第18話
数日後、パンズパニックは「原因不明」で幕を引いた。
死者は奇跡的に一名。
だが、その代償はあまりにも重かった。
ニクスギルドは責任を追及され、連合ギルド全体、観客、そしてヘイル王国そのものへの賠償請求へと火の手は一気に広がった。
新聞の見出しは日に日に肥大し、街の空気を鉛のように淀ませた。
酒場では冒険者たちが拳を叩きつけ、罵声を交わし、誰もが喉の奥に棘を呑み込んだような顔で酒を煽っている。
「ニクスギルドの野郎ども! 金返せ!」
「俺の足、蜂にやられてまだ歩けねぇんだよ!」
「誰が責任取るんだてめぇ!」
街角の掲示板には、怒りの殴り書きと抗議文がびっしり貼られていた。
「冒険者をなんだと思ってんだ!」
「次は俺たちが燃やす番だ」
「ニクス死ね」
落書きが赤い墨で踊っていた。
そんな喧騒を遠くに聞きながら、マモギルドのギルド長室では、マモは新聞を膝に広げ、太い指でページを乱暴にめくった。
ざらついた紙が軋む音が、静かな部屋にだけ響く。
記事の黒い文字が、深く刻まれた額の皺に影を落としていった。
【闘技場惨劇 死者一人・重傷者二百人超 ギルド調査へ】
【ニクスギルドに賠償請求殺到 破産か】
【赤鬼トリエ、剣姫アラ 英雄か破壊者か】
部屋は煙草の残り香と、古びた羊皮紙の匂いが絡み合って淀んでいた。
重い沈黙が壁にまで染みついている。
突然、扉を叩く鋭い音が、静寂を切り裂いた。
マモは新聞を机に叩きつけ、喉の奥で獣じみた唸りを漏らす。
「入れ」
軋む音を立てて扉が開き、優雅な足取りで滑り込んできたのはエルだった。
ドレスの裾が床を撫で、甘い香りが煙草の匂いを一瞬だけかき消す。
扉を背後で閉めると、エルは扇子を軽く開き、唇だけを覗かせて微笑んだ。
そのまま机の前まで歩み寄り、静かに立ち止まる。
マモは椅子から巨体を起こし、肘を机について身を乗り出した。
新聞の端を太い指で叩きつけ、岩を削るような声で吐き捨てる。
「ふん、お前か。随分と派手にやってくれたな」
マモの拳が机の縁を軽く叩いた。
エルは扇子を優しく振って空気を払い、ゆったりと机の端に腰を預ける。
新聞に目を落としたまま、唇の端をわずかに吊り上げた。
「あら、必要なことよ。あなたもあの場で、すべてを把握していたはずでしょう?」
マモの眉が深く刻まれ、太い腕を胸の前で固く組む。
新聞を人差し指で押し潰すように叩きつけ、声を地を這うような低さで絞り出した。
「計画が明るみになる可能性もあった。あの混乱の中で、誰かが証拠を掴めば七大ギルドの均衡が崩れる」
エルは扇子を鋭くパチンと閉じ、細い指で机の埃を一筋、さらりと払う。
顔を上げた瞬間、冷えた刃のような視線がマモの瞳を真っ直ぐ貫いた。
「だからこそ、あなたはアラを出した」
マモは椅子の背に巨体を預けて天井を見上げた。
巨体が軋みを上げ、ため息が漏れる。
「その代わり、優秀なメンバーを失った」
エルは机から体を離し、窓辺に歩み寄った。
外の街並みを眺め、扇子を優しく開いて風を呼ぶ仕草をする。
「これから始まることに比べれば、些細なこと。あの『種』が塔の頂に届く日を、想像してみなさい。七大ギルドの均衡など、ただの足枷に過ぎない。あなたも、世界を掴みたいのでしょう?」
マモの目が鋭く細まり、固く握っていた拳を静かに開いて机に置いた。
「成功すれば、だがな」
エルは窓から視線を戻し、扇子を胸元に当てて艶やかに笑う。
体をわずかに傾け、マモの肩に意味深な眼差しを落とした。
「種はもう蒔いた。あとは、あなたの手でしっかり育てて」
マモは重い音を立てて立ち上がる。
巨体が部屋の空気を押し退け、影が壁を這い上がった。
新聞をぐしゃりと握り潰し、引き出しに乱暴に放り込むと、喉の奥から獣じみた唸りを漏らした。
「……それで、雑談をしに来たわけでもあるまい」
エルは扇子をぱちりと畳み、扉の方へ体を滑らせるように向けながら、軽く指を揺らした。
「入りなさい」
背中で開く扉の音だけが、静かに余韻を残す。
「この子を預けるわ。被害の穴埋めとして、ちょうどいいはずよ。マモギルドの力で、鍛えてあげて」
エルの背後から、静かに、一人の少女が歩み出た。
足音もなく、まるで影が伸びるように滑り出て、マモの正面に立ち止まる。
金髪ツインテール。
白のローブ。
少女は──無表情だった。
瞳は深い淵のように虚ろで、感情の色を欠いている。
けれど、白い肌の下から、抑えきれぬ魔力が滲み出していた。
部屋の空気が、わずかに歪む。
マモの目がわずかに見開かれ、巨体を前傾させて少女の顔を覗き込んだ。
「その魔力量……超越者か。ついに、成功したのか」
マモの声に、感嘆と警戒が混じり、指先が少女の肩に触れる。
エルは扇子で口元を隠して頷いた。
「えぇ。後は任せてもいいわね? この子はまだ未熟だから」
マモは少女の頭を軽く撫で、喉の奥で唸るように笑った。
「あぁ……量産は出来そうか?」
エルは少女の背にそっと手を添え、マモの方へ押しやるように促した。
「この子次第ですわ」
マモは静かに頷き、顔を上げた。
顔を上げ、エルの瞳をまっすぐ捉えて唇を歪めた。
「名はあるか?」
エルはすでに扉の外へ半身を滑らせ、振り返って扇子を小さく揺らした。
「ポーンでいいわ。シンプルで、覚えやすいでしょう?」
マモは少女──ポーン──の頭を再び撫で、扉が閉まる音を聞きながら、低く呟いた。
「ポーンか……頼んだぞ」
ポーンは無言でマモの横に立ち、ただ、静かに、そこに在った。
一方、エイリとトリエはヘイル王国・ショウ区画一丁目に足を踏み入れていた。
ここは王国の有名な温泉街──石畳の道が湯煙に霞み、路地から立ち昇る硫黄の香りが、街全体を柔らかく包み込んでいた。
木造の旅館が肩を寄せ合い、提灯の灯りが昼間から揺れ、遠くで湯気の音が絶え間なく響く。
パンズパニックの余波で街は少し人出が少ないが、それでも商人たちの呼び声が、穏やかな賑わいを生んでいた。
トリエは事件の収束に大きく貢献した功労者として、国から表彰を受け、その特典の一つとしてショウ区画の最高級温泉宿『トンテ』の宿泊券がベルギルドに贈呈されていた。
トリエは皮鎧の上に軽いコートを羽織り、腰の長剣を軽く叩きながら、エイリの横を大股で歩いていた。
エイリは湯気の向こうを眺めながら、首を傾げた。
「ショウ区画は初めて来たな。これが温泉の香りか……なんか変な匂いだな」
トリエは肩を揺らして笑い、路傍の湯売りの桶を指差した。
「硫黄ってやつだ。体にいいらしいぞ。筋肉の疲れを溶かして、傷の治りを早めるんだ。しっかりと体をねぎらってやれってことだな」
トリエはエイリの肩を軽く叩き、足を速めた。
その後ろを、セツが無表情に付いてきていた。
セツは鼻を覆うように手を当て、足取りを重くしてつぶやく。
「鼻が曲がりそうだ。エイリ帰ろう」
トリエはからかうような声で投げかけた。
「帰るなら一人で帰れセツ」
セツはトリエから顔を逸らし、エイリの袖をそっと掴んで体を寄せる。
黒髪が湿った風に乱れ、唇を尖らせた。
「トリエは意地悪。いつもエイリを独り占めしようとする」
闘技大会の後、無所属だったセツは自然とベルギルドの輪の中に入り、今ではすっかり馴染んでいた。
セツの執着は相変わらずで、エイリを巡る小さな争いが、日常のスパイスになっていた。
トリエはセツの言葉を聞き流し、路地の角を曲がって温泉宿の門を指差した。
「ベル様はもう来てるらしいぞ、急ぐぞ」
ベルギルド一行は、湯気のヴェールに包まれた温泉宿へと、足音を響かせて向かった。
道中、セツがエイリの腕に絡みつき、トリエがそれを睨みつける──そんなささやかなやり取りが、街の喧騒に溶け込んでいった。
温泉宿はフェルギルドに併設された、壮大な建物だった。
石垣に囲まれた庭園が広がり、巨大な煙突から白い煙が空を刺すように立ち上り、湯気の湿気が門前にまで漂っていた。
木々の葉が湯風に揺れ、遠くで湯船の水音が微かに聞こえる。
門をくぐると、柔らかな畳の香りが一行を迎えた。
迎えたのは、フェルだった。
フェルは栗毛を軽く掻き上げ、糸目を少しだけ開き、明るい笑みを浮かべて両手をぱっと広げた。
ギルド長らしい軽やかなローブを纏い、足音を弾ませて一行に近づく。
「ようこそ! 我が温泉へ! 君たち二人は以前ロダンで見かけたね! 素晴らしい活躍だったらしいじゃないか! パンズパニックの英雄たちだなんて、街中で噂が絶えないよ。さぁ今日は楽しんでいってくれたまえ! 湯の効能は格別だ──筋肉をほぐし、心を解す、至福の湯さ」
そう言うと、フェルの背後から女将と中居が音もなく現れ、柔らかな足取りで皆を誘うように歩き始めた。
女将は帯を軽く整えながら、トリエの方へ顔を向け、深く穏やかな会釈を返す。
トリエも負けじと丁寧に頭を下げ、女将の後に続いて廊下を進む。
湯気が立ち込める向こうで、赤い髪が力強く揺れ、背筋の伸びた影が頼もしく映る。
その背を、フェルは少し離れた場所から静かに見送った。
栗毛の房を指先で巻きながら、唇を小さく結び、誰にも聞こえない声で呟いた。
「……そうか。彼が、例の」
一行は奥の客間に通されると、そこにはすでにベルの姿があった。
ベルは畳の上に胡坐をかき、銀髪を無造作に広げて酒杯を傾けていた。
机の上には大量のお菓子の食べ殻が散乱し、甘い香りが部屋を満たす。
隣には、ルゼが机に突っ伏すように体を預け、長い髪を畳に広げて欠伸をしていた。
ベルは杯を置き、銀髪を指で払いながら、のんびりとした声で迎えた。
「おー、遅かったのぉ。こっちはもう、湯上がり酒を楽しんどったわい」
トリエは障子をぴしゃりと閉め、ルゼの姿を一瞥した。
「もう飲んでるんですか!? ルゼ様まで……」
ルゼはむくりと上体を起こし、長い銀髪を指で梳かしながら、もう片方の手で眠たげに目元をごしごしこすった。
机の上の空になった菓子皿を人差し指でちょいと突き、欠伸の途中でぼそりと返す。
「誘われちゃったぁ」
ベルは酒杯を回し、畳を叩いて笑い声を上げた。
銀髪が肩に落ち、部屋の空気を和ませる。
「道すがら出会ってのぉ。せっかくの温泉じゃ! 人が多い方が楽しいじゃろ!」
トリエは畳に座り込んで頭を掻いた。
セツはエイリの隣にぴたりと寄り添い、菓子の欠片を指で摘んで口に運ぶ。
エイリは机を囲み、湯気の向こうの窓を眺めながら、皆の笑い声に肩を落とした──この穏やかな時間が、あの地獄の記憶を、少しずつ塗り替えていく──そんな気がしていた。
湯船の水音が、遠くで響く。
──休息は、静かに幕を開けた。




