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ここは地獄の一丁目  作者: 川合 佑樹


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第9話

 エイリとトリエはダンジョン第四層に潜っていた。

 エイリは剣の柄に指をかけ、息を潜めて周囲を窺う。

 トリエは先頭を歩き、時折足を止めて耳を澄ます。

 トリエが振り返り、低い声で告げる。

「エイリ。お前のステータスならここはまだ余裕なはずだ。しっかり経験値稼げ」

「おっす」

 エイリは短く返事をして、腰を軽く落とした。

 経験値──それは同一のモンスターを倒し続けると獲得量が減るステータス。

 鬼や蜂を倒すだけでは、それらの倒し方しか得られない。

 それがカルマ不足の原因なのではとトリエは考え、一層下に降りることとなった。

 トリエはエイリの横顔をちらりと盗み見る。

 エイリの瞳はまだ浅層の戦いで磨かれた輝きを帯びているが、深層を前にして微かな揺らぎが見え隠れする。

 トリエは自分の剣を軽く振って感触を確かめた。

「緊張しなくていい。何かあったら、私が助けてやる」

「……大丈夫。俺、ちゃんとやれる」

 エイリはそう言いながら、喉の奥で唾を飲み込んだ。

 トリエの鋭い気配が背中に突き刺さり、エイリの背筋が自然とピンと伸びた。

 エイリは剣の鞘から刃をゆっくり引き抜き、金属の擦れる音が通路に響くのを聞いて、深呼吸を一つ。

 ダンジョンの空気は重く、肺に絡みつくが、それが逆に集中を促す。

 ガキンッ!

 トリエが壁を剣で切りつける。

 鋭い一閃が石を削り、粉塵が舞い上がる。

「トリエ、それは何をやってるんだ?」

「ああ、これか。そういえば教えてなかったな。この辺の層からは壁に罠が仕掛けてあることがある。ダンジョンは切ってもすぐ修復されるけど、罠だけは一定時間復活しない。だから怪しいところは先に壊しておくんだ」

 トリエは削れた壁の傷を指先でなぞりながら、苦笑した。

「……潜る前に言ってくれ」

「悪い悪い。次は自分で探してみろよ。罠の気配ってのは、壁のひび割れの仕方や、空気の流れの乱れで分かる。ほら、そこの角──微かに湿ってるだろ? あれは毒針の予兆だ」

 エイリは言われた通りに目を凝らす。

 確かに石の継ぎ目に薄い膜が張っていて、指で軽く触れると糸を引くような粘り気が残った。

 思わず手を振り払い、トリエを見上げた。

 トリエの説明はいつも唐突で、まるで当たり前のように放り出される。

 けれど、その一言一言が命綱になることを、エイリはもう何度も思い知っていた。

「おっ……来たぞ」

 トリエが顎をしゃくった先──闇がざわりと波打ち、赤く燃える瞳が二つ、ぽっかりと浮かび上がる。

 次の瞬間、低く唸る息とともに、巨大な狼型の魔物が音もなく闇を裂いて踏み出した。

 トリエが告げる。

「そいつは動きが速いぞ。気を付けろよ」

「おう!」

 エイリは即座に体を低くし、剣を握る手に力を込める。

 狼の爪が石床をガリッと引っ掻く音が響き、緊張が空気を引き締める。

 エイリはトリエの教えを胸に、敵の四肢の動きを注視する──それが攻撃の合図だ。

 エイリが踏み出し、剣を上段に構える。

 トリエが声を上げた。

「あっ、バカ!」

 その瞬間狼が加速しエイリに近づく。

 風を切り裂く勢いで灰色の影が跳んだ。

 エイリが咄嗟に剣を振り抜くより早く、狼の蹴りが腹に直撃する。

 革鎧がビリッと裂ける音が響き、鋭い爪が肉を抉り、衝撃が五臓六腑を揺さぶった。

「ぐっ」

 エイリが床に転がる。

 エイリは即座に体を丸め、転がりながら剣を構え直す。

 痛みが肋骨を走るが、静かに肺を空にしてそれを押し殺す。

 狼は着地し、牙を剥いて再び距離を詰めようとする。

 エイリは床の冷たさを感じながら、立ち上がるための膝に力を溜める。

 トリエが声を上げる。

「姿勢が低い相手に上段に構える奴があるか! まあいい勉強になったろ。同じモンスターばっかり倒してると初見でこうなる。構えは忘れろ、居着く原因になる。ぼんやり構えて、来たものに反応しろ!」

 トリエの叱咤は鋭く、しかしその奥に心配の色が滲む。

「……おっす」

 エイリは立ち上がり剣を構える。

 しかしトリエに言われたように、高くもなく低くもなくただ前に──狼の鼓動や息遣いに合わせてゆらゆらと剣を揺らした。

 剣先が微かに弧を描く。

 その瞬間、世界が一瞬だけ静止したように狼の全身が浮かび上がる。

 敵の筋肉の収縮、尾のわずかな揺れ、息の吐き出し──それらが一つの流れとして繋がる感覚が、エイリの体を自然と動かす。

 エイリは無意識に足の指を床に食い込ませ、バランスを保つ。

 トリエがつぶやく。

「エイリ……お前」

 エイリの剣が、まるで風に揺れる柳のように柔軟に、ゆるやかに弧を描いていた。

 構えという構えではなく、ただ剣先を前に漂わせているだけ。

 狼が再び跳びかかってきた。

 低く、床を蹴る音が爆発的に響く。

 牙が空気を裂き、唾液の飛沫が飛び散る。

 エイリは一歩も動かない。

 ただ、剣を軽く斜めに差し出しただけだった。

 ガキンッ!

 狼の牙が剣の腹に噛みつき、金属が軋む。

 エイリはそのまま後退し続け、狼を「引きずる」ように通路を下がる。

 狼は牙を離さず、唸りながら前進しようとするが、エイリは足を滑らせるように後退し続け、距離を保ったまま誘導していく。

 トリエが気づいた。

「……エイリ……もしかしてお前!」

 エイリは狼を罠の真横まで完全に誘導していた。

 壁の継ぎ目に、薄い膜が張られた毒針の仕掛け。

 エイリは狼の牙が剣に噛みついたまま、わずかに体を捻った。

 カチッ!

 床の石が沈み、壁から無数の毒針が噴き出す。

 シュパパパパッ!

 狼の巨体が針の雨に直撃する。

 数十本の針が毛皮を貫き、肉に深く突き刺さり、緑色の毒が瞬時に回る。

 ギャウン!

 狼が甲高い悲鳴を上げ、牙を離して後ずさる。

 体が痙攣し、動きが明らかに鈍る。

 エイリはそこで初めて踏み込んだ。

 一歩。

 二歩。

 三歩目で剣が閃いた。

 低い位置から、刈り取るように横一文字に薙いだ。

 刃が毒に侵された首の付け根を、まるで抵抗がないかのように薙ぎ払う。

 ズシャアアアァッ!

 首が宙を舞い、血しぶきが弧を描いて壁にぶちまけられた。

 胴体はまだ立ったまま数歩よろめき、どさりと崩れ落ちる。

 静かな通路に、狼の断末魔と血の匂いだけが残った。

「あれ……俺は……切ったのか」

 トリエは目を丸くした。

 エイリの動きはまるで狼の次の行動を読んでいるかのようだった。

 赤鬼戦のときにも感じた、あの違和感が再びトリエを襲う。

 トリエはエイリに声をかける。

「エイリ! 残心を怠るな!」

「おうっ!」

 エイリは素早く剣を払い、血を飛ばす。

 体を回して死角を排除した。

 エイリは狼の死体に膝をつき、短剣を抜いて解体を始める。

 毛皮を剥ぎ、筋肉を慎重に切り分け、魔石の位置を探る──心臓の近く、青く脈打つ結晶だ。

 指先が滑る中、エイリは集中を切らさず作業を進める。

 トリエはそれを眺めながら、自身の違和感と向き合っていた。

「エイリは確実に何かが見えている。でも本人にはまだ自覚がない……それがカルマの成長を妨げているのか?」

 エイリの背中は汗で濡れ、肩が細かく上下する。

 トリエはエイリの無自覚な才能を、どう引き出すべきか考える──強引に教えるか、それとも自然に任せるか。

 いずれにせよ、第四層はまだ序の口だ。

 エイリが魔石を抜き出した。

「トリエ! この魔石結構でかくないか!?」

 エイリは掌にのせた魔石を掲げ、光を反射させて見せる。

 青みがかった結晶は拳大で、内部に渦巻くエネルギーが視認できる。

 エイリの声には興奮が混じり、頰がわずかに紅潮する。

「だから気のせいだ、バカ! 次を狩るぞ」

「おっす!」

 エイリは魔石を革袋に放り込み、紐をきゅっと締めた。

 トリエの目はもう通路の奥、闇の奥に釘付けだ。

 エイリも無言で立ち上がり、柄に絡めた指に力を込め直す。

 二匹目は群れの斥候だったらしく、単独で現れた。

 エイリは前回の教訓を生かし、低い構えから狼の突進をかわす。

 剣を横薙ぎに払い、腹部を浅く斬る──即死ではないが、狼が怯んで後退する隙に、追撃を加える。

「連携だ、エイリ! 足止めしてから仕留めろ!」

 エイリの剣が狼の脚を払い、その後首元に刃を沈める。

 三匹目は狭い分岐路で待ち伏せていた。

 壁際へ誘導し、罠を発動させ、怯ませ、背後を取って喉を掻き切る。

 解体の最中、エイリはトリエに尋ねる。

「トリエ、俺……強くなったよな?」

「ああ、とてもな。だがダンジョンは驕りを許さない。慢心するなよ」

「おすっ」

 会話が弾む中、エイリの動作は洗練されていく。

 狼の筋肉の跳ね返りを予測し、剣の角度を微調整する──それは本能的なものだ。

 時が止まったようなあの感覚はあれ以降なかったが、ダンジョンは層が深くなるごとにモンスターの脅威は跳ね上がる。

 それにも関わらずエイリは簡単に狼を狩ってみせた。

 帰路の階段を上りながら、エイリは肩の荷を下ろすように息をつく。

 トリエの横顔は厳しく、しかし満足げだ。

 エイリは無言で剣を磨き、刃の輝きを確かめる──次はもっと速く、もっと深く。

 帰り道、トリエが突然告げた。

「エイリ……今年はお前も闘技大会に出ろ」

「……えっ」

 エイリは足を止め、トリエの顔をまじまじと見上げる。

 闘技大会──街の祭りの目玉、冒険者たちの誇りがぶつかる舞台。

 トリエの言葉は重く、けれどその瞳は期待に満ちていた。


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