16.早鐘のように
「と、言うことですので、早急にエリーさんのお宅に平民も診ている医師を紹介しようと思いますの」
エリーさんのパン屋に行った日の夜、アドリアン様の部屋に向かい報告を行った。
「そう、なんですね……。エリーは今そんな状況なのか……」
後半は独り言のように小声で呟いたアドリアン様。心配の色半分と、やはり自分の子ではなかったことに安堵しているように感じた。
「アドリアン様はもう一度教育を受けた方がよろしいかと存じます」
「教育? 何のです?」
人に騙されずに済むような教育です。……とは、流石に言えなかったので、対人関係の教育です、と言葉を濁した。
「ですが平民街で医師不足とは……」
頬を掻きながらアドリアン様は言う。
「ええ。ですのでお義父様である伯爵に一つ提案をしようかと思いますの」
わたくしの言葉にアドリアン様は、シトリンのような琥珀色の瞳を向けた。
……本当、あの子とは似ても似つかないのに、なぜ以前はあんなに憔悴していたのかしら。
アドリアン様のお子であるなら、せいぜいエメラルドのような瞳のはずですわ。わたくしとの瞳を受け継ぐならアレキサンドライトのような瞳かもしれませんわね。ああ、でもあの石のような二面性を持った子になってしまったら大変ですわ。
「レティシア? それで父に何を提案しようとしているんです?」
思いを馳せていたら、アドリアン様の声が耳に届き我に返った。
……嫌だわ、わたくしったら今何を考えていたのかしら。
「マルクス家は資産がおありでしょう?」
「ええ、そうですね」
そこはもう否定も謙遜もされないあたり、さすが社交界で王国一と噂されるほどの家門ですわね。
「平民街に、病院をお造りになりませんか、と提案してみようかと思いまして」
「……平民向けの病院を、ということですか?」
驚いたような顔をされたアドリアン様に、にっこりと微笑み返した。
「はい。貴族向けの病院ほど隅々まで手厚くはできないかもしれません。ですが病院は必ず必要となってきますわ」
「それは確かにそうですが、父が承諾するとは思えません。……まだご存知ないかもしれませんが、父は生粋の商売人なので損を買って出るようなことはしないはずです」
どこか申し訳なさそうにアドリアン様は言う。
確かに今のわたくしは、お義父様のことをあまり知り得ていないよう見えるでしょう。……ですが繰り返しの時の中で、あなた様の父親のことは重々把握させて頂きましたわ。
あの方は、損得で動きはしますが、実はそれ以上に貴族としての矜持を保つことを大事にされている。それは社交界でいわゆる「成金」と呼ばれているがゆえな気もしますが、あの方は「貴族の名誉」という言葉に存外弱いと言うことを、アドリアン様はまだご存知ないのだわ。
「我々には専属の医師がいるのでご存知ないかもしれませんが、医療一つとっても金がかかるんです」
「もちろん、ただ平民街に病院を建てるだけでは損になります。ですが、そこに国を巻き込むのです」
「……何ですって?」
本日二度目の、目を丸くされたアドリアン様。
……この方こんなに表情豊かで、よく今まで貴族社会で生き残れましたわね。
「基本となる料金はもちろん、患者から頂きます。ですが不足分は国に補填して頂くのです」
「それは理想論ではありませんか?」
少し身を乗り出していたアドリアン様は、背を伸ばし腕組みをした。
「医師不足がまだ重大な問題になっていない今の段階で、平民のために国庫を使ってくれだなんて陛下に進言できるわけが……」
そう。一貴族のそんな妄言、陛下のお耳に入れられるわけがない。
でもーー
「アドリアン様はお忘れですか? わたくしが誰なのか」
「誰、って……」
「わたくしは現ヴァルモン公爵のたった一人の息女です。それはつまり、」
「陛下が寵愛された、エレオノーラ・セラフィナ・オルベルタ様のたった一人の娘……」
わたくしが言わんとすることを、アドリアン様は理解されたようだ。
「はい。不敬にも陛下はわたくしに『お祖父様』と呼ぶことを許可されるほど、母似のわたくしを可愛がってくださいますの」
パチン、と手を一つ打ち、微笑みながら話を続けた。
「外戚の孫の中で、一番可愛がって頂けていると自負しておりますわ」
「……いや、だからってそんな国の金を、」
「国とは人です。何もなかった地に人が集まり、街になり、やがて国になるのです。……貴賤に囚われやるべきことを放棄しては、国は衰退するばかりですわ」
アドリアン様は忙しなく目を瞬きさせた。
「今は小さな力でも、救った民の大きな力は、いつか必ず陛下の糧になると存じます」
確かに一から平民向け病院を作ってくれだなどと言ったら、いくらわたくしに甘いとは言え、陛下も首を縦には振ってくださらないだろう。でも一番お金のかかる初期投資をマルクス家で賄えるのであれば話は違ってくる。完成すれば王家には国民からの指支持が。マルクス家は王家からの信頼が得られる。陛下も、そしてお義父様も、耳を傾けてくださる可能性がとても高い話だ。
アドリアン様は拳を口元に添え、何かを考えているような素振りを見せた。
そのしばらく後ーー
「わかりました。父には私から話してみます」
わたくしの目を見て、力強く頷いた。
「陛下の説得はわたくしにお任せください。きっと良いお返事を頂いて参りますわ」
微笑むわたくしに、アドリアン様は目を細めた。どうかしたのかと思い、少し首を傾げながら、その顔を見つめ返した。
「あなたは本当に、私が考えもしないことをいとも簡単に行おうとする。まだ知り合って数日ですが、驚かされてばかりです」
自重気味に笑いながら、アドリアン様は言った。
……いとも簡単に、ですって? 何を仰っているのかしら。わたくし、もう死にたくないですから、それはそれは必死に考えておりましてよ?
「わたくしの言葉にこんなにも真摯に耳を傾けてくださるアドリアン様のお陰ですわ」
その言葉を飲み込み、微笑みながらアドリアン様に伝えた。
「……アディです」
「え?」
「アドリアンは長いので、気軽にアディと呼んでください。様も要りません」
柔らかく微笑むアドリアン様を見て、一瞬言葉が出てこなかった。
「……レティシア?」
名前を呼ばれ、ハッとした。
「そっ、そうですわね。そう呼ばせて頂きますわ。……アディ、も、ぜひわたくしをシアとお呼びくださいませ」
少しつかえながら、何とかそう言い繕えた。
……いやだわ。これからのことを真剣に話し合っていたのに、なんだか頬に熱が集まってきている気がするわ。
「ええ、シア。私もそう呼ばせて頂きますね」
心臓が早鐘のように響いている。
同志としてではなく、この方の妻として、この方を守りたいと思い始めている。それはもしかしたら、繰り返しの時を過ごしていなければわからなかった感情かもしれない……。
それを悟られないよう、いつも通りに、平常心で、と心の中で呟きつつ微笑み返した。




