15.理由のわからない感情
装飾品を着けると危ないというルミナの言葉を受け、持っている物の中で一番落ち着いた服装でパン屋に向かった。
……と言っても、材質が良い物ですし、上位貴族に見えずとも、ルミナや護衛騎士もいることですし、裕福な家の者だとはすぐにわかってしまいそうですわね。それでも宝石を身につけ出歩くよりは安全なのかもしれませんけど……。
「レティシア様、そのお店です」
ルミナの声に窓の外に目を向けると、こじんまりとした、人の出入りが目につくお店が目に入った。
大きく一つ、息を吐く。
「それでは、参りましょう」
馬車から降り、店内へと足を踏み入れた。焼けたパンの良い匂いが、鼻をくすぐる。
「いらっしゃいませー!」
カランカランとドアベルの音と共に、女性の声が店内に響いてきた。
「あの方です」
ルミナは口元を隠しながら、わたくしにだけ聞こえる小声で囁いた。
声の主の方へ目を向けると、茶色の髪を後ろに一つ結んで、頭にはバンダナを巻いている女性が立っていた。
エプロンもしているし、この方が作っているのかしら……。
「どうかされました?」
あまりにも凝視していたからか、パン屋の女性ーーエリーさんはわたくしにそう声をかけてきた。
「……ここのパンは、あなたが作っておられるのですか?」
エリーさんは一瞬驚いた顔をした後で、にこやかに微笑んだ。
「作っているのは私の主人です。私は手伝いをしてます」
屈託なく笑う姿に、アドリアン様を思い出す。
……かつてあの方は、わたくしを人形のようだと言ったことがあったけれど……。確かにエリーさんと比べたら、わたくしの笑顔は人形のように見えるのかもしれませんわ……。
「お嬢様はどんなパンがお好きですか?」
にこにこと微笑みながら、エリーさんが聞いてくる。その彼女に答えたのは、
「お嬢様ではなく、奥様です」
わたくしではなく、ルミナだった。
「まぁ! 申し訳ございません! お若い方なので、つい」
「良いのよ。……奥様と言っても、先日そうなったばかりですもの」
「それはおめでとうございます」
エリーさんは、本当に喜んでいるかのような表情でそう口にした。
……アドリアン様が、この方に心を許したことが少し、わかるような気がしますわ。
「……ええ、ありがとう。まだマルクスの名には慣れないですけれども」
そう口にしたわたくしに、エリーさんはハッとした顔をした。
「マルクス、って、もしかしてマルクス子爵……いえ、マルクス伯爵家の」
「そうですよ! この方はマルクス小伯爵夫人です」
ルミナが前に出て、エリーさんに説明をした。
エリーさんは見開いた目をわたくしに向けた後で、深々と頭を下げてきた。
「私は以前、マルクス……伯爵家にお世話になった者です。こうして若奥様にご挨拶できるなんて幸せです」
「お顔をあげてくださいまし」
わたくしの言葉にエリーさんはゆっくりと頭をあげる。
……今の言い方ですと「アドリアン様が」かつて交流のあった女性というより「マルクス伯爵家」が目をかけていた、メイドか何かだったように聞こえますわね。
その時ーー
「ママ!」
声と共に、店の奥の方から子供が出てきた。その子は、白い粉まみれな服と手をエリーさんの前に突き出した。
「ちゃんとお手伝いしたよ!」
「そう! 偉いわね」
エリーさんはにこやかに微笑む。
不躾にならないようにその子の様子を伺うけれど……。その子はアドリアン様と似ている要素は一つもなく、黒髪で、スモーキークォーツのようなくすんだ瞳の、5歳と言われればしっくりくるような背丈の男の子。
「あなたのお子さんかしら?」
「はい! 我が家の一人息子です」
柔らかい笑顔で言うエリーさん。
……一人息子、と言うことは、この子よりも上のお子さんはいないと言うこと。で、あればやはり、繰り返しの時でエリーさんが連れてきたのは、アドリアン様とは無縁のお子と言うことですわね……。
ではなぜ、エリーさんはそんなことを……?
今は取り消された未来のことを考え込んでいると、エリーさんは子供を中で待つようにと店の奥に戻した。
「あのくらいはまだ遊びたい盛りなのではなくて? お手伝いしてくれるなんて、優しい子ですわね」
そう言ったわたくしに、エリーさんは少し顔を曇らせた。
「……体が弱く、他の子と一緒に遊ぶことがあまりできなくて……」
5歳ということだけど、平民の男児にしては肌が白い気はした。けれども本当にそれだけで、さして大きな問題もなさそうに見えた。
……そう思ったのだけれども……。
「以前マルクス伯爵様に、腕の良い先生を紹介して頂いたんです。あの頃は私の母が病気がちだったので……。この子が生まれてからも、何かあればその先生をと思っていたんですが……」
「どうかされまして?」
エリーさんは困った顔をしながら、わたくしを見てきた。
「……貴族向けの病院の先生になってしまい……、私どもではとても……」
言いにくそうに言葉を詰まらせながら、そう口にした。
……町医者がいないですって……?
「他に医師は?」
「この辺りにはいないんです。北区の方に平民を診てくれる方がいるようですが、そこも患者が多いみたいでなかなか……」
それで、ですわね……。
今から2ヶ月の間で恐らく、あの子が体調を悪くしエリーさんはマルクス伯爵家を頼らざるを得なかった。
でも陞爵され伯爵の身分になった家門。過去縁があったというだけの者、それも平民では取り継がれることはない。
だからきっとエリーさんは、アドリアン様のお子だと言ったんだわ……。
……であれば、この騒動とわたくしの馬車事故は無関係だったのかしら……? まさかあの馬車事故はただの偶然だったとでも言うの?
そこまで思い至り、一度目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。
消化しきれぬ問題もあるものの、まずは今できることを、ですわね。
「医師ならわたくしも紹介できるわ」
「え?」
わたくしの言葉に、エリーさんは目を丸くさせた。
「かつてアドリアン様と御縁のあった方ですもの。そのくらい当然ですわ」
「……もしかして、アドリアン様はまだ『あの時』のことを気にされていらっしゃるんですか……?」
エリーさんは驚いたように口元を手で隠し言う。その言動に、微かに心が反応した気がした。
エリーさんから、だから若奥様がここに来たのかと、頷きながら呟くように言った言葉が聞こえた。
「若奥様。アドリアン様からどう聞いているか存じませんが、私たちは本当に何もなかったんです」
「……どういうことかしら?」
エリーさんは言う。
かつて、アドリアン様が初めてお酒を口にされた日、それはそれは酔ってしまわれたそうで。
当時メイドとしてマルクス伯爵家に勤めていたエリーさんが水を持って行ったところ、何かと間違えたのか、エリーさんはベッドに引きずり込まれた。
……ところで、アドリアン様は爆睡。
ただ当時すでに騎士を目指していて年齢よりも身体がしっかりとしていたため、エリーさんでは押し退けることができず、気づけばエリーさんも寝入ってしまった。
翌朝アドリアン様が目を覚まし大騒ぎになったけれど、本当に何もなかったから気にしないでくれとエリーさんは言ったけれど。アドリアン様はそれを良しとしなかった。
……あの方のことですから、エリーさんが嘘を吐いていると思ったかもしれませんわね。
「アドリアンお坊ちゃまからのご提案で、交際するという形にはなりましたが、それもなんというか……あくまで形だけの物でしたし、私には畏れ多いことだったので……」
当時すでに子爵家である人間に、平民であるエリーさんはその状況を利用するどころか耐えられなくなり、現マルクス伯爵に全て打ち明けた。
……それらを丸く収めるために、エリーさんを退職させ、退職金と共にマルクス伯爵家でも目を置く医師を紹介したーーそれもわずかひと月足らずの間でーーということだった。
「若奥様! 大丈夫ですか!?」
思わずこめかみを押さえたわたくしに、ルミナが駆け寄る。
それを手で静止した。
……あの方は本当ーーーに!! 人を信じやすく騙されやすい方なんですわね。まさか何もなかったにも関わらず隠し子騒動に巻き込まれていたなんて……!
これは帰ったらまず、アドリアン様とじっくりとお話しなければいけませんわね。
でも……。
アドリアン様にお子が居られなかったことに、どこか安堵している自分がいた。何故なのかはわからない。同志に家族が増えないことを喜んでいるだけなのか、それとも別の理由なのか。
今のわたくしには判断がつかなかった。




