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ここは地獄の一丁目  作者: 川合 佑樹


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第15話

 箱が開く重い音が、闘技場の空気を引き裂いた。

 重い木の扉が内側から弾け飛び、金属の蝶番が悲鳴を上げ、折れ曲がった。

 砂煙が爆発的に渦巻き、観客席の最前列でトリエが思わず身を乗り出した。

「おい……嘘だろ。あれは……」

 トリエの指がベンチの縁を強く掴み、隣のセツが無意識にエイリの袖を握りしめる。

 エイリは息を詰め、砂地の中央を凝視した。

 そこから湿った息遣いが漏れ、青臭い腐臭が風に乗って広がる。

 次の瞬間、参加者たちの顔から血の気が引いた。

 レベル四の精鋭たち──マモギルドの斧使いが斧の柄を握りしめ、ルゼギルドの魔法使いが掌の呪文を中断し、エルギルドの少女がマントの裾を翻して後ずさる。

 皆の瞳に、警戒の色が宿り、足が砂に沈む音が響く。

 会場全体が、息を潜めた静寂に飲み込まれる。

 太鼓の最後の響きが宙に溶け、観客の声が波のように遠のいていく。

 残ったのは、風が砂をさらさらと掻き上げる音だけ。

 箱の闇がざわりと裂けた瞬間、そこから這い出してきたのは、雌蟷螂型魔物エンプ──別名「死を呼ぶ者」

 三メートルを超す巨体。

 黒緑の甲殻は陽光を毒々しく歪め、鈍く反射する。

 細く伸びた前脚は巨大な鎌となり、腹部の卵巣がぬらぬらと脈打っていた。

 姿を変え、人を喰らう討伐レベル五。

 ダンジョンの深淵ですら、単独で冒険者を狩り尽くす忌むべき化け物が、闘技場の中央に鎮座した。

 ニクスが、マイクを握りしめたまま硬直した。

 次の瞬間、マイクに喚き散らした。

「なんで……エンプが入ってんだよ……! おいスタッフ! 炎猿はどこにやった!」

 スピーカーから迸った怒声が闘技場を震わせ、スタッフ席の男たちが椅子ごと跳ね上がった。

 しかし、パシュッ! という乾いた音が響いた。

 エンプの前脚が、閃光のように伸長し、マモギルドの斧使いの胴を捉える。

 その速さに、レベル四の斧使いすら反応できなかった。

 斧が砂に落ちる音が、遅れて響く。

 エンプは雄を主に捕食する。

 相手の脳内に“理想の女”を幻視させ、理性を奪う──

 斧使いの視界に、一瞬だけ幻が揺らめいた──柔らかな曲線を描く美女のシルエットが、砂煙の向こうで微笑み、手招きするように指を動かす。

 彼の足が、無意識に一歩踏み出し、勇猛な戦士に隙を生んだのだった。

 鎌状の前脚が空気を裂き、甲殻の縁が彼の鎧を紙のように引き裂く。

 そして、そこから地獄の始まりだった。

 エンプの覚醒──殺しと捕食、そして繁殖。

 その連鎖が、闘技場の結界を嘲笑うように始まる。

 闘技場はダメージを気絶へと変える仕組みだ。

 では捕食ではどうなるか。

 誰も試していなかった、試そうともしなかった絶望。

 その答えを、斧使いが今まさに証明してしまった。

 胴を二分され、二口で丸呑みとされる──エンプの顎がカチカチと鳴り、粘液まみれの口器が肉を噛み砕く音が、静寂を切り裂く。

 斧使いの断末魔が、喉から絞り出される。

「あ……がっ……」

 短い呻きが、砂に吸い込まれるように消え、エンプの腹部が膨張し、青く光る。

 卵巣から新たな命の脈動が、会場全体に不気味な振動を伝えた。

 観客席の女性たちが悲鳴を上げ、子供を抱きかかえる母親の腕が震える。

 トリエがエイリの腕を痛いほど強く掴んだ。

「動くな……ここももうあいつのテリトリーだ。連携が取れてるうちはレベル4でも……」

 セツの瞳が無表情にエンプを追う。

 ニクスが顔を歪め、マイクを握りしめて叫ぶ。

「くそっ……! レベル四でも囲めば勝てる相手だ! レベル五の準備が整うまで攻め続けろ! 鑑定班、奴の捕食段階は今どうなってる! 早く確認しろ! 覚醒してからだと一般人に被害が出るぞ!」

 しかし、その言葉を待つこともなく、他のレベル四の男──ニクスギルドの剣士が、幻の罠に足を踏み入れかけた。

 彼の視界に、優しい笑みを浮かべた女性の姿が揺らめく。

 足音が砂を滑らせ、剣を構えたまま前進する。

「待て……お前は……」

 剣士の声に反応し、鎌脚が再び閃く──その瞬間、ルゼギルドの魔法使いが横合いから飛び出し、簡易的に詠唱し掌に青い光を灯した。

「燃えろ! 『フレイム・ランス』」

 光の軌道が砂を焦がし、エンプの前脚を掠め、剣士の体を押し退けるように爆風を起こす。

 剣士が砂に転がり、目を擦りながら立ち上がる。

「くっ……幻か! ありがとう、ルゼの!」

 魔法使いは息を荒げ、頷く。

「連携するぞ! 俺が光で動きを封じる!」

 そこから、戦闘が本格的に始まった。

 レベル四の精鋭たちが、散らばっていた陣形を即座に立て直す。

 エルギルドの少女がマントを翻し、影のように後退しながら短剣を投げる。

「散れ!」

 刃はエンプの脚に弾かれ、跳ね返りの衝撃で少女自身が後退を強いられるが、すぐに体勢を整える。

 ニクスギルドの剣士が横合いから剣を抜き、低く構えて突進した。

「おらぁっ!」

 斬りかかるが、エンプの体が跳躍を見せ、砂を蹴って後方に逃れる。

 三メートルの巨体が空中で体を捻り、着地と同時に鎌脚を横薙ぎに振るう──風圧が砂を巻き上げ、剣士の髪を乱す。

 剣士は剣の平で受け流し、衝撃で膝を折りかけるが、魔法使いの援護が飛ぶ。

 青い光の渦がエンプの視界を覆い、動きを一瞬鈍らせる。

「今だ、脚を狙え!」

 剣士が腰を落とし、剣を斜めに振り上げ、エンプの前脚の付け根を浅く斬りつける。

 甲殻が削れ、緑色の体液が飛び散るが、エンプは痛みに吼え、体を激しく振って反撃。

 鎌脚が地面を叩き、砂の波を起こす──少女がそれを盾代わりに使い、短剣を連続で投擲。

 一発がエンプの複眼に当たり、巨体がわずかに後ずさる。

 戦いは一進一退。

 エンプの動きは現実の蟷螂を思わせ、素早い跳躍と鎌の挟撃が脅威だが、巨体ゆえに旋回が遅く、レベル四の連携がそれを封じる。

 魔法の光がエンプの幻術を乱し、剣と短剣が甲殻を削る。

 しかし、徐々に異変が訪れた。

 エンプの腹部──卵巣の部分が、淡い青い光を増していく。

 最初は微かな脈動だったものが、戦いが長引くにつれ、輝きを強め、砂地全体を不気味に照らし始める。

 光の粒子が空気に舞い、参加者たちの影を長く引き伸ばす。

 剣士が息を荒げ、額の汗を拭う。

「こいつ……光が強くなってる……何だこれ……」

 魔法使いの顔が青ざめ、掌の呪文を強化する。

 卵巣の脈動が速くなり、新たな命の気配が、会場に重くのしかかる。

「ニクス様、エンプの鑑定結果が出ました……既に捕食七段階目に突入しています……」

 ニクスがお立ち台でマイクを叩きつけるように叫んだ。

「おい全員聞け! 大会は今すぐ中止だ! 一般客とレベル2以下は即刻退場させろ! レベル5準備完了者は即座に応戦! レベル3以上は武器を抜け! 誰かがエンプを意図的に育てやがった……パンズパニックが始まるぞ!」

 ニクスの声が、苛立ちと焦りを剥き出しにして闘技場を切り裂く。

 観客席が一気に沸き立ち、どよめきが波のように押し寄せる。

 トリエの指がエイリの腕を痛いほど強く食い込ませた。

 エンプの卵巣が、まるで巨大な心臓のように激しく明滅し始めた。

 ──本当の戦いは、これからだ。


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