26.この感情の理由
朝の柔らかな日差しを瞼に感じ、ゆっくりと目を開けた。
「目が覚めました?」
声のする方へ目を向けると、ベッドの端に座っているアディがシトリンの瞳を細めこちらを見ていた。
……ああ、そうだわ。わたくし、昨夜本当の意味での夫婦になったのだわ……。
「おはようございます」
「おはようございます。体は平気ですか?」
そう言われゆっくりと体を起こす。眠る前は確かに何も着ていなかったはずなのに、今は夜着を着ているし体もどこかさっぱりしている。
「はい。大丈夫ですわ」
これはアディがやってくれたということかしら? ……もしかしてアディはこういうことに慣れている、とか? エリーさんのことは誤解だったとはいえ、わたくしよりも歳が上の方ですし、そうであったとしても不思議なことではないですわね……。
いつものように微笑むわたくしに、アディも柔らかく笑った。
「朝の支度をして参りますわ」
「ええ。その後朝食を一緒に食べましょう」
ベッドから降りるわたくしの髪をひと掬い手に取り、アディはそこに口づけた。
……この方やっぱり慣れていらっしゃるんだわ! いつもはあんなに表情が豊かなのに、今は何事もないように接していらっしゃるもの。
不慣れさを出されるよりはずっと良い。ずっと良い、はずだけど。どこか釈然としない思いのまま、自室へ向かった。
「おめでとうございます! レティシア様!!」
ドアを開けたら待ってましたと言わんばかりの勢いで、ルミナが駆け寄ってきた。
ルミナ曰く、これで名実共にマルクス小伯爵夫人になれたと大喜びだ。
「あなたの方が嬉しそうね」
「当然ですよ! レティシア様と小伯爵様の仲が悪くなかったとはいえ、やはり健全な夫婦関係ではなかったですから。でも私たちが口出しすることではないですし……」
身支度を整えながら、ルミナは言う。
ずっとわたくしの世話をしてくれているルミナだからこそ、気にしていてくれたのだろう。
「気にすることもなかったみたいよ。アディはなんだか……、慣れていらっしゃるようだし」
髪を梳かしてもらいながら口にしたわたくしの言葉に、ルミナは一瞬の間の後、吹き出した。
何事かと、鏡越しでそちらに目をやる。
「すみません。レティシア様にヤキモチを妬かせるなんて、小伯爵様だけではと思い……」
そう言いながらもルミナは顔が笑っていた。
……ヤキモチ? 別にわたくし、ヤキモチだなんて……。
その時フッと、以前会ったエリーさんの顔を思い出した。
結局あの方とは何もなかったけれど、屈託なく笑うその姿は、仮面をつけたかのように笑っているわたくしにはない姿で。アディもきっと、その姿を好きになったと思って少し胸が痛んだことがあった。
「……これは、ヤキモチなのかしら」
問いただすわけでもなく、呟いた言葉。
「そうだと思いますよ。……小伯爵様を知っていたいのは、ご自身だけと思われている故ではないかと」
その言葉に、ルミナは柔らかい言葉で返してくれた。
……でもヤキモチというのは、好きだという感情に付随しているものではなくて? アディのことは嫌いなわけではないわ。だけどヤキモチを妬くほど好きなのかと問われたら、疑問が残りますわ。
「なら、少し考えて見てください。小伯爵様の隣に……例えばフロイド公女様が立たれているところを」
フロイドは、ヴァルモン家と並ぶ、建国以来王国を支えてきた公爵家の一つ。その家にわたくしと歳の近い公女がいる。でもーー
「アディはリリアーナ様と合いませんわ」
彼女とアディが並んでいるところは想像できない。
そもそもアディとリリアーナ様に共通点がないのだから、二人が並び立つ姿を想像するというのは難しいことではないかしら。
「合うかどうかではなく、年齢的にも、フロイド公女様と小伯爵様がご結婚されていた可能性だってあるんですよ」
「それは……、なんだか、嫌だわ」
アディがわたくし以外の人と結婚していたかもしれない。それは大いにあり得る話だろう。でも……。そのことを「考えたくない」と思ってしまっている自分がいる。
考えたくない? どうして?
アディがわたくし以外の誰かと結婚して、その方と過ごすなんてこと、考えられるわけないわ。だって、あの人の隣にはわたくしがーー
そこまで思い至り、気がついた。
……ああ、わたくしは……。
「アディのことが好きだったのかしら……」
「そうですね。レティシア様のお心は、レティシア様にしかわからないですけど、少なくとも小伯爵様の前でのレティシア様は、心から笑われているように私は感じました」
鏡に映る自分の顔が赤い。昨夜までは、アディは政略結婚の相手で、夫婦というより同志のような関係で。それだけだったからこそ、今まで通りに振る舞えたのに。
「わ、わたくし……、どんな顔でアディに会えば良いのかしら?」
鏡の中の自分が、赤い顔をしながらも不安げにルミナを見つめている。その顔をルミナは優しく見つめ「いつも通りで大丈夫」と言った。
……けれど、わたくしのいつも通りなんて「笑顔の仮面をつけているようだ」と言われた表情なのだけど……。本当にそれで良いんですの?
だからと言って、今さらエリーさんのように屈託なく笑えませんわ……。あのような顔で笑うなんて、どうやってしたらいいのか……。
戸惑うわたくしに、ルミナが背を押しアディの待つ食堂へ向かった。
「……ふぅ……」
いつも通り、平常通りに、と心の中で唱えながら、大きく一つ息を吐いた。
そしてアディの待つ食堂へ向かった。
「待っていましたよ。早く食べましょう」
食堂に入ると、先に来ていたアディが立ち上がりわたくしの椅子を引いた。
……この方、今までもこんなにスマートにエスコートできてたかしら?
アディのエスコートが不慣れだと感じたことはない。でも今日はいやにスマートに思える。
朝食の席では特に大事な話をしたわけではない。むしろとりとめのない、今日の天気とか、このスープが美味しいとか、その程度の内容だった。
……これなら平常通りにいられるわ。アディから見てもおかしくないはずですわ。
食事も終わり、部屋に戻ろうと立ち上がる。アディが途中まで一緒に行こうと言うので、彼の方へ向き直ろうとした。
瞬間ーー
「きゃっ!」
「シア!」
服の裾が引っ掛かり、危うく転びそうになった。そこにすかさずアディが手を伸ばしてくれて。
「……大丈夫ですか?」
アディの逞しい腕に支えられた。
……騎士を目指していただけあり、この方見た目よりうんと鍛えていらっしゃるわ。昨夜だってーー
そこに思い至った瞬間、顔が熱くなった。
「シア? ひょっとして、熱があるんですか?」
わたくしの額を触ろうと手を伸ばしてくるアディに、思わず一歩後ずさった。
「だっ、大丈夫ですわ」
思わず声が裏返るわたくしに、アディは怪訝そうな顔をする。
「……ですが、あまり大丈夫そうには見えないのですが。明日はやはり行くのを止めたらどうです? あなたの身体が心配だ」
そっとわたくしの肩に手を回すアディに、さらに顔に熱が集まる。
「本当に大丈夫ですから、何も問題ありません。わたくし少し用を思い出したので、失礼しますわ!」
わたくしらしからぬ声の大きさで、足早にアディの元から立ち去った。
……ああ、どうしましょう。全然平常通りに接することなんてできないわ……。むしろわたくし、昨夜までどうしていたのかしら……?
「レティシア様。明日の準備についてですが……」
部屋に戻り、ルミナに声をかけられた。
……そうね。明日から少しの間、アディと離れるのだから、その間に気持ちを立て直しましょう。
「いつもより動きやすい物にしてほしいの」
「かしこまりました」
先ほどルミナの言葉で気づいたばかりなのだから、仕方ないこと。数日おけば、またいつも通り接することができるに違いない。
そう思いながら、わたくしも公爵領へ向かうための準備を進めていた。
ーーそして夜
明日に備えて早めに寝ようと思っていたら、ノックの音が響いた。ドアを開けるとアディが立っていた。
まさか追い返すわけにもいかず、部屋に招き入れた。
……本当は、来てくれて少し安心したのだけれど。
「本当に行くんですか?」
アディは明日のことへの確認に来たようだ。
「ええ。早いに越したことはないと言ったではないですか。あちらで例の件をわたくしもきちんと把握するために調べて来なければなりませんもの」
ソファに座るようアディを促し、わたくしは見るでもないチェストを開け、忙しさを装った。
「……どうしても行かれるというのであれば、もう止めませんけど……。一つ聞いてもいいですか?」
「ええ。どうぞ」
アディの方を向かずに返事をしたわたくしに、アディは一つ咳払いをした。
「もしかして、昨夜あなたを傷つけてしまいましたか?」
その言葉に、思わずアディの顔を見る。
アディは困ったように、でもどこか悲しそうに眉を下げていた。
「あなたの態度が少し違う気がするんですが、思い当たるのは昨夜のことしかない。……私とは嫌でしたか?」
「そんなことは!」
思わず声を上げてしまった自分の口を抑えた、アディから目を反らした。
「では何故? 私は鈍いので、言って頂かないとわかりません。知っておかないと、同じことを繰り返すかもしれませんし……」
「別にわたくしはあなた様が嫌だと言うわけでは……」
悲しそうにわたくしに話しかけてくるアディに、語尾が徐々に小さくなる。
「このまま公爵領へ行かせてしまったら、私はきっと後悔します。……あなたが何を思ってるか、聞かせてください」
アディはいつの間にかわたくしの目の前に立ち、その大きな手でわたくしの髪に触れてきた。
「……大したことではございません」
「大したことではなくとも、あなたの話が聞きたいんです」
アディは優しく、触れるか触れないかわからないほどの力で、わたくしの肩に手を乗せた。
……ああ、もう!
「ですから、……あ、あなた様が、とても慣れていらっしゃるように思えて、少し戸惑っていただけですわ」
「……慣れている? 何に?」
……それを聞くんですの?
そう思い、アディの顔を見上げたけれど、アディは心底わからない、という表情でわたくしを見つめ返してきた。
「シア?」
「……あなた様が、ほ、他の方にもそういうことをされてきたのではと思いまして、」
「他の方? 何の話です?」
本当に呆けているわけではないのでしょうけれど、呆けているかのような口ぶりのアディの胸に手のひらを当て、軽く押すように力を込めた。
「ですから! あなた様が他の女性とも、わたくしにされたようなことをしていたのかと思っただけです!」
思わず淑女らしからぬ声でアディに話した。
アディは何度となく瞬きをした後で、恐る恐るとでもいうかのように、右手をゆっくり上げた。
「……勘違いだと申し訳ないので、一つ確認させてください」
「なんです?」
「もしかして今、嫉妬したって言ってます?」
アディの言葉に、カッと一気に顔が熱くなった。
「わ、わたくしはそのようなことは言っておりません!」
アディから目を反らして叫ぶようにそう言った。
直後、アディが笑う声が室内に響いた。
「もう用が済んだのなら出ていってくださいまし!」
恥ずかしさのあまり、目尻が熱くなってきた。
それに気づいた瞬間、アディがわたくしの腕を引き抱き寄せた。
「私のシア。可愛いあなたに嫉妬されて私は幸せ者だ」
どこか可笑しそうな声でアディは言う。
「でももっと幸せになりたいので、今日はこちらに寝てもいいですか?」
アディはわたくしを抱き締めたままそう聞いてきた。
「明日は公爵領に行くので、お部屋にお戻りくださいませ」
「そんな冷たいこと言わないでください。少し離れる前に、あなたと一緒にいたいんです」
アディの声は、昨日までと同じ優しさを孕んでいるけれど。そこに少し、甘さを感じる。
「わたくし、明日に備えて早く寝る予定ですわ」
「そうですね。私も一緒に寝ましょう」
笑いを含んだ声のアディに身体を預けるのはまだ恥ずかしいけれど。もっと幸せになりたいと願う気持ちは同じだから、わたくしもそっとアディの背に手を回した。




