第5話
ダイニングの空気が一瞬、凍りつく。
テーブルの上の皿から立ち昇る湯気が、部屋の隅に置かれたランプの炎に照らされ、ゆらゆらと揺れる。
エイリは椅子に座ったまま身を固くし、トリエはグラスを握りしめて目を床に伏せた。
ベルは杖をテーブルの端に立てかけ、空いてる椅子にどっかり腰を下ろす。
ベルのローブの裾が床を擦り、かすかな布ずれの音が静寂を破る。
トリエが息を整えて言う。
「ベル様! どこに行ってたんですか! いなくなるならせめて書置きくらいしてください!」
トリエはテーブルに両手を突き、身を乗り出して詰め寄る。
ベルはそんなトリエの勢いに目を細め、杖の先で床を軽く叩いてリズムを取る。
「えー。だってそしたら迎えに来るじゃろ?」
「当たり前です!」
「だからじゃよ~」
ベルはのんびりと肩をすくめ、テーブルの端に肘を預ける。
ベルの銀髪がランプの光を反射し、柔らかな輝きを放つ。
のぺっとした表情は、子猫が悪戯を咎められたような無邪気さで、トリエの苛立ちをさらに煽る。
「ワシは自由でいたいんじゃよぉ~」
ベルは皿から固くなったパンを摘み、ちぎって口に放り込む。
噛む音がカサカサと響き、ベルの頰が膨らむ。
パンくずがローブの胸元に落ち、ベルはそれを指で払いながら、満足げに目を細める。
エイリはそんなベルの動作を呆然と見つめ、トリエの横顔を窺う。
「だったら! ギルドメンバーの一人でも増やせるよう、仕事しろやぁ!」
ドガンッ!
トリエの拳が近くの椅子を叩き割り、木の脚が悲鳴を上げて折れる。
破片が床に飛び散り、ダイニングの絨毯に刺さる。
衝撃の余波でテーブルの皿が揺れ、カレーがこぼれ、熱い雫がエイリの手に飛び散る。
「あちっ!」
トリエは拳を握ったまま息を荒げ、破壊の爪痕を睨む。
ベルはパンくずを飲み込み、目を丸くしてその光景を眺める。
「ほー。増やしていいのかのぉ。ずいぶん仲良くなっとるようじゃのう。一緒に塔に登ってほしいとか言っとったな?」
ベルの唇が弧を描き、ニヤニヤとした笑みが広がる。
ベルは杖を回し、椅子の破片を軽く突いて転がす。
トリエの顔が再び赤らみ、慌てて手を振って空気を掻き分ける。
エイリは二人のやり取りに首を傾げ、状況を飲み込めずに眉を寄せる。
「いや、だからそれは……エイリは多分意味わかってないから……その」
トリエは言葉を呑み込み、赤髪を両手でぐしゃぐしゃとかきむしった。
目がエイリとベルの間を忙しなく行き来し、靴先で床をこすり、なんとか平静を保とうとしている。
ベルはその狼狽ぶりを見てたまらないといった様子で、杖の柄を唇に当て、くすくすと肩を震わせた。
「のう、エイリ。お前はトリエと塔に登りたいんじゃろ? もっと言ってやれ」
エイリは目を輝かせて大きく頷く。
そしてトリエの方に顔を向ける。
「トリエ! 俺は強い男になる! そしてトリエと一緒に塔に登りたい!」
エイリは椅子を押し倒す勢いで立ち上がり、拳を胸に当てて声を張る。
エイリの瞳は燃えるように輝き、シャツの裾が乱れて腰のベルトを露わにする。
「ひゃうっ!」
トリエはエイリの熱意に目を逸らし、頰を押さえて体を縮こまらせる。
「ぎゃはははは! もうダメじゃ! ぎゃははははは!」
ベルは椅子から滑り落ち、床に仰向けになって腹を抱える。
笑い声がダイニングに反響し、ランプの炎を揺らして影を踊らせる。
ベルのローブがめくれ上がり、銀髪が床に広がる。
足が無駄にばたつき、杖が転がって壁にぶつかる鈍い音を立てる。
トリエはベルの笑い声に耐えかね、テーブルに額を押し付けてうめく。
「……俺にはやっぱり無理なんですか? まだレベルゼロですし。塔なんて夢のまた夢……ベル様もそう思ってるんですか?」
エイリは尋ねる。
ベルは笑いを抑えようと体を起こし、床に座ったまま膝を抱えてエイリを見つめる。
トリエは手の隙間からエイリを覗き、息を潜める。
「ぎゃはは……えっ? おぬし本気で言っとるのか」
「はい。本気です。俺は塔を攻略したい。トリエの横に並びたいんです。そのためにはどんな努力も惜しみません!」
エイリは言葉を一つ一つ吐き出すように続ける。
ベルは膝から手を離し、床に手をついてゆっくり立ち上がる。
ベルのローブの裾が埃を払い、杖を拾う動作で部屋の空気を引き締める。
「……トリエ、難儀じゃの」
「……もう、黙っててください」
トリエは顔を覆っていた手を下ろし、睨み返すが、声は掠れて弱々しい。
トリエはグラスを掴み、一気に水を飲み干す。
ごくりと喉を鳴らす音が響き、空のグラスをテーブルに叩きつけた。
ベルはくすりと笑い、今度はエイリに目を移す。
「エイリ。おぬしがレベルゼロなのはまだ修行が足りておらん。それだけじゃ。まぁ成長はしておるじゃろ。後でワシが鑑定してやるでの」
「はい……ありがとうございます」
ベルはエイリの肩に手を置き、軽く叩く。
「まぁ、気を落とすことはない。トリエもついておる……一緒に塔を登ったらえぇ……ぶふぉっぎゃはははははは」
「……ベル様?」
ベルは言葉の途中で再び笑いを爆発させ、テーブルに寄りかかって体を折る。
エイリはベルの反応に困惑し、トリエにそっと目を向けた。
トリエはため息をつき、椅子に深く腰を沈めて天井を仰ぐ。
「だってしょうがないじゃろ! 塔に登るって……ひー!」
「ベル様! 何がおかしいんです! 俺は真剣なんですよ!」
エイリは声を荒げ、テーブルを叩いてベルに詰め寄る。
拳の音が皿を震わせ、スープの残りが飛び散る。
ベルは笑いを堪えきれず、涙を拭いながらエイリを指差す。
「じゃからじゃろがぁ! ひー! おぬし本当に知らんのか!?」
「だからなんなんですか!」
ベルはようやく息を整え、杖で床を突いて姿勢を正す。
ベルの瞳に悪戯っぽい光が宿り、唇の端が吊り上がる。
そして、わざとらしく間を置いて、口を開いた。
「冒険者が異性に『塔に登る』って伝えるのはのぉ……『一晩どう?』って意味じゃぞぉ!」
「…………えぇ!?」
瞬間、ダイニングが静まり返った。
次の瞬間――
「うわああああああああああ!!!」
エイリは椅子から転げ落ち、トリエはテーブルに突っ伏して頭を抱え、ベルはまた床に転がって大笑い。
「トリエ、違う……いや違……俺はそんな意味じゃ……!」
「おぬし……本当に知らなかったのか……!」
「知らなかったに決まってんだろおおおお!! もう一生言えねぇ……一生言えねぇよ『塔に登る』って……!」
「ぎゃはははは! お前ら顔真っ赤じゃぞ! ぎゃははははは!」
エイリは両手で顔を覆って蹲り、トリエは額をテーブルにゴンゴン打ち付けながら呻いていた。
エイリの心臓は、今まで生きてきた中で一番激しく鳴り響いていた。




