第16話
砂地は血と汗の臭いで淀み、陽光に赤黒く濡れていた。
レベル四の精鋭たちが、エンプの周りを囲むように陣を張り、息を荒げて構えを取っていた。
ニクスギルドの剣士が、汗で濡れた額を拭い、柄頭を軽く確かめてから剣を構え直す。
ルゼギルドの魔法使いは掌を合わせるが、青い光はすぐに乱れ、呪文が途切れる。
エルギルドの少女は短剣を投げる。
鎌が弾き、砂煙が視界を奪う。
エンプの巨体が、低く唸る。
参加者たちの攻撃は、次第に苛烈さを増すが、致命傷を与えられない。
剣士の斬撃が前脚の付け根を浅く裂き、体液が飛び散るものの、エンプは鎌を横薙ぎに振るって反撃。
風圧が砂を鞭のように叩きつけ、剣士の体を後方に吹き飛ばす。
魔法使いの炎の槍が腹部を焦がすが、卵巣の部分だけが淡い青い膜に守られ、熱を弾くように光を反射する。
少女の連続投擲が複眼に命中し、緑色の汁が滴るが、エンプは痛みに吼え、体を跳躍させて着地と同時に鎌を振り下ろし、地面に亀裂を刻む。
参加者たちは互いに目配せし、連携を試みるが、エンプの幻術が隙を誘い、動きがわずかに乱れる。
息遣いが荒くなり、砂に膝をつく者も出始め、観客席が次第に不安の色を帯びていく。
トリエはエイリの前に立ち、背を向けたまま肩で息を整える。
エイリは膝をつき、黙って装甲を締め始めた。
カチ、カチ。
胸当てが締まり、肩当てが嵌る。
金属の冷たさが指に食い込むたび、エイリの胸が高鳴った。
エイリは黙々と紐を一本ずつ引き絞り、トリエの胸郭にぴったり沿うよう微調整する。
次に脚当てへ手を移し、膝の曲げ伸ばしを妨げぬよう慎重に締め上げた。
冷たい鋼が指に食い込む感触が、妙に落ち着く。
トリエは軽く腕を回し、装着具合を確かめて小さく頷く。
だが目は一度も砂地から離れない。
「エイリ。パンズパニックが始まったら、自分の身は自分で守れるか?」
低く、刃のように鋭い声だった。
パンズパニック。
冒険者なら誰でも知っている、モンスターの集団暴走。
通常の討伐を遥かに超える惨劇の合図。
そして今、エンプの胎動がまさにその火種となりつつあった。
エイリは最後の留め具を締め終え、トリエの背からゆっくり手を離す。
立ち上がりながら静かに答えた。
「俺はスタッフの指示に従って外に出る」
その言葉に、隣でセツがそっと体を寄せ、黒髪を揺らしてエイリの袖を掴んだ。
セツの瞳は静かに燃え、小さく、けれど確かに響く声で告げる。
「私が守る」
トリエは振り返り、二人の瞳をまっすぐ見据えた。
エイリの決意を宿した瞳と、セツの揺るぎない瞳が、ぴたりと交差する。
トリエは小さく唇を吊り上げ、力強く頷いた。
兜を手に取り、頭に被る。
革紐を後ろで固く結び、赤髪が兜の縁から零れる。
金属の面が顔を覆った瞬間、トリエの気配が刃のように研ぎ澄まされた。
「あいつを、ぶっ潰してくる」
短く言い残し、トリエは柵を軽々と跳び越え、砂地へ降り立つ。
スタッフが慌てて観客を誘導し始める。
子供を抱えた母親が後ずさり、商人たちが荷物を抱えて出口へ殺到する。
だがその喧騒の真ん中で、誰かが呟いた。
「──赤鬼だ」
トリエは腰の鞘から長剣を一閃で抜き放つ。
砂を蹴り、一直線にエンプへと突進する。
鎧が陽光を跳ね返し、ガチャリ、ガチャリと金属が鳴るたびに観客の息が止まる。
砂が深く抉れ、赤い影が煙を切り裂いて疾走する。
観客の目が、恐怖と、畏怖と、そしてわずかな希望を込めて、
ただ一人の背中に吸い寄せられていた。
「さぁ、狩るぜぇ──っ!!」
トリエの叫びが空気を裂いた。
その刹那、トリエの横をしなやかな影が音もなく滑り抜ける。
細身の体が風を纏い、砂をほとんど蹴り上げずに疾走する女性。
両手に握られた双剣が陽光を細かく弾き、銀の残像を描いた。
トリエの目が一瞬大きく見開かれ、駆けながら首をわずかに捻る。
「あぁ? ……アラ!?」
アラ──マモギルドが誇る剣姫。
二人目のレベル五到達者。
長い白髪が風を切り裂き、軽装の革鎧が体に吸い付くように揺れない。
トリエの声に応えるように、アラは顔をわずかに傾け、片手で素早くハンドサインを放つ。
指先が空気を裂き、鋭い軌跡を描いた。
──左は私。右はあなた。
二人の足並みがぴたりと揃い、獲物へと一直線に殺到する。
トリエは即座に頷き、体を右へ傾け、砂を蹴って回り込む。
エンプの鎌脚が威嚇するように振るわれる。
アラは左側を滑るように進み、二刀を低く構え、足音すら立てず位置を取る。
ニクスがお立ち台から身を乗り出し、拳を振り上げて吠えた。
「レベル四ども、よく頑張った! 一旦下がって体制を整えろ! レベル五の邪魔になる!」
レベル四の参加者たちは、息を切らせながら後退を始めた。
エンプの複眼が二人を捉え、甲殻が低く唸る。
「まずは一本!」
トリエは右から間合いを詰め、長剣を肩に担ぐように構え、砂を強く蹴って跳躍。
重い一撃をエンプの前脚に叩き込む。
刃が甲殻を砕き、金属と骨の軋む音が爆ぜ、緑色の体液が噴水のように飛び散った。
トリエの体が着地と同時に回転し、次の斬撃を準備する。
エンプの鎌が反撃に振り下ろされるが、トリエは膝を屈めて身を沈め、風圧を背中で受け止めながら剣を横薙ぎに払い、腹部の下側を浅く裂く。
「当たるかよ、そんなもん!」
体液の酸味が空気に混じり、砂を焦がす煙が立ち昇る。
「そこ!」
アラは左から影のように忍び寄り、二刀を交差させてエンプの複眼を狙う。
細身の刃が閃き、複眼の表面を二筋の傷で刻み、視界を乱す。
エンプが体を激しく振って吼え、鎌脚を横に薙ぐが、アラは体を反らし、砂の上を滑るように後退。
「遅い!」
着地と同時に二刀を逆手に持ち替え、低い軌道から脚の付け根を突き刺す。
「トリエ!」
刃先が甲殻の隙間を抉り、内部の筋肉を断ち切り、エンプの動きが一瞬鈍る。
「任せろ!」
トリエはその隙を見逃さず、右へ大きく回り込む。
長剣を頭上に掲げたまま一歩踏み込み、全身のバネを解放するように刃を振り抜いた。
重い一撃が肩口を直撃し、甲殻が粉々に砕け、破片が乾いた砂に跳ねる。
トリエは剣を横に払ってすぐさま次の斬撃を叩き込んだ。
「おらおらおらおらぁっ!!」
横、縦、斜め──剛剣の軌道が空気を圧縮し、風切り音が連続して響く。
エンプの体液がトリエの鎧を汚すが、トリエは構わず前進し、鎌の迎撃を剣の平で受け止める。
「そんなもんか!? もっと来いよ!」
トリエの体が後ろに押し戻されるが、足を砂に食い込ませて耐え、カウンターの突きを腹部に沈める。
アラは左から連携し、二刀を高速で回転させてエンプの鎌脚を絡め取る。
「遊ぶ暇はないわ、トリエ!」
刃が鎌の縁を削ぎ、回転の勢いで脚を押し返し、エンプのバランスを崩す。
アラの息は乱れず、足が砂を軽く滑らせて間合いを保ち、次の瞬間、二刀を交差させて複眼に二撃を叩き込む。
「トリエ、今よ!」
エンプが体を後ろに傾け、吼え声が闘技場を震わせる。
アラはそれを予測し、腰を沈めて一気に跳躍、空中で体を回転させ、二刀を下向きに振り下ろして背甲を裂く。
着地と同時に後退し、砂を蹴って距離を取る。
二人の動きは、一つの生き物のように連動していた。
トリエの長剣が正面から巨体を押し潰す勢いで打ち込まれ、アラの双剣が横合いから甲殻を削ぎ続ける。
エンプの巨大な鎌が弧を描いて振り下ろされるが、アラが放った短剣が鎌の内側を弾き、軌道をわずかに捻じ曲げた。
その一瞬の狂いをトリエは逃さない。
「おらぁぁぁっ!!」
剣を大きく振り被り、踏み込みと同時に渾身の斬撃を放つ。
刃はエンプの左脚を根元から薙ぎ払い、半ば以上を宙に飛ばした。
断面から噴き出す体液が砂を黒く染める。
続けてトリエは剣を腹に突き立て、甲殻をこじ開けるように横へ払う。
「しぶとい奴だな!」
剥き出しになった柔組織が熱を帯びて脈打つ。
エンプの動きが明らかに淀み、複眼が血の色に染まって二人を睨みつける。
だがトリエは一歩も退かず、剣を低く構えてから体ごと回転させ、横薙ぎの連撃を叩き込む。
刃が風を切り、甲殻を次々と弾き飛ばす。
アラはその背後を滑るように回り込み、双剣を地面すれすれに構える。
エンプが残った脚でよろめく瞬間、二刀を交差させて腱を絡め取り、全身をバネにして引き絞る。
巨体が大きく傾き、砂煙を上げて横倒しに崩れ落ちた。
エンプの巨体がよろめき、鎌が無駄に空を切り、吼え声が弱々しくなる──だが、卵巣はまだ脈打っている。
二人は息を合わせ、トリエが正面から剣を突き立て、アラが側面から二刀で喉元を狙う。
刃が甲殻を貫き、体液が噴き出す。
エンプの体が痙攣し、砂に膝をつき、ついに崩れ落ちた。
だが、卵巣には一つの傷もついていなかった。
青い膜が脈動を続け、微かな光を放ち続けている。
トリエが剣を一振りして血を払う。
「ちぃっ。母は強しってか!?」
アラは二刀を鞘に収めた。
「──強化されてるわ」
その瞬間、エンプの卵巣が激しく光り輝いた。
青い膜が膨張し、闘技場の空気を震わせ、砂粒が一斉に浮き上がる。
トリエは剣を構え直し、膝を軽く曲げて重心を落とす。
「くそっ……始まったか! でもこの魔力……エンプのじゃない!」
アラの瞳が細くなり、二刀を再び抜き放つ。
アラの声は低く、しかし警戒を込めて響いた。
「エンプの卵巣から魔力の波動が出ている……まさか……」
卵巣が裂けた。
黒いゲートが開く。
無数の影が、羽音と共に溢れ出す。
──パンズパニック、本当の地獄が今、始まる。




