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ここは地獄の一丁目  作者: 川合 佑樹


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第19話

 廊下を進むにつれ、湯けむりが濃くなり、硫黄の甘い匂いが鼻腔をくすぐった。

 女将が障子を開けると、広い脱衣所が現れる。

 壁一面の鏡、竹籠が整然と並び、天井から吊るされた提灯が橙色の灯りを落としていた。

「どうぞごゆっくり。貸し切りでございますので、存分におくつろぎくださいませ」

 女将が丁寧に頭を下げて去ると、四人は自然と籠の前に並んだ。

 エイリは上着を脱ぎ、畳んだ。

 隣でトリエがコートを脱ぎ、続いて皮鎧の留め具を外し始めた。

 革紐を一本ずつ解く音が静かな脱衣所に響く。

 皮鎧が外れると、汗で湿ったシャツがぴったりと肌に張り付き、肩から腕にかけての筋肉のラインがくっきりと浮かび上がった。

「ふぅ……熱ぃ……」

 トリエは皮鎧を籠に入れながら、肩を回して首を鳴らす。

 汗と革の匂いがふわりと広がり、温泉の硫黄香と混じって独特の香りを漂わせた。

 ベルはローブの紐をゆるゆる解きながら、すでに上半身裸だ。

「温泉、楽しみじゃのう」

 銀髪を頭の上でぐるりとまとめてしまう。

 セツは無言で服を脱ぎ、畳の上にぽいぽい投げていく。

 白い肌に、まだ闘技大会の傷跡が薄く残っているのが見えた。

 エイリがズボンを脱ごうと腰を曲げた瞬間、トリエが横から声をかけた。

「エイリ……ほんとにデカくなったよな」

 トリエは腕を組み、エイリの背中から腰、脚のラインまでをまじまじと眺める。

「前までは剣が振れるのかってくらいだったのに、肩も背中も大分発達したな」

 エイリは少し照れくさそうに首をすくめた。

「前っていつだよっ。毎日ダンジョンで振り回してるんだ。そりゃ筋肉もつくさ」

 ベルが笑いながら割り込んでくる。

「トリエも負けてはおらんぞ。胸のあたりがまた一段と逞しくなった」

「確かに……最近鎧がきついんだよなぁ」

 トリエが鎖骨辺りの筋肉をさすった。

 セツはトリエの横に立ち、じっと自分の体と見比べながら小首を傾げた。

「トリエ、何食べたらそんなにデカくなれる?」

「そうだなぁ……肉だな」

 トリエは苦笑いしながらセツの頭を軽くぽんと叩いた。

「肉か、いっぱい食べる」

 エイリはその様子を見ながらほほ笑んだ。

 四人がすっかり裸になると、湯殿の扉が開いた。

 広大な露天風呂。

 岩肌をくり抜いた湯船がいくつも連なり、湯けむりが立ち込め、向こう岸にはムケ区画の塔がそびえている。

「わーっほーい!!」

 まずベルが叫びながら走り出し、豪快に飛び込んだ。

 ドボーン!

 湯が大きく波立ち、湯けむりが渦を巻く。

「エイリ、見てて!」

 続いてセツも助走をつけ、華麗に飛んで入水。

 バシャーン!

 水面から顔を出すと、黒髪がぺたりと額に張り付き、満面の笑みを浮かべていた。

 トリエは呆れ顔でため息をつきながら、湯船の縁に腰を下ろす。

「まったく……」

 そう言いながらも、足をそっと湯に滑らせる。

「……んっ」

 熱い湯がふくらはぎを包み、筋肉の奥までじんわり染み込んでいく。

 トリエは思わず目を細め、肩の力を抜いた。

 エイリも隣に腰掛け、すぐに足を沈めた。

 熱さがじわりと伝わり、一日の疲れが溶け落ちていくような心地よさに、ふうっと息を吐く。

 二人並んで肩をゆるめ、湯けむりの中で静かに微笑み合った。

 目の前には、ムケ区画の塔が屹立している。

 下から上へ、黒々とした石壁がどこまでも続き、雲を突き抜けて星に溶けていくようだ。

 トリエが静かに口を開いた。

「塔、登りたいか?」

 エイリは少し間を置いて答える。

「あぁ……いつか、絶対に上ってみたい」

 トリエは湯の中で膝を抱え、優しく笑った。

「お前なら、絶対に上れる。私が保証する」

「そう……だな」

 湯のぷつぷつという小さな音だけが、二人の間に静かに降り積もる。

 すると、仰向けにぷかぷかと浮かんだベルが、ゆるやかな流れに乗って近づいてきた。

 湯に濡れた銀髪が波紋のように広がり、悪戯っぽく片目を開ける。

「なんじゃ、お前らは相変わらず仲良しじゃのぉ~」

 にやりと笑うその顔に、湯けむりがふわりと絡まった。

 トリエがため息混じりに突っ込む。

「ベル様、お行儀が悪いですよ」

 ベルは両手をばたつかせながら、にやにや笑う。

「貸し切りじゃ。何してもいいんじゃもーん!」

 そう言うと急にバタ足を始め、セツのいる方向へ泳ぎ去っていった。

 湯が波立ち、二人の顔にぴちゃぴちゃと飛沫がかかる。

 エイリは吹き出した。

「本当に自由な人だ」

 トリエもくすりと笑う。

「そうだな。……エイリも泳ぐか?」

 エイリは首を振って、湯の中で肩まで浸かった。

「トリエ、泳ぎたいなら行ってきてもいいんだぞ」

 トリエが一瞬、目を丸くする。

「えっ……いや俺はそんな子供っぽいことは……」

 最後の方が少し上ずっていた。

「ぷっ」

 エイリが吹き出す。

「はっはっは」

 トリエも我慢できなくなって声を上げた。

 二人は顔を見合わせて、湯の中で肩を揺らして笑い合った。

 湯けむりがその笑い声を優しく包み、塔のシルエットが揺らいで見える。

 すると、セツがベルを背負ったまま近づいてきた。

 ベルはセツの肩に腕を回し、子供のように楽しそうに足をばたつかせている。

「エイリ、温泉楽しい!」

 セツの瞳が、今まで見たことのないくらいに輝いていた。

 エイリは苦笑しながら手を振る。

「セツ、温泉は泳ぐところじゃないぞ」

「そうなのか? だがベル様が泳げと……」

 トリエが呆れた顔でため息をついた。

「ベル様はセツで遊んでいるだけだ」

 遠くからベルの声が響く。

「こらっ! 今、人聞きの悪いことを言ったな!」


 夜が更け、月見台に上がったエイリは、欄干に肘をついて空を見上げていた。

 満天の星と、遠くにそびえる塔。

 湯上がりの体に、夜風が心地よい。

 背後から足音が近づいてくる。

 トリエが二本の果実水を持って現れた。

「エイリ、飲むか?」

「あぁ」

 受け取って一口飲む。

 甘酸っぱい冷たさが喉を滑り落ちていく。

「……旨ぇ」

「ここの名物らしい」

 エイリは瓶を月明かりに透かしながら呟いた。

「そうか……まだまだ知らないことだらけだな」

 トリエは隣に腰を下ろし、足をぶらぶらさせた。

「ここに来て、まだ一年だろ。そんなもんだ」

「そうだな」

 エイリは障子の隙間からそっと中を覗き込んだ。

 畳の上に布団が並び、すでに三人の寝息が静かに響いている。

 ベルは大の字で天井を仰ぎ、セツはエイリの布団の端をぎゅっと掴んだまま丸くなり、ルゼは枕を抱きしめて小さく身を捩っていた。

 トリエが静かに言った。

「また明日からダンジョンだ。レベル一だって、もう目の前だ。ベル様に鑑定も頼んである。──明日から、また忙しくなるぞ」

 エイリは力強く頷いた。

「ああ。俺は、トリエと塔に登りたいからな」

 トリエの頰が、月明かりの下でほんのりと朱に染まった。

「……わざと言ってるだろ」

「あぁ。だが本音だ」

 風が止んだ。

 星の光だけが、銀の粒となって二人をそっと降り注ぐ。

「本当に……本当か……?」

 トリエが息を詰め、顔を上げた。

 瞳に星が揺れる。

「あぁ、トリエに嘘はつかない」

 エイリも自然と視線が絡まった。

「でも……私みたいなデカい女……もっと良い奴が……」

「俺は、トリエがいい」

「だって……体中傷だらけだし……」

「頑張ってるトリエが好きだ」

「好きって……」

 トリエの声が震え、瞳に月が揺れた。

 エイリはそっと手を伸ばし、まだ湯の熱を残すトリエの頬に指先を触れた。

 少し汗ばんでいて、それでも柔らかくて、震えているのが伝わってくる。

「パンズパニックの時、全部失うかと思った。だから……もう、俺は自分の気持ちに嘘はつかない」

「でも……」

「トリエ。俺はお前が好きだ」

「……っ」

「……どうしようもなく、好きだ」

 エイリは掠れた声で呟いた。

 言葉の最後が震え、夜風に溶けるように消えた。

 トリエは瞬きもせず、まっすぐにエイリを見つめ返す。

 月明かりに照らされた赤い瞳が、静かに揺れて、

 二人の視線が絡まり、絡まり、離れなくなった。

 数秒の沈黙。

 鼓動だけが、耳の奥で大きく鳴る。

 トリエはゆっくりと目を閉じた。

 長い睫毛が震え、小さく、でも確かに頷いた。

 エイリはゆっくりと顔を寄せた。

 最初は額に。

 次に、震えるまぶたに。

 そして──ようやく、唇を重ねた。

 最初は触れるだけ。

 少し離れて、もう一度。

 今度はほんの少しだけ深く、でも優しく。

 月明かりが二人の影を一つに重ね、夜風がそっと髪を揺らした。

 キスが終わって、二人は同時に、くすっと笑った。

 言葉はいらない。

 ただ──

「明日も、一緒に戦える」

 それだけで、十分だった。


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