
――ぐらぐらする自分。情けない自分。それでも進んでいくのを選ぶのも自分だ。
上に立つ者の孤独の中にいるクロードの悩みの半分もラドビアスは実感できないことに気付いていた。彼にとって大事なのはクロードだけ。親殺しもクロード以外の人の生き死になど心は少しも動かない。
それが、クロードの孤独を癒したいと思っているラドビアスがどうしても彼の心に入り込めない最大の理由と言える。
「おまえには分からないんだな」
即答したラドビアスに小さな溜息のように返されたクロードの言葉はそのまま床に砕けて散った。